662話 動く者、阻止する者
魔神バアル・ゼブルが復活した地は、ヴァナスレイから近いと言えど徒歩圏内とは言えない。そもそも幾つもの都市を荒廃させ、最恐最悪の名声をほしいままにしたのだ。封印の地は黒い嵐によって更地となり、聖フィルの塔が寂しく建つだけだった。
今やその塔も崩れ去り、この地はまさに世の終わりのようであるが。
「戻って来たな」
荒野に降り立つ三つの影。
既に東の空は白み始め、冷たい風が吹き抜ける。
「シュウさん、私は少し離れますね」
「分かった。露払いは頼むぞ」
飛行の魔術まで使ってここまで急いだが、アイリスはまた飛んで来た道を戻り始めた。これにはアルネも困惑してしまう。
そしてここは魔神と命のやり取りをしたばかりの場所だ。
日を跨いでいるとはいえ、まだ鮮明に思い出せる。ここにきてアルネは急に恐ろしくなった。
「あの、社長は……」
「周りに被害が及ばないように準備している。俺たちは魔神のところに向かうぞ」
シュウは先に歩き始めたが、アルネは動かない。
視線を落とし、己の身を強く抱きしめる。自分でも震えているのが分かった。
(怖い)
情けなくて仕方がなかった。
幼い頃は聖守になりたいなどと声高々に叫んでいた。無知で子供ゆえの夢だったとはいえ、その影響を受けて聖石寮に入った部分もある。星盤祖に身体も魔力も捧げ、国のために戦うことを格好いいと思っていた。
「どうしたアルネ?」
「私、やっぱり聖守なはずありません」
「なぜだ? お前は確かに聖守だ。ファイから聞いただろう」
「だって私……怖いと思っているんです。魔神と戦って死ぬのが怖い。歴代の聖守様みたいに勇敢じゃない。こんな私が聖守なわけがないです」
ずっと溜め込んでいた感情だった。
ガレス市の赤い夜で死を目の当たりにし、そして魔神との戦いの中にも飛び込んだ。あんなもの、二度と御免だ。死と破壊を体感し、強くそう思った。
「聖スレイ、聖デュオニクス、聖ラグルズ、聖ヘクトール、聖クィグィリナス、聖ティア、聖ロールズ、聖ラスター、聖ボウローフ、聖ネオン、聖セントミリア、聖クァル、聖オーズ、聖ロックス、聖グランベル、聖パラドリアル、聖ベル、聖フィル、聖リリアーヌ、聖アロセス」
「聖守の名前か? 本当に暗唱できるんだな」
「私は全ての聖守様の名前も偉業も覚えています。そして憧れました。本当に凄い人たちで、本当に英雄だったんだと信じて。そんな風になりたいなんて、分不相応な願いまで抱いて。命懸けで使命に殉じた方が本当に多いんです。シュウ部長は知っていましたか?」
「あぁ、それなりには。悲惨な結末も幾つか知っている」
「私もです。だから考えてしまいます。私もそんな終わりが待っているんじゃないかって。あの魔神を見たから、余計に」
ここまできて怖気づくのは、シュウからしても想定外だった。しかしながら彼女の言葉を聞いて理解すれば、それも当然と思える。
(これまでのアルネを知って、大丈夫だと思い込んでいたな。家を飛び出して傭兵会社に駆け込むような奴だ。度胸も覚悟も人一倍と思っていたが……少し見誤ったか)
そして彼女の場合、ただ死が怖いだけではない。
理想と現実の間にあるギャップを知り、己の無力さを嘆いている。自分自身にがっかりしているのだ。黄金要塞での戦いでほとんど役に立てなかったことも、彼女を苛んでいる。
「アルネ……」
どう声をかけて慰め、あるいは励ますべきか。
ほんの少しだけ言葉に詰まったのち、シュウは続きを語った。
「お前が聖守として生まれたなら、どうしてこれまで預言されていなかったと思う?」
「それは……シュウ部長も分からないって……」
「ああ、真実は知らん。だが想像で補うことはできるだろう? 簡単なことだ。お前が聖守の結末を知っているように、最高神官も知っている。聖守がどんな運命を辿るのか、その多くをな」
