659話 アルネの記憶
アルネにとって最も古く、最も鮮烈な記憶。
それは洗礼の日だった。
聖教会における信仰入門の儀式であり、そして才能を測られる日。それが洗礼だ。信仰入門を謳っておきながら、実際のところは国民の義務と言っても差し支えない。アルネとて例に洩れず、その日を待っていた。
しかし気分は一転。
その時が近づくにつれて、不安になったのを覚えている。
「お姉ちゃん、私も聖石貰えるかな?」
そう問いかけたのだ。
少し年の離れた姉、ミルディは天才だ。大人たちも一同にそう口ずさむほどの大天才だった。洗礼では己の聖石を授かり、初等学生の間に聖石寮予備学校への飛び級を確定させた。優秀なミルディの噂はリンディス家の名声を押し上げ、父であるダンカン最高神官の不名誉な噂を打ち消していたほどである。
「大丈夫だよアルネ。あなたもきっと聖石を貰える」
「ほんとう?」
「うん、本当。私とアルネで、お父様を悪く言う人をやっつけるのよ?」
「わかった!」
論理も何もない、希望的観測だらけの言葉に嬉しく思った。幼いアルネは単純にも笑顔を取り戻し、洗礼の儀式へと臨んだのだ。
一般市民とは異なり、アルネは最高神官の娘。
用意された洗礼の舞台もまたそれに相応しい。いわゆる高貴な人々が集まる聖アズライール大教会で、大人たちに見守られる中の儀式だった。
「アルネ・リンディス、前へ」
洗礼を与えるのは父であり、最高神官であるダンカンだった。普段とは異なる父の様子に、少し怯えてしまった。しかし付き添う姉に背を押され、床に描かれた魔術陣の上に立った。
幼く、難しい言葉は分からない年齢だ。
どんな言葉によって洗礼を授けられたのか、覚えていない。
(私の聖石は?)
そんな疑問を浮かべる彼女の肩を掴み、ダンカンが振り返らせる。
ここで見た光景を、アルネは忘れることができなかった。
「ひッ……」
小さく洩れた悲鳴。
失望に満ちた大人たちの表情は、深くアルネに刻み込まれた。
◆◆◆
将来の夢は聖守様。
よくある子供の戯言だ。大人たちは聖守の物語を読み聞かせ、子供たちは憧れる。そして叶うはずもない夢に苦笑し、君ならなれるさと優しい嘘を吐く。
「止めなさい! そんなことを口にするのは!」
だがアルネは空気が割れるほどの叱咤を受けた記憶しかない。
本来ならば可愛い子供の夢だと流すところだ。だがダンカンという男は本気で怒りを露にしたように見えた。そして泣きそうになった彼女に、慌てて駆け寄り抱き寄せる。
「すまない、愛しい娘。可愛いアルネ。ですが聖守様は生まれたときからそうあれと星盤祖に定められた人です。私の娘であるならば、軽々しくそのようなことを口にしてはいけませんよ」
「怒って、ない?」
「ええ、怒ってはいません。怒鳴りつけてすみませんでした」
最高神官は星盤祖を信仰する全ての人々にとって、あるべき見本だ。一挙手一投足、またその家族に至るまで正しい振る舞いが求められる。
後のアルネは、この時の記憶を躾けの一環だったと考えた。
酷く悲しい思いはしたが、後になってみれば滑稽な夢だ。一周回って恥ずかしくもある。だから考えないようにしていたものだ。
「だったらお姉ちゃんみたいに術師になるの!」
その一言にさえ、父が酷く顔を歪めたことを。
◆◆◆
アルネは成長するにしたがって、自分という存在が落ちこぼれであると自覚し始めた。姉ミルディが規定年齢に達しない内に聖石寮予備学校に入学し、正式な術師として活動し始めるのはすぐだった。一方でアルネはというと、あまりにも平凡だったのだ。
だが時として、近しい人間の評価により凡庸は劣等にまで貶められる。
『あなたの姉の時はですね――』
『ミルディ・リンディスの妹がこれですか』
『あの天才ミルディの妹さんは全く……』
『うーん、何といいますか。思ったより――ああ、いえ』
比較対象はいつもミルディだった。
最高神官の娘であり、稀代の大天才とまで言われた彼女と常に比較されてきた。ミルディを教えた家庭教師がアルネを教えたし、ミルディが通った初等学校にアルネも通った。大人たちは悪意なく、ごく自然にミルディとアルネを比較した。
決して劣等生ではない。
普通だ。平均程度の能力は持っていた。しかしミルディと比較されることで、劣等生という目で見られてしまう。
「ねぇお姉ちゃん。予備学校の試験について教えてよ。その、コツみたいなのとか」
「……はぁ」
「お姉ちゃん?」
「止めておきなさい。あんたに才能はないわ。恥じになるくらいなら、大人しく別の道に進むべきよ。あなた歴史は好きだったでしょう? 学者か教師にでもなればいいんじゃないの?」
