第83話 古の獣
黒い霧が周囲を覆うと、悪寒がぞぞっと肌をひた走った。
心臓を内からつかまれるような恐怖と圧迫感。
決して違えはしない。
眷属。
エヴィレアは眷属を喚び出そうとしている。
「──捧げます……どうぞ……さい」
大きな傷を負ったみたいに、王妃の顔が険しく歪む。
けれど強い決意は揺るがなかった。
王妃の体には黒雲のようなオーラが充満していて。
“精霊”の姿は見えないものの、その強大さは明らかだった。
「王妃は何かと契約を」
「分かりません……けれど何らかの力を得ていてもおかしくは」
アイリーン王女に聞いても、曖昧に首を振るだけだ。
英雄と呼ばれた王と、その優れた資質を受け継いだ長子をも痕跡を残すことなく殺害したのだとすれば。
凄腕の暗殺者を駒に持っていたかあるいは──自身にそれだけの力があったか。
「出でませ──」
エヴィレアの背後に暗黒が浮かび上がる。
そして果てない暗闇の向こうから、巨大な何かの片鱗が見える。
「──古の獣!」
まるで死者が墓から呼び起こされるように。
次元の亀裂を突き破って、異界のものが現世へと流れこむみたいに。
多腕の怪物が、闇の中から姿を現した。
□□□
“悪魔”。
そうとしか形容できない、奇怪な姿だった。
宙に浮かぶ巨体は幾本もの腕が生やして、それらは全て異なる生き物──獣の寄せ集めに見えた。
胸前で組んだ腕こそ人に似ていたけど、腹や背中から生えた腕は熊や狼、さらには馬の蹄の形をしたものまであった。
「なんなの……これ」
ディーネは化物の姿に目を疑っていた。
背中には鷲の翼が羽ばたいている一方で、尻からは蛇のような尻尾がうねり、その先端には馬毛がふさふさ茂っていた。
脚の先端は鉤爪になっているのに蛙みたいな水かきがあって。
体は固そうな剛毛で覆われながらも、ところどころに魚のような鱗が認められた。
まるで大陸の生き物の特徴を少しずつあわせ持っているかのようだ。
それらをごちゃ混ぜにしたようにも見えるし、分かたれる前の全てのようにも映った。
──
ごごっ、と獣の頭が俺たちに向いた。
ごつごつした天頂には太い枝みたいな角が生えて、合間にはトサカが炎のように揺らめいて。
面長な頭の上で、石のような黒い瞳が鈍く瞬いている。
鹿のような頭部に、俺は自然と地下洞穴で対峙した呪術祭司を思い出す。
けれど目の前の化物が放つ圧は桁が違った。
相対するだけで肌が粟立ち足がすくむ。
鼓動が体を突き破りそうなくらい激しく鳴って、果ての無い絶望が鉛のように圧しかかる。
「秩序を乱す不届き者──聖なる御力の前にひれ伏しなさい」
言い放つエヴィレアの額には汗が滴っている。
これだけの力を持つ怪物の召喚。
相応の代償を要するのだろう。
「ファーガスと祠へ入ってください」
儀式を乗り切って、何としてでも王女を次代の王として認めさせる。
どのみちエヴィレアは俺たちを生かしてはおかないだろう。
腹をくくるしかない。
「どうやら道は塞がれてしまったようです」
王女の言葉に振り返って、愕然とする。
黒い瘴気が背後までをも覆って、俺たちを完全に取り囲んでいた。
瘴気の合間に紫電が青光して、迂闊に近づくこともできない。
「問題ありません」
けれど王女はしごく落ち着いていた。
「ここで祈ります」
そう言って地面に膝をつき、両手を胸の前で組んだ。
儀式の手順そのものに意味なんてないと、初めから承知していたみたいに。
「天の刻まで持ちこたえることができれば十分です」
橙の瞳は覚悟を決めたように力強く輝きを増していた。
その姿の眩しさに、俺は何度目かの息を呑む。
「さんざん思い煩わせておいて虫が良いかもしれませんが──私は、皆さんを信じていますよ」
アイリーン王女は状況にそぐわない穏やかな笑みを浮かべて。
曇りのない瞳に映っていたのは、俺たちへの全幅の信頼。
──
すん、と腹の中に何かが落ちる。
それは俺の中にぴったりと収まって、瘴気に揺らぐ体を支えてくれる。
ずっとそうだった。
アイリーン王女の“声”には力があった。
未来を切り開く可能性が秘められていた。
「分かりました」
“黄昏の陽”を握りしめる。
王家伝来の宝剣が、イアの送る竜の力を十全に受け止めてくれる。
それは次代の王からの、信頼の証。
「行けるか、イア」
呼びかけると、胸の中で小さな竜精が答える。
聖域に入ってからずっと息を潜めていたけど、響く声はむしろいつもより元気そうだった。
雷雲のように厚い瘴気は、俺たちを押しつぶすようにますます圧力を強める。
「ファーガス──」
声をかけるまでもなく、鉄壁の盾は王女の前に立つ。
ファーガスもまた王女からの信頼の証──命を賭して主を守るための、鎧を身に着けていた。
「俺が前に出る。ディーネは守りを固めて周囲に気を配ってほしい」
相手が何ものであろうと、竜の力は絶対。
正面切っての戦いに負けはしないし、負けるわけにはいかない。
だからこそ、信頼できる仲間たちに後ろを任せるんだ。
「うん……大丈夫」
杖をぎゅっと握りしめてディーネは身構える。
彼女には自身の“分け身”──エリィがついている。
天才魔女の想いを受け継いだ彼女たち。
そばにいるだけでこんなに心強い仲間はいない。
「愚か者ども──」
エヴィレアの体が禍々しく黒光りする。
魔法か、あるいは精霊の力か。
自身の絶対正義を疑わない彼女の心みたいに、そのオーラは刺々しかった。