「……私を、悲劇から遠ざけたかった?」
「それしか考えられない」
シュウは断言するように語る。
実際のところは知らない。しかしアルネが聖守であると分かった段階で、ダンカンという男が何をしたかったのかは容易く想像できていた。
「娘が聖守に選ばれたならば、それは最高神官としての地位を確固たるものにする。元々引きずり降ろされるような立場じゃないが、間違いなく求心力は高まるだろうな。父は最高神官、娘は聖守、またもう一人の娘は六聖。これほど羨望され、憧れの的になる家族もあるまい。だがダンカンはそんなあり得た未来を捨てた。危険を承知で、聖守の存在を隠した」
「それは……」
「婚約させ、外国に嫁がせようとしたのもその一環じゃないか? 聖守という立場から徹底的に遠ざけるつもりだったとしか思えない」
思い当たる節は多くある。
聖石寮に入り、姉のように活躍したいと願うアルネの思いをダンカンは徹底的に圧し潰そうとした。早期に婚約させ、外国に嫁がせようと各所に働きかけていた。
「自分の全てを否定されているようで、私はそれが嫌でした。だからロマノさんを頼って、家を飛び出して、でもそれも全部……」
「そう悲観しなくていい。実際、魔神は見事に封印されていた。聖守なしでも問題ない公算だったんだろう。ただ一つだけ、お前は覚えておくべきだ。国より、世界より、何よりもダンカン・リンディスはお前を選んだ」
「私を、選んだ」
鋭い刃物が突き刺さり、胸が抉られるような気分だった。
思春期特有のものが多少なりとも入っていたとはいえ、アルネは父を毛嫌いした。自分の全てを否定し、思い通りに塗り潰そうとするように見えていた。隠された不器用な愛情など、気付けるわけもなかった。
「最高神官が思い描いた状況から、今はすっかり外れている。万全だったはずの封印は解かれ、魔神はこの荒地を作り出した。一時的な封印もすぐに意味をなくす。それまでに、倒さなければならない。分かるな?」
空虚で簡単に揺れ動く弱い心に、確かな芯が宿った。
「私に、できますか?」
「俺はできると信じている」
アルネは深呼吸し、両の頬を勢いよく打った。鋭い痛みが目を覚まさせてくれる。多少無理やりではあるが、覚悟のようなものはできた。
肩から下げた鞄より聖杯を取り出し、また腰から聖王剣を抜く。意識を巡らせれば体に鱗が浮き上がり、背中からは勢いよく翼が生えて羽を散らした。
「正直、まだ信じられません。でも信じるしかないです。聖王剣を抜けちゃうなんて、信じるしかないじゃないですか」
「それはそうだ。本物だからな」
「ただ選ばれただけの聖守です。相応しいとはまだ思えません。でも、それらしくなりたいとは思えました」
「俺も説得した甲斐があったな」
シュウは魔神バアル・ゼブルを封印した場所へと歩き始める。だがその背に向かって、再びアルネが声をかけた。
「部長! 一つだけ!」
「……なんだ?」
「あの、こんな時にって思いますけれど……シュウ部長は何者ですか? とても常人には思えないです。アイリス社長も含めてですけど」
「無事に生きて帰れば教えてやる」
「えぇ……気になりますよ」
「なら、勝つべき理由が増えた。そう思え」
きっとアルネにそんな未来はない。
心の内で小さな憐れみを抱かざるを得なかった。騙すには心苦しい程度の関係であったことを、シュウ自身もようやく気付いた。
◆◆◆
「アルネに魔神を倒させちゃいけない。急いでくれ」
ファイは運転手役となったシンクにそう頼んだ。強めにアクセルを踏み込むシンクは無言でただ頷く。
逃亡したアルネを追いかけるファイ、シンク、ミルディの三人は、まず移動手段として車を確保した。大地震で道路もかなり封鎖されており、悪路にも対応できる車種をどうにか引っ張ってきたのだ。
「しかし意外ですね、シンク殿」
