669話 最強最悪の魔神
ミルディ・リンディスにとって星盤祖への信仰は当たり前のものだった。名家リンディス家に生まれ、父は高名な神官で、最高神官にまでなった。星盤祖こそが正義だった。
しかし今、それが崩れようとしていた。
(星盤祖って何?)
初めて抱いた違和感。
魔神の呪いについて知った時は思いもしなかった。しかし冷静になればおかしなところにも気づく。
(聖守が次の魔神になるならば、どうして星盤祖は何もしてくれないの? 預言で何も教えてくれないのはなぜ?)
都合がいいからだ。
強大な敵として魔神が存在する限り、人々に安寧はない。安寧がなければ星盤祖へ依存するようになっていく。信仰を集めることは、神と呼ばれる存在にとって重要なことだろう。
「あの」
「え?」
ずっと思考に沈んでいたミルディは、思わず肩を飛び跳ねさせてしまう。声をかけたのはアイリスであった。
「深刻そうな顔をしているのです」
「それは……えぇ」
「無理もないのですよ。アルネさんは魔神になってしまいましたし、嫌な話も聞きましたよね。魔神と星盤祖について」
「正直、信じがたいですよ」
信じがたい、というよりも信じたくない気持ちが強い。
人生を形作ってきた思想を丸ごと否定されたのだ。今はただ混乱している。理解の及ばない話のために、まだ整理できていないだけだ。
「んー。でもここまで知ってしまったミルディさんには考えることを止めないで欲しいのですよ」
「……私は六聖です。信仰を捨てたくは、ない」
「ミルディさん、神は決して与える存在ではないのですよ。その存在にすっかり委ねてしまったら、きっと後悔します。たとえ不幸になるとしても、自分自身で決めた道ならばきっと悔いはないのです」
すぐに返答はできなかった。
もしかすると自分が信じてきた星盤祖が悪魔のような存在かもしれない。そんなこと、認められるはずなかったのだ。
◆◆◆
「セルア・ノアール・ハイレン……? どこかで聞いた名だな」
次の聖守の名を耳にしたシュウは、まず記憶を掘り起こし、すぐに思い至った。
「あぁ、『聖女』か」
終焉戦争以前の魔神教が抱えていた覚醒魔装士の一人、『聖女』のことだ。『剣聖』シンクとはセットで扱われることが多く、思い出しやすかった。
しかしそれで納得するわけではない。
「生きているのか? 二千年前から」
「分からない。生きていると言えるのか。俺が見た彼女は眠っているようにも、祈っているようにも見えた。断片的ではっきりとは言えない」
「未来ではどうやって魔神を倒した?」
「あの方の力は聖なる光だ。それ以外ない」
「……おかしな言い方だな。見えていないのか?」
シンクは頷く。
右の眼に輝く青い瞳は、どこか曇っているように思える。本来の継承者ではないがゆえに、適合できていないのだ。
「ならばシンクが魔神を討つか、『聖女』が魔神を討つか。それで未来が変わるということだな」
ようやく全ての情報が揃ってきた。そんな感覚だった。
またダンジョンコアを滅ぼす計画も大きく変わる。より完全なものとして書き換わる。二千年間の中に必要な伏線が散りばめられていたと知り、シュウは戦慄すら覚えた。
「恐ろしいものだな、セシリア・ラ・ピテル。あの女が描いてきた絵が、ここで完成しつつある。これが全て見えていたとはな」
「僕の初代様だからね。でも初代様の真に恐ろしいところは精神性だよ。僕は数年の未来を見るだけで擦り切れそうだった。でも、あの方は千年、二千年を見通していた。たった一つの正解だと確信した未来のため、幾万もの死すら許容した」
「あとから考えれば確かに正解だった、と思わされるのは癪だがな」
「……果たしてそうだろうか」
敬意と畏怖を抱くファイ。
呆れと苛立ちを覚えるシュウ。
その二人とは異なり、シンクは別の答えを見出していた。それはセシリアと交わした最後の会話が理由だ。後に終焉戦争と呼ばれる大戦を止めるため、彼女の未来視を求めた。その時のことである。
「あの方は俺に選ばせようとしてたように思える。二千年前にいた最後の日、俺は未来視を求めて戦った。もしも俺が勝利していたなら、今の世界はなかったように思う。セシリア・ラ・ピテルは諦観し、世界の行く末を憂い、残酷な未来を描くだけではなかったはずだ。俺に違う未来を見せて欲しいと願っているようにも見えた」
