631話 赤い夜-ガレス市-①
『赤い夜』は最も抗いがたい厄災であると語り継がれる。何の予兆もなく鮮血のような満月が昇り、街の一つを霧で覆い脱出不可能な領域とする。そして霧と共に吸血種たちが現れ、人々から血という血を奪っていくのだ。
その特徴として少なくとも人口一万を超える街にだけ発生するというものがある。
故に現代では相応以上の街や都市には必ず、『赤い夜』への備えがされてきた。その備えに意味があるのかは、また別問題であったが。
「アルネさん、とにかく建物の中に! 扉は締め切って鍵も閉めて!」
イブリースは正気を取り戻し、とにかく声を張り上げる。慌てた給仕たちは混乱しつつも、ひとまず庭に出るための扉は締めて霧の侵入を防いだ。
「とにかく霧を入れてはいけない! 吸血種どもは霧の中から現れる!」
「馬鹿な……なぜ『赤い夜』が始まったのじゃ」
「ロザリス公はとにかく奥の部屋へ。可能な限り安全な場所に隠れる必要があります」
「そ、その通りじゃな。アルネ嬢も急ごう」
「わかりました」
ネロ社での傭兵経験があるとはいえ、今は丸腰だ。婚約者になる男との食事会に武器を持っていくような失礼は流石にしなかった。
ただイブリースの方は懐に拳銃を隠していたらしく、それを抜いて弾を確かめている。
「あまり得意ではありませんが、ないよりはマシでしょう。アルネさんは私が必ず守ります。それにガレス市は『赤い夜』への備えもあるはずです。そうですね?」
「はい。当店には避難用の地下室があります。ご案内いたします」
燕尾服を着たマネージャーと思しき男が努めて平静を装い、その義務を果たそうとしてくれる。レストラン内も少しずつ騒がしくなっており、他の客たちも状況に気付き始めたのだと分かる。時間が経てば混乱が広がり、逃げることも困難となるだろう。
「ッ!」
突然、建物が激しく揺れた。破壊の音と共に振動が伝わり、続けて悲鳴が響き渡る。ヒールの高い靴を履いていたアルネは倒れてしまった。
すぐにイブリースが抱き起そうとしてくれたが、鈍い痛みが足首に奔る。
「痛ッ……足が」
「大丈夫ですか? 立てますか?」
「はい。歩くことはできそうです。でも走るとなると」
「この状況は不味いか……」
今も激しい銃声の他、何か爆発するような音もしている。
吸血種が侵入してきたので応戦していると考えるのが妥当だろう。給仕の一人が様子見のために固く閉ざされた部屋の扉へと近づき、耳を当てる。
すると彼は扉ごと赤い結晶によって貫かれた。
「う、あ……ああああ!?」
彼は状況を理解して扉から離れようとするも、赤い結晶は鉤爪のような形状となって身体から抜けない。扉に固定されたまま動けなくなった。
そればかりか結晶が脈動したかと思うと、男は急激に痩せこけていく。血の気が失われ、あっという間に物言わぬ枯れた遺体となった。
「下がって!」
イブリースが前に立ち、拳銃を構える。アルネとロザリス公は共に彼の後ろへと下がったが、とても安全だとは思えなかった。
扉は血晶に侵食されて砕け散り、その奥から二人の吸血種が現れる。
「来るな。近づけば撃つ」
そんな脅しも吸血種には通用しない。イブリースが必死の虚勢を張ったところで、拳銃が脅威とはみなされないのだから。
二人の吸血種は悠々と歩み寄ってきた。
武器を持っているはずのイブリースは引き金を引くことができない。緊張のためか、恐怖のためか、石のように固まってしまっている。
(冗談でしょ? どうしてこんなときに『赤い夜』が)
アルネは己の不幸を呪った。
厄災の名称であると同時に、吸血種の王を指す名でもある。それが『赤い夜』だ。シュリット神聖王国やプラハ帝国ではほとんど確認されたことがなく、大抵は統一アスラン王国や封魔首長国連邦で発生している。
そして発生頻度も年に一度あるかどうかといったところだ。
「イブリース様……」
「大丈夫だ。アルネさんは私の後ろに」
