第90話 銀の刃
牛が空を飛ぶ。
まるで夢の中みたいに。
飛沫の中から巨人の腕が、争う二頭の牛へと伸びた。
土気色の左腕と銀甲に包まれた右腕。
大きな指が、巨獣の顔面に突きたてられた。
骨のひしゃげる音がここまで響いた。
荒牛たちは体を左右に振って暴れるけれど、海水を無駄に散らすだけで。
王の腕は牛の頭をがんと握って放さない。
そして地響きとともに、海の上に“山”が起こる。
壁面を海水が滝のように流れ落ち、合間から巨人の背中が現れた。
踏みつけにされた痛手などものともせずに。
猛牛をつかんだまま巨人は体を起こす。
壮々ともりあがる筋肉は、まるで大地を背中に描いたみたいで。
人の顔を象って、凄まじい圧を加えてくる。
抗うなと。
受けいれろと。
運命に、従えと。
──
咆哮。
背中を大きく後ろに曲げ、巨人は嵐の空へと猛り。
そして握り潰す。
暴声の合間に、まるで岩山が崩落するみたいな重い音が弾けて。
雄々しい牛の顔がひんまがり、眼球が外に飛びだし鼻がひしゃげ、汚水色の液体が噴きでた。
抵抗する黒白の牛たちは顎までも砕かれ、吐息も弱々しく巨人の手の中でぐったりと体を寝かせてしまう。
毛並みの美しい体が苦悶に収縮をくり返して。
背中の向こうで、短い尻尾がチロチロ揺れた。
銀碗王はそのまま牛たちを持ち上げる。
顔をつかみ、凄まじい膂力で。
腕を天に伸ばす巨人。
逆さに掲げられた巨牛。
嵐の海に描かれた光景。
もはや理解の範疇にはなかった。
あれは“神”。
人など及ぶべくもない、超常存在。
──
巨人の膝が深く沈み込む。
隆起する四肢の筋肉。
漏れ出る熱い息。
全身から放たれる力の波動。
言葉を失った俺たちの前で。
ナゥザは荒牛たちを投げ飛ばした。
「……なんなんだ、これは」
ファーガスの言葉は俺たち全員の声だった。
宙を舞った牛たちが遠海に落ちて、絶壁みたいな波が巻きおこる。
遅れてきた衝撃が、俺たちの周りの雨を吹き飛ばした。
「神々の戯れだよ」
振り返るとスクゥアが腕を組んで、海にあがった白い水柱を見つめていた。
「超常者だけに許された遊びさ」
雨風が美しい横顔を避けるように吹き去る。
彼女もまた浮世離れして見えた。
「あの──」
主を放っていることよりも、俺には彼女に聞きたいことがあったけど。
「よく見ておくんだ、カイル・ノエ」
スクゥアは前を指差す。
「“父なる神”の刃を」
長く綺麗な指の先を辿っていくと。
巨人の銀腕が眩く輝いていた。
□ □ □
ごふごふと鼻を鳴らし、首を振って荒牛が起き上がる。
無惨に砕かれていた顔面は、みるみるうちに肉が盛り上がって。
たちまちに再生した眼球で巨人を睨みつけるけれど。
ふこんと、鼻息がすっぽ抜けた。
ナゥザの右腕が強い光に包まれていた。
目を覆うほどの輝きの中に、おぼろな影が動いて。
銀の手甲が変化していく。
そこで初めて気づく。
右腕は銀甲を被せているのではなく、銀甲そのものだった。
「絶えることのない戦の中で、ナゥザは腕を切り落とされ王の資格を失った」
スクゥアは一部始終を見逃すまいと、光の中でも目を見開いていた。
「けれど彼を慕う者たちが、復活を願って力を合わせ新たな“腕”を造ったんだ」
銀腕の先端が刃へと変わる。
それは長く、身の丈に匹敵するほどに伸びて。
「王位を追われどん底に落ちたナゥザは、それでも決して諦めなかった。そう生まれたものとしての己が運命を信じ、長い雌伏のときをじっと耐え、そして甦った」
刃は太くそして分厚い。
「銀の腕にあまねく大陸の生命を支えると誓い、彼は再び王となったんだ」
その内に、深い想いを宿すように。
巨人が二本の脚に力を入れ、周囲が深く沈んだ。
波はまるでナゥザを避けるように散り、岩盤を露わにして。
嵐さえもが止んでいた。
叩きつける風も、降りそそぐ雨も消え失せた。
海が、大地が、そして空が、王の道を開く。
──
割れた兜の隙間から熱い息をこぼして。
銀碗の王はゆっくりと腕を振り上げ、刃を掲げる。
そこを退けという最後の通告。
それは王たるものの慈悲であり。
退かぬものには容赦をしない、厳かな決意。
黒牛と白牛は動かない。
巨体を震わせ、意気を落として。
まるでそう生まれたものとして《・》の運命を、受けいれたかのように。
いずれにせよ、下される裁定はひとつ。
銀の刃から、星のような粒子がほとばしる。
その一瞬、俺は俺であることを忘れた。
まるで巨神のもとに世界が集まっているみたいに。
瞳に、彼の見た景色が流れこんで。
永遠にも等しい悠久の時。
彼は生きた。
求め、祈り、願い、戦い。
そして終わりなき戦乱の果て、ついに。
──“大地・生命・天空”──
光の中で、全ては一つに。
□ □ □
《よもや届くなどとは思っておらんがなぁ》
迫る銀の刃を前に“黒烏”はぼやく。
烏の本質はその“眼”にあった。
最も古き眷属の一として、大陸で起こったあらゆる出来事を観測して。
目にした事象を正確に記憶し、姿形だけでなく内なる力や性質さえも再現する。
召喚には供物を必要としたが、欲に囚われた人間たちは進んで自らを捧げた。
モリグナはそれをときに嗤い、また愛しみながら力を貸した。
他の同胞のように大陸の主導権を握ろうとあくせくすることもなく。
自由に、軽やかに、移ろう時代を漂ってきた。
《すまんのぉ》
不幸を呼び寄せたいわけではない。
ただ、モリグナにはそうすることしかできなかった。
運命には抗えない。
永い時を生きて辿り着いた境地。
あらゆる生命はそうあるべく生まれ、生きていくのみ。
人は死ぬし、神々の時代もいつか終わる。
時はただ静かに流れていく。
誰にも止めることはできない。
それが、この世界のありようなのだ。
──光の壁が迫る。
《ウルステウの娘よぉ》
エヴィレア。
時代に押し流されゆく“過去”の落とし子。
そう生まれた自らを必死で肯定し、その支えに愛を求めて。
この上なく憐れで、そして哀しい娘だった。
──鮮烈な刃の向こうには何もなく。
《勝たせてやりたかったがなぁ》
しょせんは叶わぬ願い。
敗北を定められた者にできるのは、その敗北をせめて甘美に味わうことのみ。
──そこにはただ。
口の中がひどく苦い。
何があろうと飄々と生きてきたはずが。
《我も、そろそろということかのぉ》
今は無性に、一羽の烏に戻りたかった。
──真っ白な、光。




