677話 魔神白竜②
「が、ぐ……ぁあ……ァ……ィ」
左目を抑え込み、ファイは蹲る。指の隙間からは大量の血が滴っており、絶えず激しい痛みが続いていた。眼を抉られたと錯覚するほどの痛みで、まともに言葉を紡ぐこともできない。
息を荒くして、必死に耐える。
それをシュウは横目に見ていた。
「普通の眼に《死滅眼》は過負荷だと思うがな」
白竜の左翼を奪ったのは、ファイの放つ死の魔眼であった。局所的に冥界を観測し、強引に死滅させる恐るべき力である。
当然、強力な力に見合ったリスクも伴う。冥界という『死』そのものの法則を目の当たりにしてしまった眼球は細胞ごと死滅へと近づいていく。ラ・ピテル一族の魔眼のように、魔力耐性が高い特別な眼でもなければまず運用不可能な代物だった。
「ァ……ハ、ァ……僕、は……」
「だが失明した甲斐はあったな。白竜が落ちる」
右眼はシンクへと託し、左目も今しがた潰えた。
もはやファイの両目は光を宿していない。しかし全身を貫く地揺れが成果を感じさせてくれる。ただ痛みのためか全身から脂汗が滲み、シュウに返答する余裕などない。
『シュウさん』
「ん? アイリスか。過去転送の術式開発が終わったのか?」
『いえ、それがちょっとしたお客様がいらっしゃって』
「妖精郷に?」
『はい』
妖精郷は秘境だ。
一般的には客人など訪れないし、訪れる相手も限られている。それもアイリスがわざわざ客人というくらいなのだから、対象は絞られたも同然だ。
「アポプリスからの使者か?」
『はい。それもアスモデウスさんなのです』
ルシフェルの伴侶として控える悪魔種の『王』だ。想定を遥かに上回る大物である。大抵の場合、終焉騎士団のいずれかが使者となるため、相当重要な案件であることが窺えた。
「悪いが手を離せない。通話で済む話か?」
『それが私たちの計画に手を貸したいそうです』
「どういうことだ?」
『私からお話ししますわ』
突如として声が変わった。淫蕩に満ちた、蠱惑的な声だ。
「アスモデウスか」
『ええ冥王様。お久しゅうございますね。お忙しいようですので手短にお話いたしましょう。邪神ニャルラトホテプにお仕置きしたく、ご協力させていただきたいのです』
「ダンジョンコアの裏に潜んでいる奴だな?」
『ご存じでしたか。ええ、そうでしょう』
大物の口から大物の名が飛び出てきた。
これは通話で片付けていい話ではないとシュウも思う。しかし現実としてそうするしかないことが歯痒い。
『あの邪神は少々やりすぎているようです。我が神を愚弄し、道化のふりをして混沌をもたらそうとしています。私はそれを疎ましく思っております。主が整えられた庭を壊そうとする害獣は駆除してしまわなければ』
「なるほど。具体的には?」
『私の魔法を御貸しいたします。虚無に対して大変効果的だと自負しておりますわ』
「精神魔法か。魅力的だな」
想像以上の好待遇に思えた。
紡ぐ叛威の結合呪詛はダンジョンコア用に調整してある。ニャルラトホテプが混じった存在は想定していない。その改良をアスモデウスが手伝ってくれるならば、作戦の確度は高くなる。
(問題があるとすれば、重要な部分を任せてしまう点か)
仮に何かを仕込まれていたとして、気付く術もない。そうなれば計画がまた狂う。
考え込んでいると、アスモデウスも懸念を察したらしい。
『我が神は滅びも混沌もまた享楽とお考えですが、私は違いますわ。虚無は虚無の世界で生きるべきなのです。あの邪神に仕置きをしなければ』
「俺の魔法でも可能だ」
『魂を奪う力ですね。確かに可能でしょう。しかしニャルラトホテプは変幻自在。奴の混沌呪詛は死の沼すらするりと抜けてしまいますわ。計画通り、ダンジョンコアは封じられるかもしれませんが』
「……こっちの計画を知っているのか」
『ふふ。アイリス様の心を読ませていただきましたのよ』
『読まれちゃったのですよー……』
抗いようのないことだ。
シュウもこれについては言うべきこともない。むしろ死魔法の加護を持つアイリスから情報を抜き取ったアスモデウスの手腕が凄まじいのだ。
