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第1話 いい朝の、はずだった

——あなたを殺すのは、いちばん最後と決めておりますの。


耳の奥で、あの囁きが、まだ生きている。

ひと晩たっても、消えてくれない。


「マリア、寝てねえだろ。顔が白いぞ」


隣を歩くジークハルト様が、大剣を担ぎ直しながら、赤毛の頭をかがめて覗き込んでくる。……また、心配をかけてしまっている。


「だ、大丈夫です! ちゃんと、まばたきも、していました!」

「……それは寝ていないと言うんですよ」


カイル様が、灰色の前髪の奥で、呆れた息を吐いた。先頭のレオンハルト殿下は振り向きもなさらず、金褐色の髪だけが朝日に揺れている。


私たちは、国境の演習の帰りだった。騎士団長様のご子息と、宮廷魔導師様のお弟子と、王太子殿下。そんな方々の班に、平民の回復役がひとり。それが私だ。

そして昨夜、あの村に「必ず朝に戻ります」と約束したのも、私だ。

避難する人たちを町へ送り届けて、夜明けとともに引き返してきた。


丘をひとつ越えれば、村の屋根が見えてくる。

いい朝の、はずだった。

……煙が、ない。竈の煙も、篝火の名残も。物音ひとつ、しない。

気づいたときには、駆け出していた。


***


村は、静かだった。

戸は開いたまま。魔物に踏み潰された柵も、焼けた納屋も、昨夜のまま。呼んでも、誰の返事もない。

広場に出て——足が、止まった。


みんな、眠っていた。

燃え尽きた篝火の灰を囲んで、村の人たちが横たわっている。一瞬だけ、力が抜けた。よかった、みんな眠って——

ちがう。

朝の光が頬に届いているのに、誰ひとり、まぶしがらない。眠っている人は、胸が、上下するのに。


「う、嘘……嘘です、こんなの……」


いちばん近くのおばあさんに駆け寄って、膝をついた。手を握る。昨夜、「必ず朝に戻ります」と約束して握った、その同じ手。

冷たかった。朝露よりも、ずっと。

目は、静かに閉じられていた。手は、胸の上で組まれていた。ほつれていたはずの白い髪は、綺麗に撫でつけられて——胸元には、緑の小枝が、一本。

ローズマリーだ。お薬にも、お料理にも使う、あの香草。摘みたての、澄んだ香りがした。

どうして、と思うより先に、両手を組んでいた。

光よ、どうか。

祈りは、ちゃんと灯った。白い光があふれて、おばあさんの体を包んで——そして、するりと通り抜けた。

傷が、ないのだ。

塞ぐべき傷も、繋ぐべき骨も、どこにもない。ただ命だけが、そっと持ち去られたあとだった。


顔を上げる。

隣の人も。その隣の人も。そのまた、隣も。

目を閉じ、手を組み、髪を直され、胸元にひと枝。どの人も。どの人も、どの人も。

いくつあるのか、数えかけて——やめた。数えてしまったら、ほんとうになってしまう。


環のいちばん内側、火の番の場所に、あの男の人がいた。

よく笑う人だった。魔物の爪にやられた腕を、昨夜、私はこの手で治した。「聖女さまの手は、あったけえなあ」と、この人は笑ったのだ。

目は閉じられて、手は胸の上に組まれて、ひと枝も、ちゃんと胸元にある。みんなと、同じ。

……なのに。

袖は、肘の上までまくり上げられたまま。髪も、乱れたまま。

その腕に、見覚えのある傷あとがある。私の治した傷。いまも、綺麗に塞がったまま。

この人だけ、ほんの少し、揃っていない。

まるで——途中で、手が、止まったみたいに。

……祈っても、届かないことは、わかっていた。ほんとうは、もう、わかっていたのだと思う。それでも、その人の隣に膝をつき、もう一度、両手を組んだ。

祈った。二度、三度。声に出して、喉が破れるくらい。

光は、何度でもあふれた。

治すところが、どこにも、ない。


……こんな殺し方をするものを、私は知らない。

魔物は、死んだ人の髪を直したりしない。胸に花を、置いたりしない。じゃあ、誰が。なにが。

夜の中で、そこだけがさらに濃い夜だったような——あの黒衣のひと。

みんなを助けてくれた人の姿が、頭のいちばん奥でちらりと揺れて——息が、うまく吸えなくなった。

やめて。

それ以上は、考えられなかった。考えたく、なかった。


***


村の入り口から、大柄な赤毛の剣士が駆け込んでくる。


「おい、マリア! 勝手に走るなと——」


呼び声が、広場の手前で、途切れた。

遅れて駆けつけた古びたローブの魔導師と、黒の学生服の王太子も、その隣で足を止める。


