第91話 それでも
目を開くと陽の光が眩しかった。
空一面の暗雲はすっかり晴れて。
島の岸壁に波が静かに打ちつけていた。
「……終わったのか」
海上には巨人だけが佇んでいる。
背中を曲げて俯いて、銀の刃も元通りに。
大きな肩の上には海鳥が羽を休めていた。
二頭の荒牛は影も形もなくて。
エヴィレア王妃も、戻っては来なかった。
嵐は嘘みたいに晴れて、涼しい海風の向こうには雲一つなくて。
夏の太陽が、役目を終えてほっと息をつくみたいに天頂から少しだけ傾いていた。
まるで夢から覚めたみたいな気分だったけど。
海の向こうの巨人がいまだ、俺たちを異界に引き留めて離さなかった。
「さて」
どこか心地の良い沈黙をスクゥアが破る。
「これからどうする?」
その言葉ははっきり俺に向けられていた。
これからどうするって?
そりゃあもちろん、王女を取り戻しに──
「でも……」
ディーネの声は震えていた。
あんな光景を目の当たりにしたら当然だ。
「カイル──」
ファーガスの瞳は苦汁に揺らいでいた。
鈍感な俺にだって、今の彼の心持ちはよく分かる。
竜精と契約する俺なら、あの巨神に対抗できるかもしれない。
けれどあの力を──銀の刃を前にして“頼む”なんて言えないんだ。
俺自身だってそうだ。
仮に全力の炎を撃ちこめたとしても、巨人を止められる気がしない。
あの巨体に、みなぎる生命力に、俺の力が通じるだろうか。
そもそも巨人の心臓と化した王女を、どうやって元に戻せばいいんだ。
受けいれろ。
銀碗王は背中でそう命じていた。
……。
仕方がない。
多少の犠牲は出るかもしれない。
けれど王女の命と引き換えに、大陸の人々は新たな王に──聖女ブリギッドに従うだろう。
“敵”は巨人が全て踏み潰してしまうから。
ブリギッドは些事に煩わされることなく、姉の示した未来を受け継ぎ、新しい時代を開くだろう。
アイリーン王女らしい、のだろうか。
合理的で効率的で潔くて。
そしてあまりに容赦がなかった。
──私は、皆さんを信じていますよ。
アイリーン王女の声が響く。
曖昧な態度で人をはぐらかして、本心を隠していたけど。
彼女は最初から最後まで俺たちを信じていた。
俺たちになら任せられると、武具も環境も使命までをも与えてくれた。
何が彼女をそうまで確信させたのだろう。
未来を見通す優れた知性だろうか。
それとも“神託”のお告げなのか(結局本当だったのだろうか?)。
信じていただけじゃない。
“選定の儀"に臨んで、王の資格を得た。
少々いびつな形ではあったけれど。
アイリーン王女は自身の言葉の正しさを、自らで証明してみせた。
掲げた目標に迷わずまっすぐに進む強靭な意思と信念と、崇高な使命感。
来たる新たな時代も、きっと彼女の思い描いた通りになるんじゃないだろうか。
これでいいのかもしれない。
全ては王女が望んだこと。
だったら、その意思をこそ尊重するべきなんじゃないか。
心のどこかで俺は受け入れかけていて。
──
──愛しています。
心臓が半分に縮むみたいにぎゅっと痛んだ。
「ファーガス」
振り返って、不安に沈む“盾"に問う。
「王女のことをどう思ってる?」
ファーガスは何か言いかけてまた口を閉じる。
何度も逡巡して体を揺すって、視線を宙にさまよわせて。
「分からない」
顔を伏せて苦しそうに首を振りながら、そう答えた。
「このひと月ほどをそばで過ごして、私は結局彼女のことがほとんど分からなかった。いつも霧がかかったようにつかみどころがなくて、煙にまかれているようだった」
異界の住人。
精霊や幽精や、あるいは幽霊よりも、王女の方がずっと遠い存在で。
「口に出す言葉も、どこまで信用していいのか分からなかった。むしろ、彼女があえてそう仕向けているようだった」
愛をささやきながらも、王女はいつかくる別れを忘れはしなかったのだろう。
ファーガスに寄り添いつつも、決して全てをさらけ出しはしなかった。
……。
“理解"なんて必要なかったのかもしれない。
そもそも理解してもらえるなんて、思っていなかったのかもしれない。
侵略者の子孫。
穢れた血族。
人々からなかったもののように扱われてきた王女にとっては。
“理解”なんてそれこそ、理解できるものではなかったのかもしれない。
……。
──愛しています。
それでも。
「だが」
そうであったとしても。
「叶うなら、私はもう一度アイリーンに会いたい。会って話がしたい」
ファーガスは顔を上げて巨人の背中を見る。
「知らなくてはならない。うまく言えないが、私はもっと彼女のことを知らなくてはならない気がするんだ。彼女とまっすぐ向き合わなければならないと」
“理解できる”なんて、口が裂けても言えないけれど。
父と兄を失い王宮を追われてから今まで、王女がどれだけの絶望に囚われ孤独をかこっていたか。
幽霊屋敷の中でどれだけの葛藤に苛まれ恐怖に怯え、そして支えを必要としていたか。
そんな姿を、俺たちに見せたことは一度もなかった。
自身の抱える不安を表に出すこともなかった。
高潔や清廉だけじゃなかっただろう。
怒りや憎しみ、殺意さえも。
心の中の釜でぐつぐつ煮えたぎっていたんじゃないか。
そう。
全部“想像"だ。
俺には王女の頭の中なんて分からない。
話してくれないと分からない。
いや、話をしたって分からないかもしれない。
賢い王女の考えなんて、俺には理解できないかもしれない。
だけど。
それでも。
「カイル」
小さな手が俺に触れて。
イアが青い瞳で見上げていた。
「そうね」
ディーネがうなずいて。
「ちょっと近づき難くて正直怖かったけど……誇り高くて、素敵な人だった」
それに、と目元が寂しげに陰らせる。
「ブリちゃんだって、きっと──」
いつも明るく、笑顔を絶やさない聖女。
自由奔放に振る舞っているようで、その実誰よりも他者を思いやっている人。
姉の決意を知って彼女は何を思ったのだろう。
当然反対はしただろう。
それでも最後には還俗と王位継承を受けいれて、儀式に姉を送り出した。
その間にいったい、どれほどの苦しみが体を駆けめぐっただろう。
そして目を赤く腫らしたマーヤも。
主人を失うと分かっても、それでも忠実に務めを果たして。
みんな、それでも。
「ああ」
拳をぎゅっと握る。
イアがその上に小さな手を添えてくれると、震えが収まる。
「やろう」
かつて大陸に君臨した眷属の王。
人間に立ち向かえる相手ではないかもしれないけれど。
それでも。
「王女を、取り戻すんだ」