『不確定要素を確実に絡めとることができますわ。信じていただくためにも我が神の前に姿を現した道化のことをお伝えいたします』
「なん……ッ!」
見知らぬ光景が流れ込んでくる。
シュウは魔術の制御を手放すところであった。精神魔法を使った記憶の伝達。それによってルシフェルと交渉する道化の姿が記憶に刻まれる。
圧縮された情報ゆえに、事は一瞬。
しかしそれで這い寄る混沌という邪神の一端を理解する。
「分かった分かった。厄介な奴ということはな。協力してもらう」
『ええ。頼まれましたわ。共にあの邪神を懲らしめましょう』
ぷつりと通話は途切れる。
変わらずファイは蹲って痛みに耐えており、遠くでは地に落ちた白竜との激戦が続いている。今も遺跡の瓦礫を使って動きを制限し、支援をしているところだ。ただ地上戦になったところでまだ油断はできない。
(アスモデウスが裏切った場合の備えは考えるとして、まずはここで勝ちを拾わなければな。シンク一人では白竜の討伐も厳しいか)
ミルディは先ほど、白竜の石化で死んだ。
だからシンクも猛攻を一身に受け止めることになり、苦戦している。しかしながらシュウはこれを覆す。今一時だけ、死の運命を捻じ曲げるのだ。
「無念だろう? ミルディ・リンディス。人間性を捨てる覚悟があるなら、機会をやる」
この世ならざる世界、煉獄へと向けてシュウは言葉を投げかけた。
◆◆◆
『死』とはどのようなものか、その運命にある者は知ることがない。それを知る瞬間になれば、もはや経験を伝える段階にはないからだ。
(ああ、虚しい)
ミルディは死を目の当たりにした。
ただ暗く、何も感じない。延々と続く闇の中で、指先一つも動かせない。ただ思い出すは、死の前の記憶。そして強く残る後悔だけ。
(もっとやり方はあったわ。ああすれば……あんなことを言わなければ)
剥き出しの魂となったからこそ、その想いは鮮明に思い出せる。深い闇の中ゆえに、色褪せもない。だからこそ、後悔は一層深くなる。
――まだ生きたいか?
それは思い出が生み出す幻聴かと、初めは思った。
――為すべきことがあるだろう?
二度目の声は、よりはっきりとしていた。
少なくとも幻聴ではないと理解した。だから問い返す。口は動かないが、心だけでも動かす。
(あなたは……?)
『死んでも死にきれない魂ならば、生き返らせてやろう。お前を呪い、不死を与える』
(不死? 呪い?)
『白竜に殺され、お前は終わった。だが戦いは続いている』
ミルディの魂はぼんやりとした景色を知覚する。白竜と、シンクが激闘を繰り広げる光景だ。翼を奪われた白竜は全身から光る鎖を生み出し、それを振り回しながら暴れている。樹木が蛇のように地を這い、次々と黒い穴が発生して周囲のものを呑み込んだ。
目を見張る技巧でシンクは立ち回り、その猛攻を凌ぎきっていた。
(ああ!)
しかし見ているミルディは気が気でない。一瞬の迷い、一手の誤り、それが死に繋がる。
白竜は豪快に黒い風と雷を巻き起こし、シンクを叩き潰そうとする。大味で本能に任せた攻撃ですら、全てが致命的だ。まさしく死と隣り合わせの戦いである。
(アルネが、あんな風に。私はただ見ていることしか……)
悔しさが染みわたる中、ミルディは思い起こす。
生き返らせる。呪い、不死の力を与える。それが求めてやまないものだと知る。
(頼みます。私を、あそこへ)
『死に魂を売り渡す覚悟ができたらしいな』
(ええ、私は後悔したまま消えたくありません)
『その魂が擦り切れるまで、戦うがいい』
ミルディは意識が浮上していく。
一面の闇が少しずつ晴れていき、目の前が白く染まっていく。
(これが生き返るという感覚。私くらいなものかもしれませんね。黄泉返り、とは)
彼女は二度目を得た。
更にその次も、次も、魂が死を選ぶ時まで滅びぬ生を得た。
◆◆◆
白竜は咆哮と共に黒い雷撃を吐き出す。直線状を塵に変えてしまう即死の雷だ。シンクは予兆を感じると同時に動き出し、その射線からずれていた。
(先代魔神の能力が厄介すぎる。他の能力も多彩だ。いったい幾つ持っている!?)