「何がだ?」
「あなたの運転です。スウィフト家の剣客としてあなたは有名でした。片腕ながら最高の剣士であると。しかし運転など初めてでしょう?」
「……昔は王家の運転手役もしたことがある。心得はあるつもりだ。大昔だがな」
酷く懐かしむように、それでいて遠い目をしながら答える。シンクの運転は妙にこなれており、速度を出しつつも危うさというものをあまり感じない。
「……時間がないか」
シンクの右眼が、未来を観測した。
受け継いだばかりの未来視はどうにも制御が難しく、意図しない形で暴発することもある。だがそれは決まって必要な情報を授けてくれた。
「ファイ、ミルディ殿、少し無茶をする。しっかり掴まっていてくれ」
そう言ったかと思うと、勢いよくハンドルを捻った。悪路走破も可能な軍用車両は道を外れ、荒野を夜の駆け始める。舗装されていない道なき道のため、酷く車内は揺れた。ファイはあっという間に気持ち悪くなり、ミルディですらも顔を青くさせる。
「なんの! つもり! ですか!」
「喋るな。舌を噛むぞ。こっちの方が近道だ。それに急がなければ間に合わない。正直、手遅れかもしれないがな」
道ですらない悪路で、しかも夜だ。ヘッドライトがあってもほとんど景色など見えない。それだけの恐怖も一入だ。だがシンクは持ち前の動体視力を活用し、事故など起こさない。
車体が激しく滑ろうと、石を引っかけて浮き上がろうと、暗闇の中を疾走し続ける。
(酷い運転だよ。でも、シンクに未来視は託した。彼の判断に委ねるしかないね。情けない。あれほど疎んでいた未来視が、今は惜しくて仕方ないよ)
吐きそうになりながらも、ファイは焦りを感じていた。
そして人間らしく勝手な思考を自嘲した。
◆◆◆
魔神バアル・ゼブルの封印だが、今は見張りの一人もいない。だがこれはシュリット神聖王国の怠慢というわけではなかった。
如何に封印されたとはいえ、あの魔神を放置するなどあり得ない。零落中の魔神教団がこれ幸いと封を解くという事態も考えられる。当然、聖石寮の信頼おける術師たちが配置されていた。またその中には六聖の一人、第四席シース・アランもいた。
(既に見張りは掃除したか。第六分室は上手く処理してくれたらしいな)
聖石寮の見張りは邪魔になる。
だから妖精郷の大陸管理局、第六分室を差し向けて事前に排除しておいた。定時連絡が途切れたことでヴァナスレイ聖石寮本部も異常を察知するかもしれないが、今はそれどころではないはずだ。それに増援を送ってこられたとして、その時には計画も成就している。
「魔神……」
「異形型は排除済みだ。残る女性型を屠る。封印を解くぞ。準備はいいか?」
「……あの、もう少しだけ」
緊張のためか、アルネはこの場所の異常にまで気が回らない。本来なら見張りの一人くらいはいるべきであろう魔神の封印が、放置されたままなのに。
しかしこれも仕方のないことだ。
彼女は何度か深呼吸し、高鳴る心臓を何とか押さえつけようとしていた。
「大丈夫か?」
「……分かりません。でも、できないと諦めることはやめました。私がやるべき使命、なんですよね」
「いい覚悟だ」
聖王剣に迷宮神器・聖杯、そして強力な魔装。これだけのものがあれば片割れとなった魔神とも戦える。シュウはそう見積もっていた。
(聖守の信頼を得て、アリアドネの糸も持たせた。あとは魔神を倒させるだけだ。ここまで長かったが、ようやく終わらせられる)
シュウは魔神を封印する魔術に意識を向ける。
魔の存在を封じ込める光属性禁呪を改変し、小規模化したものだ。解除には極めて複雑な手順を必要とするが、冥王にはそれらをすっ飛ばす手段があった。
(今度こそ、ダンジョンコアを殺す。魔族の世界は終わりだ)
死の魔法が、魔神の封印を解く。
星のような煌めきと共に、黒い暴風が吹き荒れた。