気丈に振舞っているが、イブリースの手は震えている。あれでは狙っても当たらない。得意ではないという自己申告通り、拳銃は脅しの道具にしかなりえていないようだ。残念ながら吸血種たちには通用していない。
「ラド、山分けでいいよな?」
「早い者勝ちに決まってんだろ。俺は女の血が飲みてぇよ」
「ちっ。お前もあの女が狙いか?」
二人の吸血種はほぼ同時に姿を消した。一瞬にして最高速度へと到達することで緩急を生み、一般人の動体視力では捉えきれない動きをしてみせたのだ。
ここで反応できたのは従軍経験があったアルネだけ。
そして吸血種たちの狙いもまたアルネだった。
「いッ……」
捻った足首の痛みに耐えながら転がり、ラドと呼ばれた吸血種の攻撃を回避する。先ほどまで立っていた床に血晶の槍が突き刺さり、続いてもう一人の吸血種が迫った。そこでアルネは近くに転がっていた食事用ナイフを掴み、合わせる。
「危ねぇ……この女やるな」
「俺たちの攻撃を避けるかよ。軍人か?」
アルネが極限の集中力で放ったカウンターは掠めるだけに終わった。僅かな切り傷など吸血種からすればないに等しい。すぐに再生してしまい、怒らせることすらできなかった。
寧ろアルネという人物を警戒させるだけに終わってしまう。
(だめね。今ので決められなかった。次は警戒される)
今のも半ば偶然に近い反撃だった。同じ状況が訪れたとき、再現できる自信はない。
ただここでようやくイブリースの覚悟も決まったらしく、遂に彼が引き金を引く。数度連続して破裂音が響き、弾丸が吸血種たちを襲った。
それなりの至近距離にもかかわらず外れてしまい、吸血種たちを引き下がらせるだけに留まる。
「イブリース様は祝福持ちですよね?」
「残念ですが期待しないでください。私の祝福は《耐毒》です。この場では役に立ちません」
「だったら銃を私に。使い慣れています」
「は、はぁ? しかし……」
「いいからお願いします」
「……いえ、だめです。私が時間を稼ぎますから逃げてください」
男としての矜持もある。イブリースとしてはアルネに任せてしまうことなど、とてもできることではなかった。
だがそれは今、この状況において役に立たない。
「鬱陶しいな。雑魚の人間が騎士のつもりか」
「黙れ化け物!」
引き金を引くイブリースには焦りがある。
炸裂音は合計で八回。それからはカチカチと虚しい音を立てるだけの機械となった。一方で銃弾を浴びせられた吸血種たちは、あえて避けなかった。
二発ほどはそもそも当たらなかったが、残りの弾丸は吸血種たちの体表で弾かれたのだ。
「馬鹿がよ。俺たちがいつまでも銃とやらの対策をしないと思っていたのか?」
「おいラド。余計なことは言うなよ」
「分かっているよ」
彼らの身体には赤い結晶が鱗のように浮かび上がっていて、それが鎧となって弾丸を防いだのだ。アルネの所見はそんなところである。
しかしそれが分かったところでどうしようもない。拳銃とはいえ弾丸を弾き飛ばすほどの防御性能を抜くだけの攻撃力を持ち合わせていないのだから。
「さて、狩るか。絶望させるのは充分だろう」
「おいおい。久しぶりなんだからもっと楽しもうぜ」
「時間も獲物もまだまだ残っている。前菜から飛ばし過ぎるな」
「わーったよ」
赤い夜はまだ始まったばかり。
吸血種たちの狩りの夜はこれからが本番だ。
◆◆◆
外から見たガレス市は、まるで消失したように見えていた。なぜならば都市全体を霧が覆い尽くし、街の明かりに蓋をしているからである。月の明かりも頼りなく、都市全体が暗黒に飲み込まれたかのようだ。
仮の話だが、もう少し明るければ赤い霧によって覆われた光景を見ることができただろう。
「もう始まっていたか。早いな」
都市の外周へと辿り着いたシュウは、都市を覆う霧の外壁へと触れる。すると霧は意思を持っているかのように自ら道を開き、その内側へと招き入れようとした。
足を踏み入れるとすぐに後ろで霧が閉じてしまい、五里霧中となる。
だがまっすぐ進んでいると次第に霧が晴れていき、赤い月によって照らされた世界が見えた。
「ここは……都市の中央か。随分と煉獄の空間を上手く支配しているじゃないか。カーミラ」
