救済の作法
その夜、国境の寒村を襲った災いは——ふたつあった。
村が魔物の群れに呑まれたのは、月のない、風の乾いた晩だった。
燃える納屋。踏み潰された柵。夜目にも黒い、飛蝗のような影の群れ。
悲鳴が、夜を裂いている。——それでも死者がまだひとりも出ていないのは、村全体を覆う、淡い光の膜のおかげだった。
「下がって! いま結界を張り直します!」
声の主は、白い光を纏った少女だった。
陽だまりの色をした髪が、火明かりに揺れる。学園の制服の上に、白い祭服。彼女が両手を組んで祈るたび、光が村人たちの傷を包んでいく。
——その光が、前へ出た。
「マリア、下がれ! お前は回復役だろうが!」
大柄な赤毛の学生が吠えた。まくり上げた袖に、胸当てと籠手だけの無骨な装い——大剣ごと、少女の前に割り込む。
「でも、あそこにまだ人が——!」
言い終わる前に、マリアと呼ばれた少女は駆け出していた。倒れた老人のもとへ。魔物の群れの、ただなかへ。一直線に。
——ああ。
相変わらず、無謀。
相変わらず、綺麗。
私は屋根の上から、それを見ていた。
「っ、この馬鹿……! 殿下、右を!」
「わかっている」
短く応えたのは、飾り気のない黒の学生服の剣士だった。……見るまでもない。あの男の着こなしに一分の乱れも、金褐色の髪に返り血の一滴も、この物語のどこにも書かれてはいない。腰の剣帯だけが場違いに上等で——細身の剣が閃くたび、影がひとつずつ、正確に地へ落ちる。
そのさらに後ろ。灰色がかった長い前髪の下から、戦況全体を睨む目があった。細身の学生だ。制服の上に古びた学者のローブを引っかけ、杖の先で地面に何かを描きながら、忌々しげに舌を打つ。
「……多すぎる。殿下、囲みを抜けるべきだ。この数じゃ——全員は守り切れない」
そろそろ、頃合いだろう。
魔物に喰わせるわけには、いかないの。
——ひとりも。
***
群れの中心に、それは立っていた。
誰も、現れる瞬間を見ていない。気づいたときには、もう、そこにいた。
喪服のように黒いローブ。深いフードの奥、目元まで覆う黒の面紗。袖と裾に、銀糸の古びた刺繍。夜の中で、そこだけが、さらに濃い夜だった。
いちばん近い魔物が首を巡らせ、爪を振り下ろす。
——当たらない。
爪は黒衣の輪郭をなぞって、空を切った。牙も、尾の薙ぎ払いも、何もかも。まるで最初から、そこに誰もいないかのように。
黒衣の女は、歩く。
足元から、影がほどける。糸のように、鎌のように、夜そのものが刃になって——群れを、刈る。
詠唱は、なかった。
獣の断末魔がいくつも重なった。それから夜が静かになるまでは、一瞬だった。
「す、すげえ……! なんだあんた、味方か!?」
赤毛の学生が、素直すぎる声を上げる。
黒衣の女は、答えない。
「……名乗られよ。民を救ったその御業に、王家として礼をせねばならない」
剣を収めた金褐色の剣士が進み出る。感謝の形をした、品定めの視線。
女は、わずかに首を傾げただけだった。衣擦れの音さえ、しなかった。
「——詠唱が、なかった」
灰色の前髪の学生が、杖を下ろさないまま言った。
「詠唱も、魔力の流れもなしに、あの規模の闇魔法。……それに、その装束——禁書庫の挿絵で見たことがある。『メメント』。終焉の魔女。国の滅ぶ夜に現れて、死者をひとりずつ弔って回るという」
「……その与太話なら、私も報告で読んだ」
金褐色の剣士が、剣の柄に手を置いたまま言った。
「ひと晩で、館がひとつ丸ごと死に絶える。遺体のすべてに花が添えられ——目撃者は、いない。だから誰も、信じてはいなかった」
「じゃあ、あれが……本物だってのか」
赤毛の学生の声が、掠れていた。
その場が、静まり返った。
感謝と恐怖のあいだで、空気が凍りつく。誰も、動けない。
——ひとりを、除いて。
「あの……!」
白い少女が、まっすぐに駆け寄った。
煤だらけの頬。泥と血で汚れた祭服。それでも空色の目だけが、火明かりよりもよほど眩しい。
「ありがとう、ございました! あなたが来てくださらなかったら、みんな死んでいました」
少女は躊躇なく、黒衣の女の手を取ろうとした。マリア、と咎める声。それでも、止まらない。
「お怪我はありませんか。手当てを——」
触れられる、寸前。
女の手が、するりと逃れた。
そして初めて——女は、口をひらいた。
「……あなたは」
低い、囁くような声。少女にだけ、届く声。
「そのままで、いらして」
きょとんと、少女がまばたきをする。
面紗の奥の視線が、ふと和らいだ——ように見えた。
女はわずかに身を屈め、少女の耳元へ。
「あなたを殺すのは、いちばん最後と決めておりますの」
——え。
少女が言葉を探し当てるより先に——黒衣は、消えていた。
凍りついていた空気が、ようやく息を吹き返した。
***
夜明け前に、隊列が組まれた。
子供と、立てない重傷者が荷車に乗せられていく。早馬は、いちばん近い町へ走らせてあった。
家畜と畑を捨てられないからと、歩ける者たちは村に残った。
「……あの魔女が、まだ近くにいるかもしれない」
「だとしても、全員を運ぶ手立てはない。動けない者と子供から先だ」
押し殺した声に、金褐色の剣士が短く返した。