朝の光が、広場を斜めに渡っていく。

燃え尽きた篝火の灰を囲んで、死者たちが、環になって横たわっている。その中心、灰の傍らに、白い祭服の少女がひとり、膝をついたまま、動かない。

誰も、動かなかった。

朝の村に、鳥の声だけが降っていた。


最初に動いたのは、カイルだった。

杖を持ち直し、遺体の環に沿って歩きはじめる。ひとつの前で屈み、触れずに顔を寄せ、立ち上がる。同じ動作を、最初のひとつに戻るまで繰り返す。杖を握る指の節が、白い。


「……三十四人。昨夜、村に残った者の、全員です」


広場に、その声が、低く響いた。


「刃の傷も、爪痕も、見当たらない。——なのに、全員が死んでいる」


杖の先が、細かく震えていた。


「皆殺しです。そのくせ——全員、弔ってある。目を閉じさせ、手を組ませ、髪まで直して。……ご丁寧に、花まで添えて。——伝承の、とおりに」

「……ローズマリー」


マリアの声は、掠れていた。両手を、胸の前で固く握り合わせている。


「ええ。『追憶』の花です。……死者に、手向ける花だ」


ジークハルトが、大股にふたりのあいだへ割り込んだ。


「待てよ。まさか、あの魔女がやったって言いてえのか」

「他に、誰が」

「あの魔女は村を救ったんだぞ! 俺はこの目で見た! 群れひとつを、ひとりで刈り尽くして——なんで救った連中を、その晩のうちに殺す! あいつは……恩人だろうが」

「知りませんよ、そんなこと!」


カイルの声が、割れた。


「ですが、魔物はこんな殺し方をしない。獣は、死者の目を閉じさせたりしない。……昨夜のこの村で、それができたものを、私はひとつしか挙げられない」

「——やめろ。ふたりとも」


レオンハルトが、初めて口をひらいた。視線は、死者たちに向いたままだった。


「報告の与太話と、同じだ。ひと晩で館がひとつ死に絶え、遺体のすべてに花が添えられ、目撃者はいない。……昨日までは、誰も信じていなかった」


カイルが、半歩前へ出た。


「なら、手配書を——」

「出さない」


王太子の声が、朝の広場に短く落ちた。その視線が一度だけ、環の中心のマリアへ流れ、また遺体へ戻る。


「恩人と呼ぶ者と、下手人と呼ぶ者が、この場にさえ割れている。いま名を決めれば、間違える。——村は王家の名で封じる。カイル、すべて記録に残せ。町から王都へ早馬を出す。裁くのは、調べてからだ」


誰も、異を唱えなかった。朝の風だけが、死者の環の上を吹き過ぎていった。


***


殿下が、私を振り返った。


「マリア。町へ行ってくれ。……避難した者たちに、報せる者が要る」


報せる。なにを、どうやって。あの人たちの家族に、私は、なにを。

立ち尽くした私の頭に、ぽん、と大きな手が乗った。ごつごつして、重くて、剣だこだらけの、あったかい手。


「……お前のせいじゃねえ」


ジークハルト様だった。ぶっきらぼうで、いつもより低い声だった。


「お前は昨日、ここの連中を治して回った。それだけは、誰がなんと言おうと変わらねえ。……だから、そんな顔すんな」


大きな手が、頭の上で、くしゃりと動いた。

頷きたかった。はい、と言いたかった。

……頷くことも、できなかった。


***


出立の前に、もう一度だけ、広場を見た。

冷えた灰のそば、誰の胸のものでもないところに、緑のひと枝が、ひとつだけ落ちていた。

拾い上げる。摘みたての香りが、指先から、つんと立ちのぼる。

……この香りを、私はもう、憶えてしまった。きっと一生、忘れられない。


言わなきゃ、と思う。

殿下に。皆さんに。昨夜、あの黒衣のひとが、私にだけ残していった言葉のことを。

でも——なんと言えばいいのだろう。

みんなを救ってくれた方が、囁いたのだと? 殺すのは、いちばん最後だと? 私にだけ、誰にも聞こえない声で?

ちがう。ちがうかもしれない。だって、あの人は、みんなを助けてくれたのだから。

それなのに、あの綺麗に組まれた手と、あの囁きが、頭の中で触れそうになるたび——体の芯が、冷たくなる。わからない。わかりたく、ない。

口をひらけば、なにかが壊れてしまう気がした。

だから、結局。

私は、言えなかった。


ひと枝を、祭服の胸元にしまう。町へ下る道は、憎らしいほど晴れていて。

一歩ごとに、耳の奥で。


——あなたを殺すのは、いちばん最後と決めておりますの。


あの囁きは。

——まだ、生きていた。


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