シュウが振り返る。
ガレス市は丁度国境の検問を役割とする都市であり、中央には国境線代わりの城壁があった。霧を抜けた先で足を地に着けたのは、この城壁の上だった。都市の外壁から侵入したにもかかわらず、現れたのは都市の中央。つまり空間そのものを操作されたということである。
そして振り向いた先にいたカーミラ=ノスフェラトゥは頷いた。
「シュウ様がここへ来ることは分かっていましたので待っておりました。ですがどうしていきなり『赤い夜』を始めろと? 理由をまだ説明していただいておりませんが」
「聖守を見つけた。十九年間、行方が分かっていなかった聖守だ」
「それがガレス市だと?」
「いや、彼女が今日ガレス市に来ることになっていた」
カーミラは何も返さず、天を仰ぐ。
深紅の月が昇っている間、吸血種たちはおよそ一年に一度の食事をする。都市を丸ごと霧で覆い尽くし、来るもの拒まず出る者を阻み、血という血を喰らい尽くすのだ。赤い夜に襲われた都市はほぼ壊滅すると言ってもいい。死者が人口の三分の一を超えることすら珍しくないほどだ。
そんな大厄災を、ただ聖守を見つけたというだけで引き起こしてよかったのか。カーミラの中には少しの後悔が生まれる。
「何のためにこのようなことを頼まれたのですか? 私に借りを作ると言ってまで」
「俺が見つけた聖守はまだ世に知られていない。だからこの世の繋がりを断ち切り、手元に置く。計画のための駒にする」
「邪悪な計画です」
「冥界の王だからな。邪悪にもなるさ」
「人の営みを冒してまで必要なことだというのですか?」
「必要なことだ。どうしてもな。適性のある人間を見つけるのは中々難しい。次の機会を待てば、その間の犠牲者が増えるだけのことだ」
それでもカーミラからは納得が感じられない。
元より繊細な人格だ。血を啜る怪物とは思えないほど慈しむ心を知っている。シュウの計画にはやはり賛同しかねるということだろう。
「トロッコ問題という思考実験がある」
「……それはいったい?」
「このままでは五人が死ぬ。それを回避しようとすれば別の一人が死ぬだけで済む。だがその一人は本来ならば死ぬ必要のなかった人間だ。己の手で五人を救って無関係の一人を殺すか、運命のままに静観して五人を見殺しにするか。どちらが正しいのだろうか」
「どちらも正しいとは思えません。それは正解のない問いなのではありませんか?」
「ああ、俺もそう思う」
そもそも正解がきっちりと決まった問題はほとんどない。カーミラはこれまでの経験からも、それは分かっているつもりだった。
「カーミラ、俺たちの力は世界を揺るがす領域にある。その力で以て世界を管理する側の存在だ。人も歴史も、俺たちが作る側だ」
「……それは傲慢な考え方なのではありませんか?」
「運命という名の作為に翻弄されたくなければ、俺たちの側に立つしかないってことだ」
吸血種とて強いから生き残っているに過ぎない。そして人間という種を食い物にできるのも強いからだ。
そしてより上位に冥王がいるからこそ、いいように使われる。
「いずれ私たちも滅ぼすおつもりですか?」
「生きているものは必ず死ぬ」
「……そうですね。ですが誇れる生き方をしたいものです」
赤い夜を引き起こしておいて、呆れた物言いだとカーミラ自身も思う。
誰もが胸を張って生きていける世界を目指したはずなのに、今は厄災の一つとして数えられる有様だ。
「シュウ様は聖守を確保しにいかれるのですか?」
「必要ならな」
「赤い夜は試練として使うには過激かと思いますが」
「上手くいけば俺の懐に取り込みやすくなるはずだ。人の世に対する未練を捨てさせる。だがそれと同時に人の世を救う使命感を抱いてもらわなければならない。赤い夜を経験することはそのどちらをも満たしてくれる」
「……残酷ですね」
その言葉を背に受けて、シュウは歩いていく。薄っすらと広がる赤い霧の奥へと、その姿は消えていった。
人外なのに一番の良心カーミラちゃん