「……そうかい。僕は分かるよ、その気持ちが」
「もう取り戻せない過去だ。でも、未来を創れる。未来を創って、過去に託せる。俺にとってはそれが希望だ。二千年も待たせてしまったが、今度こそセルア様を救う」
すべきことは一つ。
誰よりも早く、魔神となったアルネを殺すこと。
(こんなはずじゃ、なかったのに)
魔神は不幸な存在だ。
気を狂わせるほどの呪いに浸され、意思とは関係なく悪意へと転じさせられる。ただ世界のために、ひたむきになった聖守が犠牲となる。哀れで、許しがたいことだった。
(なんて無力なんだ。僕という男は)
シュウとシンクが今後の計画を語り合う中、密かに拳を握りしめていた。爪が食い込み、皮膚が裂けるほど強く。それでも晴れない悔しさに、震えつつ。
◆◆◆
魔神となったアルネには、彼女の意識というものがなかった。
初代魔神アリエットの愛憎、二代目魔神スレイの正義、三代目魔神バアル・ゼブルの憤怒、それらはアルネの精神を壊すだけのものだった。
『憎い、滅ぼせ。邪魔なものを全て!』
『正しくあれ。世界の義となれ!』
『愛しているのに。離れたくないのに!』
ずっと誰かが叫んでいる。
黒い感情が湧きあがり、呼吸のように力を振り撒く。羽ばたき一つで黒い暴風と雷を巻き起こし、舞い散る羽が万物を塵に変える。
シュリット神聖王国より遥か北の土地、魔力の嵐が穢す不毛の世界。破滅級や絶望級の魔物が跋扈するこの領域においても魔神白竜は隔絶していた。
「ォォオオッ!」
黒穀躯、という魔物がいた。
おおよそ成人男性の三倍にもなる巨躯を誇る、巨人系の魔物だ。鋼を凌駕する黒い肉体は無敵の防御力を誇り、禁呪すら無効化するほどの魔力耐性を持つ。同格の魔物ですら黒穀躯を傷つけること能わず、魔物たちから王として崇められるほどの個体である。
――従え
それが黒穀躯の命令だった。
白竜の鱗は酷く目立ち、己の領域を侵された王の不興を買った。無敵を確信する黒穀躯は白竜を従えることで王威を示そうとしたのだ。
だが、それが間違いであった。
「クルァアアアアアッ!」
羽を放射し、白竜は吼える。
万物を砕き塵にする羽も、黒穀躯には効かなかった。しかしそれの従える魔物たちには有効であったらしい。
そして羽が効かぬと理解した白竜は、魂の赴くままに異能を行使する。
突如として空間に開く黒い穴。
分け隔てなく吸い込む暴食の穴。
音もなく、呆気なく、黒穀躯はこの世から消失する。白竜に飲み込まれ、その魔力も魂も糧となった。
「キアッ! キアアアアア!」
歓喜の声だった。
砂漠にあって、渇いた人が水を見つけたように。魔神白竜は莫大な魔力を飲み干そうとする。人間にとっては有害な魔力の嵐も、白竜からすればこの世で最も甘い蜜も同然だった。
『奪え! 全部奪え!』
『力を得よ。秩序となるために』
『何もいらない。ただ一つ欲しいだけ』
白竜を苛む声は止まることがない。振り払うように羽を散らしても、黒い嵐を巻き起こしても、暴食の穴で気に入らない魔物を吞み込んでも。
渇きは満たせず、魔力という魔力を取り込んでいく。
黒い粒が白竜へと吸い込まれていったが、純白の鱗が色褪せることはない。魔境と言っても差し支えないこの土地において、白竜は瞬時に頂点へと躍り出た。
「キアアアアアアッ!」
魔神白竜は渇いている。
本来、覚醒して初めて叶うはずだった白竜への完全変化を継続しているからだ。どれだけ魔力を奪っても、ひび割れた壺のように抜けていく。だから魔力吸収を使って、魔力を奪い続ける。
ここは二千年前、黄金要塞がもたらした厄災の地。
あのセシリア・ラ・ピテルが命じてそうさせた場所だ。
決して消えることのなかった魔力の嵐が、白竜によって吸収されていく。高濃度の魔力が吹き荒れる空が晴れていく。植物すら存在できなかった穢れた土地が色を取り戻す。
『なんだか、あたたかい』
一瞬、アルネの意識が浮上する。
しかしすぐに魔神の意思に塗り潰され、魂は呪いの深みへと沈められてしまった。白竜を脅威とみなした魔物が次々と襲い掛かる。しかしまるで相手になっていない。
軍勢を従える不死属の王は黒い風に沈んだ。
溶解液と共に現れた海月の怪物は暴食の穴に飲み込まれた。
刃物の如き気配を放つ鬼の武人は光の鎖に締め上げられ、噛み千切られた。
呪いを放つ悪霊は光の嵐で砕け散った。