「必ず朝に戻ります! それまで、無理はしないでくださいね!」
マリアは残る者ひとりひとりの手を握って回り、それから何度も振り返りながら、隊列とともに街道を下っていった。
誰も、気づかなかった。
村外れの巨木の陰に、黒衣がひとつ、佇んでいたことに。
見送るように。——あるいは、数えるように。
***
松明の列が街道の向こうへ消えて、村には篝火だけが残った。
残った者は、三十と四人。
黒衣の女は、彼らの真ん中へ、静かに戻ってきた。
「魔女さま」
篝火のそばにいた男が、笑いかけてきた。聖女さまの光で、傷はもう塞がりかけている——と、袖をまくって見せる。
「あんたのおかげで命拾いした。魔物どもに喰われて死ぬかと思ったよ。……ほんとうに、なんと礼を言えばいいか」
「ええ」
女は頷いた。
「魔物に喰われて消えるなど——誰にも、させませんわ」
それが合図だったかのように、篝火が、いっせいに細くなった。
「——さあ」
面紗の奥で、女は嗤う。優雅に、残酷に——その役に恥じないよう、作法のとおりに。
「あなたたちも、救ってさしあげますわね」
影が、村をつつんだ。
悲鳴は——長くは、続かなかった。
***
それから黒衣の女は、ひとりずつ、目を閉じさせて回った。
胸の上で手を組ませる。乱れた髪を直す。ローズマリーの小枝を、一本ずつ、胸元に添えていく。
追憶の花。伝承のとおりに。終焉の魔女は、殺した者を必ず弔うのだという。
最後のひとりは、あの篝火のそばの男だった。
まだ、かすかに息があった。
「な……んで……」
血の泡とともに、唇が動く。
女は答えず、ただ膝をつき、男の目を閉じさせようと手を伸ばした。
その手の先で、唇が、もう一度ひらいた。
「…………もう、じゅうぶん、です」
——それは、男の声ではなかった。
少女の声だった。
なじるのでもなく、命乞いでもなく——伸ばした手の、手袋の下の震えまで見透かしたような、どこまでも柔らかい、労りの声。
その指が、止まった。
夜風だけが、村を通り過ぎていく。
どれだけのあいだ、そうしていたのか。
「————ずるい」
誰にも届かない声が、ひとつ、夜に落ちた。
それきり黒衣の女は、長いあいだ、動かなかった。
男の瞼を下ろし、最後の一枝をその胸に置いたとき、東の空は——もう、白みはじめていた。
***
王立学園の女子寮の朝は、早い。
湯を使い、髪を乾かして、制服に袖を通す。
それから、机の抽斗の二重底を開ける。
黒い書物が、そこにいる。
鎖された表紙に、爪で刻んだような異国の文字。——悪魔と契約した魔女は、奪った命をすべて帳面に記される。伝承では、そういうことになっている。都合がいいから、そういうことにしてある。
頁をひらく。
黒い線が、昨夜の分だけ、三十四本増えている。
最初の頁に戻る。そこにはいつも、数字がひとつ。一四九万二〇八八。昨日より、三十四だけ小さい。
……まだ、白い頁のほうがずっと多い。黒はようやく、この書物の縁を舐めはじめたところだ。
先は長い。気が遠くなるほど。
それでも。昨夜より、三十四ぶんだけ、近い。
——なにに、近いのか。
破滅フラグ、というものがあるらしい。
物語の悪役が、結末の絞首台へ向かって一歩ずつ踏んでいく、敷石のこと。賢い悪役令嬢はそれを丁寧に避けて、物語の隅で静かに生き延びるものだそうだ。
——ご安心を。
わたくし、賢くありませんの。
賢い子なら、こんな脚本、とっくに燃やして逃げている。
私は逆だ。最後の頁まで諳んじた。誰が恋をして、誰が死んで、悪役令嬢がどう断罪されるのか。一行も違えないために、全部。
破滅の日に、遅れるわけにはいかないから。
***
鏡の前に立つ。
濡羽色の髪を、熱した鏝でゆっくりと縦に巻いていく。人形じみて暗い、と自分でも思う菫色の目に、傲慢の色を差す。顎の角度。扇を開く音。笑い方——全部、脚本のとおりに。
血の匂いのしない、絹とリボンの令嬢が、鏡の中に出来上がっていく。
オフィーリア・シルヴァガルディ。
公爵家の一人娘にして、王太子レオンハルト殿下の婚約者。
そして——この物語の、悪役令嬢。
……ふと、思い出す。煤だらけの頬と、火明かりより眩しい、空色。
昨夜も、綺麗だった。
今日のリボンは、空色にしよう。
脚本によれば、今日のわたくしは、中庭の渡り廊下であの子とすれ違うことになっている。
台詞も決まっている。「平民の分際で、目障りですわ」。扇を鳴らして、髪を払って、三歩で通り過ぎる。
……三歩。
三歩ぶんも、あの子の隣にいられる——はずだった。
もっとも、あの子はまだ、遠い国境の空の下だ。
予定を狂わせたのは、ほかならぬ昨夜の私。脚本どおりの逢瀬は、少しのあいだ、お預けだ。
……それでも、脚本は進む。多少遅れても、あの子は必ず、ここへ帰ってくる。
ああ、早く帰ってこないかしら。
早く、会いたい。
——マリア。
大丈夫。約束は、ちゃんと覚えている。
あなたは、いちばん最後。だからそれまで、あなたには誰も、指一本、触れさせない。
この世でいちばん危険な女の隣が、あなたにとって、いちばん安全な場所になる。
——早く、帰っていらっしゃい。
寮の鐘が鳴る。
「さあ——日常の時間ですわ」