樹木の力と黒い穴の力はかつて見たことのあるものだ。聖騎士の同僚であった者たちの力と一致している。しかし知っていたところで対応できる類のものではない。
また翼こそ奪ったが現在進行形で再生中であり、再度切り落として空へ逃げられないよう対処しなければならない。合間に放たれる炎の魔術も高威力で侮れないものばかりだ。
唯一、石化の視線は覚醒しているシンクには無関係だった。
「キィィィイイイ!」
精神恐慌の絶叫はシンクの身体を僅かに硬直させ、その隙に黒い嵐が放たれる。シュウの魔術によって間に遺跡が挟まれ、その砕けた瓦礫に身を隠すことでシンクは回避した。
『意』を飛ばし、その後すぐに気配を薄めて瓦礫へと身を潜める。シンクの強烈な殺意に反応した白竜は、『意』の残る場所を執拗に攻撃した。
(やはり思考が獣に近い。本能で動いている)
シンクの修めるハイレイン流剣秘術は歩法と気配の操作から成り立つ。剣術そのものよりも、剣のための技術が多い。精神修行の割合が多く取っつきにくいが、会得してしまえば猛威を振るう。特に魔物や動物のような、本能で動く相手は得意だ。
無事に背後を取ったシンクは練り上げた聖なる刃を以て、再生中の翼を切り落とす。
これでまた、空は遠のいた。
「クァアアアア!」
「追撃は無理か」
光る鎖がシンクを追尾しつつ叩きつけられ、樹木が地面を割って増えていく。シンクは再び遺跡へと身を隠し、気配を消して白竜の捕捉から逃れた。無尽蔵に増えていく樹木は死の呪いによって逐次滅ぼされ、灰となって消失する。
暴食の穴が連続して生成され、その隙間を縫うようにして黒い暴風が解き放たれた。
(化け物過ぎる)
回避する場所もない攻撃密度だ。仕方なく聖なる刃で切り裂き、術を無効化して逃げ場を作った。しかしそうすれば、当然ながら白竜にも感知されてしまう。
黒い雷撃が放たれ、シンクは回避してまた隠れる。
最初の焼き直しだ。
(ここまでとは。厄介な破壊の羽を奪ってもまだ手が足りない)
シンクは歯噛みした。
決め手がなく、手数もない。一歩届かない口惜しさが焦りに繋がる。だがここは一つの間違いが死を呼ぶ極限の戦場。その焦りの気配を、白竜は捕らえた。
「ッ! しま――」
足元に生えた樹木によって感覚を見誤った。体勢を崩すほどではないが、究極のバランスが初めて傾いた。その一瞬を白竜は見逃さず、黒い暴風、光の鎖、黒い雷撃、そして暴食の穴と順に詰めていく。守勢に回ったシンクはそこから抜け出せず、着実に終わりへと近づけられていた。
シンク自身、このままではあと数手で殺されると理解しても対策がない。
光の鎖を弾き、振り回される尾を受け流し、黒い雷撃を避け、飛び散る破片に肌を裂かれようと耐え、石化の視線から逃れるため宙へと身を躍らせ、遂に樹木の鞭が直撃する。
「が、っは……ッ!」
肺から空気が押し出され、激しく脳を揺らされた。一瞬とはいえ意識も飛んだ。
そして目の前に迫る白竜に牙。
(避けれない)
シンクの意思に反して、身体は動かない。極限の状況だからか、世界はゆっくりに見える。避けられる、避けなければと強く思っても力が入らない。
(こんなところで、死ねない! セルア様のためにッ!)
ただ死を受け入れることなく、意思を強く保ち続けたシンクは高潔といえよう。己のためではなく、誰かのために生きたいと願う。その心意気に、奇跡の右眼は応えた。
絶体絶命の中に残された、万が一の可能性。
起こり得ぬ奇跡を複数積み重ねた末にあり得る唯一の解答を、シンクは見た。
「アルネッ!」
シンクを喰らおうとする白竜の頭上より火球が落ちる。魔神白竜にある本来の名を呼び、魔術を放ったのは石化して死んだはずのミルディであった。塵となって消えたはずの彼女は黄泉返りを為し、シンク生存の可能性に光明を与えた。
鱗に弾かれ、火傷もさせられない程度の火球。
しかしそれで生じた一瞬によって、シンクは動けるようになる。諦めて死を受け入れていては決して間に合わなかった。最期の瞬間まで生を掴もうとした執念が、不可能を可能に変える。
(最善の手は――迎撃!)
回避しようとすれば、必ずどこかを欠損する。その未来を見た。
唯一の正解は聖なる刃を取り回しの良い短刀として生み出し、投げること。そして白竜が今まさにシンクを噛み砕こうとしているその口へと放り込む。無論それだけではいけない。投げた瞬間、短刀として形成した刃を巨大化させるのだ。
鱗もなく柔らかい口腔内で巨大化した刃は白竜の顎を縦に貫き、その口を閉じられなくする。
ただしシンクの手から離れた聖なる刃はすぐに霧散してしまうため、安心もしていられない。噛み砕かれることなく生き延びた彼は、身を捩って飛び跳ね、その場から逃れた。
「生きていたのかミルディ!?」
「死んでも死に切れませんので。あなたも死ぬところでしたね」
「ああ。助かった」
青白い粒子となって聖なる刃は消失し、穴の開いた白竜の口もすぐ再生する。先ほどよりもさらに怒り狂っているようだ。
「私は死にません。あの子を止めるまでは」
「俺も死ねない。セルア様をお助けするまでは」
冥府に呪われ、一時の不死を得たミルディ。
新たな刃を生み出すシンク。
二人は史上最強の魔神を討つべく、ここに本当の意味で共闘関係となった。
死滅眼は一度の使用で失明リスクあるため、簡単には使えないです。
魔眼の類を持っていて、魔力耐性がそこそこあれば2、3回くらいいけます。




