第82話 母
どうして彼女がここにいるのだろう。
エヴィレアは一人きりで護衛も連れていなかったけれど。
背中をぞわり撫でる感覚に、俺の手は剣の柄に伸びていた。
「ご用でしょうか、お継母様」
けれどアイリーン王女が俺を制し、松明をファーガスに任せて前に出た。
「申し訳ありませんが天刻が迫っておりますゆえ、手短にお願いいたします」
ピリッと弾ける空気が目に見えるようだった。
母と娘の間には、ひと息で詰められるほどの距離しかなかったけど。
途方もなく遠く、離れているように見えた。
「それが仮にも“母”に対する態度ですか」
エヴィレアは心底疎ましそうに王女を見返して。
「やはり生まれの卑しさはごまかせませんね。いかに外面を取繕ったところで、下劣な品性が洩れ出ること……」
青く美しい瞳が赤く血走る。
「よそもののミレーシア……我が君を誑かし王家の簒奪を謀った大罪人。私には初めから分っていました、あの女の醜い本性が。あの者の穢れた胎からは、穢れた胤しか落ちはしないと」
エヴィレアはよどみなく辛辣な言葉を連ねた。
「支援者たる貴族家の方々は分かっておられました。王家には我がウルステウの血こそがふさわしいと。侵略者どもの穢れた血など、決して王家に入れてはならぬと」
ぎりりと、アイリーン王女から音が鳴る。
王女は歯を砕きそうなくらい強く噛みしめて、瞳を神火と同じくらい赤く染めて。
継母を睨みつけていた。
燃え上がるような憎悪。
こんなに感情を露わにした彼女は見たことがない。
「だから父上と、兄上の命までをも奪ったのですか」
握った拳を震わせて、王女は喉から声を絞り出した。
「父を継いで強く、広い視野を持った大陸の未来の芽を、あなたは摘んだのですか。旧態依然の価値観と、自身の──自分たちの立場を守るために」
前に踏み出る王女をファーガスが止めた。
そうでなければエヴィレアに掴みかかっていたかもしれない。
……王女の言葉。
やっぱり“噂”は本当だったのだろうか。
長子を跡継ぎに据えた後の、先王の不審死。
その後にエヴィレアが有力貴族を抱き込んで実権を握り、まだ幼かった息子を王位につけてアイリーン王女たちを排除したこと。
それに異を唱え、先王を慕う者を集め反旗を翻そうとした長子──アイリーン王女の兄が暗殺されたこと。
「いわれなき罪を他人に着せようとは、心根の腐った汚物だこと」
エヴィレアは涼しげに娘の言を撥ねのけて。
「ああ、こんな噂を聞いたことがあります」
ぞっとするほどの冷たい笑みを返した。
「彼は己に流れる血を恥じて、王家の未来を憂い自ら人生に幕を降ろしたのだと」
それを“邪悪”と呼ぶことが、俺にはできなかった。
自分の信じるものだけを信じて欲するもののみを欲し、気に入らないものは排除する。
エヴィレア王妃はきっと、自分の思い描く真実を心の底から信じていて。
彼女の中には矛盾も破綻もない。
仮にエヴィレアが本当に夫と継子を殺したのだとしても、その事実はもう彼女の中に存在しないのだ。
「母として命じます、エリン。聖域から立ち去りなさい。あなたには王の資格などないし、儀式に並べる立場ですらないのだから」
エヴィレアの声はそれ自体力を持っているように、肌をぴりぴりと震わせる。
「王家はこれからも私と──王たる我が息子が守っていきます。神々に祝福された大陸の栄光の歴史を、決してミレーシアの血などに穢させはしません」
王母の眼は虚空に向けられる。
彼女の理想──王家と大陸のあるべき姿がそこに映し出されているみたいに。
「お継母様」
アイリーン王女が口を開いた。
怒りと憎しみは鳴りを潜めて、母を諭すように穏やかに。
「我々ミレーシア──“外なる者”がこの大陸……いいえ、この島を何と呼んでいるか、ご存じでしょう」
その瞳は優しい橙に瞬いて。
「“この世の果て”」
世界の辺境、最果ての地。
大いなる大陸は、世界の端っこに位置するひとつの島に過ぎない。
祝福の大地にはけれど豊かな資源が眠り、ゆえに“外”の者たちは虎視眈々侵略の機会を狙っていた。
「海の向こうではいま各国が覇権を競い合い、海魔多き海を渡って軍を動かす余裕はありません。けれど遠くない将来戦乱は必ず終息し──彼らはこの島へと侵攻するでしょう。無数の戦で鍛え上げられた兵士の群れが、ずっと進んだ兵器を携えてやってくるのです」
今の私たちでは抗えません、と王女は断じた。
権力者が己の領地と財産に固執し保身ために政を行う現状では、“外”に対抗する力を持つことはできないのだと。
だからこそ大陸の権力構造を根本的に改革して、より堅固な“国家”へと生まれ変わる必要がある。
「私たちは強くならなければなりません。来たる新たな時代を乗り越えるために」
震える声には何が込められていたのだろう。
頑なな王母への諫めか。
それとも、血の繋がりのない“母”への必死の願いだろうか。
「なるほど。いかにも侵略者の子孫らしい言葉ですね。そうして周りを惑わし、誑かして……」
理を説く娘を、けれど継母は鼻であしらった。
「魂胆は分かっています。あなたは“外”の連中と通じて、王家の転覆を謀っているのでしょう。海の向こうから兵を手引き、機に乗じて王位を簒奪しようと」
「お継母様」
言葉は届かない。
道なんて初めからなかったみたいに。
「ブリギッドが“聖女”であったのがそもそもの誤算……それでも始末をつけておくべきだった。たとえ“聖人殺し”のそしりを受けようとも、私がこの手で」
王家を守る。
エヴィレアの瞳にはたしかな決意が宿っていた。
それは“正義”。
自らの信じる正しさを為すという、絶対の意思。
「ここまでです、王女殿下」
ファーガスが祠に入るよう促す。
「向こうにはそもそも、話し合う気がありません」
そして自らを盾として前に立った。
ファーガスも最初から気づいていただろう。
エヴィレアから湧き上がる禍々しい力に。
彼女はここで決着をつけるつもりなのだ。
「我が精霊よ──」
王妃は胸に手を当てて、内に秘されたものへと語りかける。
黒い渦が巻き起こると、覚えのある感覚に肌がぞわりと粟立つ。
「──どうかお力を」
祈りに応えるように、巨大な影が周囲に湧き上がった。