かつて仲の良かった姉とは、少しずつ距離が離れていった。
当時の最年少術師として既に活動していたこともある。この時のアルネは、ただただ悲しかった。なぜ、という思いが募っていた。
父親との関係も同じだった。
「お父様、その、お姉ちゃんみたいに予備学校に……」
「あなたは女子学校に通いなさい。教養を身に付け、歳の近い子女と交流するべきです」
「でも」
「アルネはミルディとは違います。同じ道を辿らずとも良いのです」
比較され、否定される。
そんなことの繰り返しがアルネの心を少しずつ蝕んでいた。それでも術師を目指し、聖石寮に入りたいと願うのは、もはや反抗ゆえのことだったかもしれない。
またこの反骨精神が抑圧されたままならば、歴史は異なっていたかもしれない。奇しくも、アルネの言葉をよく聞いてくれる幼馴染が存在した。
「ロマノさん、私ってやっぱり駄目な子なの?」
姉にも、父にも、他の誰にも言えない。
涙目での問いかけは酷くロマノ・スウィフトを困らせてしまったことだろう。リンディス家は大きな恩があるということで、スウィフト家は昔からの付き合いだった。そしてロマノのことは、頼れる年上の存在としてアルネの中に刻まれていた。
戸惑いつつも、ロマノはアルネの状況に理解を示した。
「夢、というものは厄介です。人生の原動力になります。たとえ叶わないものだと周りが言っても、自分で理解するまで納得しがたいでしょう。あなたの気持ちは分かりますよ」
黄金要塞という夢を抱えるロマノは、アルネの気持ちに共感した。
「私にも夢があります。きっと誰に言っても馬鹿にされてしまうような夢が。難しい夢だと自覚もしています。ですがそのために一歩ずつ、進んでいるのです」
「どうして諦めないんですか?」
「他人に言われて諦めた夢ほど、後悔するものはありませんよ。だからです。どんな結果になったとしても、やりきったと満足するために」
「自分に、満足……」
「ええ、そうです」
「ロマノさん。あなたの夢って、何ですか?」
「それは秘密ですよ」
仮面を張り付けたように、一定以上は踏み込ませない。そんなロマノの態度もあってか、恋愛感情は湧かなかった。だが信頼できる人物としてアルネはロマノを頼る。
そしてこの時のロマノの言葉に従い、反対を振り切って聖石寮予備学校の入学資格をもぎ取った。
「アルネ! 私はあなたに女子学校へ行くよう言い聞かせていたはずです。既にリファード女子学校の学長に話も通していたというのに!」
「ごめんなさいお父様。でも、私は」
「ミルディと同じ道を歩くことはありません。あなたにはあなたの才がある。聖石寮だけが道ではないのですよ? ああ、リファード閣下には何と言えば……」
「お父様、私」
「いいですか? あなたはしばらく家にいなさい。予備学校の手続きを勝手に進めてしまったものは仕方ありません。ですが覚えておきなさい。聖石寮は才能の世界です。付いていけない者は容赦なく落とされます」
勝手なことをして、ダンカンは激しく叱った。
しかし同時に焦りのようなものも見えた。この時のアルネには、それを感じる余裕などなかったが。ただ自分の道を無理に歪め、望むままに整えようとする父に反発していた。
「……どうしてよ」
挑戦すら許さないのは、最高神官としての面子のためだと決めつけていた。聖守を預言できない最高神官として、批判的な評価を受けていたことも知っている。己の弱点になるものを作りたくないがために否定するのだと、アルネは考えていた。
「絶対に見返すから。私だって……お姉ちゃんみたいに」
しかし決意とは裏腹に、現実は甘くなかった。
聖石寮予備学校は、文字通り聖石寮に所属する術師を育成する専門機関だ。体力作り、座学、そして最も重要な魔術と、術師としての基盤が叩き込まれる。
当然だが落第もある。特に魔術の腕前が悪ければ、情状酌量の余地すら与えられない。
「アルネ・リンディス。貴様は基準を満たしていないと判断した」
「……そんな」
「残念だ。座学、身体訓練、魔術、それぞれ真摯に取り組んでいることは知っている。しかし魔術の腕が致命的に足りない。第一階梯か、第二階梯で精一杯な有り様ではな」
夢はあっさりと破られた。
天才ミルディのようにはいかなかった。そして何より、ミルディの妹として期待され、その差を目の当たりにして落胆されることにも疲れ切っていた。