一国を容易く滅ぼす魔物たちは、等しく白竜に平らげられた。
「―――――――――ッ!」
超音波にも届く高周波の咆哮が空気を揺らす。同時に不毛であった大地が芽吹き、樹木にまで育つ。それらは雑多な魔物を呑み込み、その魔力を奪い尽くし、養分として大樹へ至る。
白竜は頂点へと君臨していた。
あれに挑んではならないと、魔物たちに思わせたのだ。ただ一つの獣を除いて。
「ヴォオオオオオッ!」
獣は白竜へと対抗するように吼えた。
全身の毛が逆立ち、燃え上がるような黒い魔力の奔流が獣より放たれる。白竜はそれを獣であると断じたが、人にも近しい。肌には黒い魔力が染みつき、胸には網目のような模様が浮かんでいる。眼は燃えるような欲に染まっており、白竜を獲物と定めていた。
『あれは、敵!』
白竜の中に眠る本能が訴える。
魔力汚染を喰らい尽くした今の白竜はほぼ完全だ。それでもなお、あの獣を敵と見定めなければならなかった。複数の異能を使いこなし、空というアドバンテージを得ていても感じる脅威。
そしてそれは獣にとっても同じ。
破滅の魔物すらも下し、覇者であった獣にとって白竜は明確な敵だった。
「――――ッ!」
「ォォオオオ!」
威嚇のためか、あるいは宣告か。
此方が王で、お前は下。それを押し付け合う。まず動いたのは獣であった。
「グバァッ!」
手を鉤爪のようにした。
すると黒い魔力が肌を伝い、泡立ちながら腕を覆う。そこから魔力が巨大な手を形作った。獣が白竜へと腕を伸ばすと、魔力が伸びていく。魔力の手は白竜を掴むほど大きく、そして早かった。予想外の攻撃のためか白竜は対応できず、そのまま地上へと引きずり降ろされ、叩きつけられる。
「喰ラ、ウ……」
獣は人の言葉を発した。
しかしそれは現代において誰も使っていない、終焉戦争以前のもの。しかしながらそこに意思はなく、ただ条件反射で言葉を紡いだに過ぎない。熱いものに触れたら手を引くようなもの。
戦って、勝って、敵を喰らう。
強い敵を打ち倒し、己の血肉とする。
それが奈落の獣、ヴェルドラ・ナラクなのだから。
「ヴォオオオオオッ!」
終焉戦争以前、黒猫の『暴竜』だったナラクはいない。彼の意思は死んだ。今はただ、その肉体に宿る本能を魔力が動かしているだけ。
既に本来の肉体は朽ち果て、削ぎ落され、魔力によって再構築されている。魔力汚染された土地がそれを可能とした。
狩って、勝って、全てを奪い、覇者となる。
ただその想いだけが残り、突き動かされる獣だ。
「――ァ?」
獣は不意に止まった。
己の中に渦巻く力の奔流が、半減したように感じたからだ。白竜を掴む黒い魔力も霧散してしまう。自由となった白竜は、身体に付着した土を払い落とすように全身を震わせていた。
そして奈落の獣を一瞥し、鼻を鳴らす。
「ゴバァハァ!?」
獣は黒いヘドロのようなものを吐き出す。そしてようやく気付いた。
胸の中心を、黒い風の剣によって貫かれていたことに。風の剣は獣の体内を抉り続け、全身の細胞を破壊しようとしている。
いつ、どうやって。
答えは目の前で示された。白竜が天を仰ぐと、黒い風が収束する。それらは剣のような形状となって固定され、切先を獣へと向けた。それも二つ、三つと数を増やし、すぐに軽く二十を超えてしまう。
「ゴァ……ォオオオッ!」
奈落の獣は胸に刺さる風の剣を掴み、己の魔力で砕いた。風の破片が体内を蹂躙するが、そんなものは再生能力で押し切った。
そして殺到する風の剣を撃ち落とそうとする。
魔力を滲ませ、爪と為し、先と同じように打ち砕く。しかしながら獣が剣を撃ち落とせど、風は解けて彼を傷つけるのみ。手応えはない。
『愚か者め』
どこか無機質な声が響く。奈落の獣は白竜の背後に光る天秤を幻視した。
天秤は傾き、世界が夜のように黒く反転する。
『《秩序星廟》』
星のような光を見た。
それが獣を打ち砕く。嵐のように殺到する光が、跡形もなく消し飛ばしてしまった。
「キアアアアアアア―――ッ!」
白竜は咆哮する。
勝利の喜びなどない。今のは戦いではなかったからだ。ただの蹂躙、あるいは作業。
『殺せ、滅ぼせ、聖守に復讐を!』
魔神にとっての原初の願い。
最も強いその呪いが白竜を突き動かす。北の地にあった魔力汚染を喰らい尽くした今、次なる目標は新たなる聖守の打倒であった。
羽を広げる。
舞い散るそれは無為の破壊を生み出した。