予備学校で落第の判定を受ければ、そのまま退学となる。国民の税金によって設立維持されている機関なのだ。無能は容赦なく切り捨てられて、然るべきである。アルネは受け入れるしかなかった。
(やっぱり、私、なんで)
悔しさはあった。
やる気に反してできないことの多さに苛立ちもした。
どういうわけか上手くいかない魔術の代わりに、座学も身体訓練も必死に打ち込んだ。
だが報われることはなかったのだ。まるで仕組まれていたかのように、退学までの流れすらもあっさりと済んでしまった。あっという間に寮の部屋も退去させられ、聖都の実家に戻る以外の選択肢を奪われてしまった。
(諦めたく、ない。お父様を、お姉ちゃんを、皆を見返したい)
比較され、蔑まれてきた。
始める前から無駄なことだと言われ続けてきた。
天才ミルディの出涸らしなのだと、決めつけられた。
アルネの足は、自然とある場所に向かっていた。それはヴァナスレイにある知り合いの邸宅だ。当主となって間もない、ロマノ・スウィフトの別邸だった。
「……だめよね。ロマノさんに御迷惑だもん」
しばらく迷って、アルネは踵を返すことにした。
だがその瞬間、扉が開かれてロマノが出てきたのだ。仕事のためヴァナスレイに留まっていることは知っていた。だから彼がいることに驚きはない。ただ気まずくなって、目を伏せてしまう。
「どうしてこんなところに? 屋敷の窓から見えて驚いてしまいました。用があるのでしょう? あなたを追い返したりなどしませんよ。さ、中へ」
優しさに甘え、彼に招き入れられた。
それがアルネ・リンディスの運命を変えた。彼女はその日の内に失踪し、密かに傭兵会社ネロへと入社する。これがまさに、四年前の出来事であった。
◆◆◆
「私が、聖守?」
声には抑揚がなく、茫然としていることが窺えた。またアルネの眼には疑念が浮かんでいる。シュウの言葉といえど、鵜呑みにするつもりはないらしい。
突拍子もないことだ。
当然だった。
「聖守はファイ殿下じゃ……」
「いいや、違う。その証拠にあいつは魔神との戦いでも、一度だって聖王剣を抜かなかった。なぜなら、抜けなかったから」
「聖王剣は、聖守のための武器。だから、聖守以外には抜けない」
「まぁ所持しているだけでそれなりの効果はあるし、魔術儀式触媒くらいには役立つがな。ファイ・セシリアス・ラ・ピテルが如何に戦いの素人だとしても、聖王剣くらいは抜いても良かったと思わないか?」
「それは、そう、ですけど」
状況証拠なので確信は持てない。だからアルネの歯切れは悪い。
「お前は選ばれていた。だが、お前の父はそれを隠した。聖守は英雄として見られるが、その結末は悲惨なことも多い。それを憂いたのかもな」
「そんなの、ありえない。だってもしも最高神官から外されたら……」
「ああ、だから立場に固執した。最後まで預言を隠し通すためにな」
「う、嘘です! 結局寿命で死んでも新しい最高神官が選ばれるだけです。だったら一時的に隠す意味なんてありません」
「さて。どういう計画だったのかは俺にも分からない。重要なことは、お前に使命があるということだ」
聖守の使命。
それを耳にしてアルネは口を噤む。
「分かっているな? 魔神だ」
「……もしも。もしもですよ? シュウ部長の言っていることが正しいとして、父の判断も少しわかる気がします。私も、魔神バアル・ゼブルを見たから」
「怖気づいたか?」
「それは怖いに決まっています。あんなの普通勝てるわけがありません」
黒い嵐を呼び、ありとあらゆるものを破壊した魔神。一歩間違えれば全滅していたような戦いだった。正直なところ、アルネはほとんど役に立てなかったと言っていい。
ファイの的確な指示、シンクの剣技、アイリスの魔術、そしてオリガたちの献身。それらが奇跡的な噛み合わせを起こし、あの結果まで導かれたに過ぎないのだ。
「でも、逃げたくない。戦わないといけない。あの戦いの最後で、不意にそう思ったんです。上手く説明できないですけど、胸の中で火が灯ったというか……そんな感じがして」
「無意識に聖守の自覚が訴えていたのかもな」
「……いえ、でもそんなはずは」
「気になるなら聞けばいい。ファイ本人にな」
シュウは檻の外に出て、手招きした。
「行くぞ。真実は知りたいだろう?」
アルネは迷う。
呪い子として大人しくしていることが正解だ。だが、それと同時にやはり気になった。そして心の底で、己のすべきことが示されているように思えた。
「はい」
そう返事して、シュウに付き従った。
優秀な上のきょうだいと比較されるってあるあるだと思います




