594話 玉蟲の業魔
ルークとスルザーラは、互いに身を寄せ合い、背中合わせになることで周囲を警戒していた。幸いにも赤い霧がミリアムの解き放つ厄災を抑え込んでくれている。それで少し休む時間ができた。
「魔力は大丈夫かよ」
「ああ。まだな。だが空を飛び続けるといずれは」
「くそ。ミリアム……」
今も地上を毒液が満たしている。またそれが気化しているため、安易に高度を下げることもできない。ルークは嵐の鎧を少々拡大し、周囲を守る壁とすることでスルザーラごと身を守っていた。
「ルーク、君こそ大丈夫か?」
「俺は余裕だ。早くミリアムを見つけないと」
「ああ。いつまでもこのままでは、いずれ殺される。防戦一方では勝てん」
「何か方法はないのか……」
目や耳が頼りだ。
しかし一向にミリアムの姿は見えず、ただ不快な笑い声だけが聞こえてくる。思わずルークも魔力を荒げさせ、暴風となって現れた。轟々とした音が雑音を消し去ってくれる。
「ん?」
不意にルークは風が弱められていることに気が付いた。魔力を込めているのに、風の出力が上がらない。暴風が外から無理やり鎮められているような気がする。
まさかミリアムが何かしたのかと考え、更に風を強くしようとした。しかし風は衰弱し、少しずつ守りも小さくなっていく。
「次はなんだよ……ッ!」
「落ち着けルーク。どうした」
「嵐唱の力が削られていくみたいだ。上手く風を操れない」
「いや……これは」
「くそッ! 嵐唱!」
魔力をどれだけ込めても風は弱く、防壁も薄れつつある。感覚として、しっかりと嵐唱の手綱を握っている感覚はある。いつも通りの嵐を解き放っているはずだ。しかしその風はこの世界に現れた途端、貧弱なものに変わってしまう。
できるはずのことができない歯痒さが募っていく。
ルークは冷静さを欠こうとしていた。
「落ち着けと言っている!」
そんな彼をスルザーラが諫める。
肩を強く掴み、強く言い聞かせた。
「落ち着け。いいか? よく耳を澄ませ。お前の防壁が阻む音を。あの方の声を」
「声?」
「そうだ。聖守様の声だ」
初めルークは困惑した。
だがすぐに気が付いた。どうしてこれまで気が付かなかったのかと不思議になる。かすかに耳へ入り込んできたのは、確かに声だ。それも歌声である。
「ネオン様の歌だ。力を抜くなよ。私たちまで声が届けば、飛行の魔術も解けてしまう」
一度、戦場で聞いたことがある。
忘れもしないヴァルナヘル奪還戦だ。聞こえてきたのは、あの時とは異なる歌だった。
――あなただけが灯火
――偉大なる星の祖よ
――私の足を照らしてください
――道を示してください
――迷い子たる私のために
どこか心に沁み込んでくる声。思わず耳を傾けてしまう旋律。ルークは耳ではなく、魂で理解する。これは救いの歌なのだと。
そう感じた途端、酷く嵐の鎧が弱まった。
慌てて意識を保ち、飛行が解けぬように維持の魔力を込める。
――黒い炎が道を焼くとも
――ただ星の導きが私を守る
――輝きは揺り籠となりて
――安寧の眠りを与えたもう
――恐れの蠢くところに身を置こうとも
――私の足が竦むことはない
歌声は徐々に強くなっている。
それと共に青白い光が空を満たし、景色が歪み始めた。ネオンの歌に呼応して、異変が起こっていた。
――退け、蟲たちよ
――慄け、星の威光に
――夜は星々によって照らされる
――闇は偉大な力によって晴らされる
――威光は深きところにまで届き
――不義を明らかにされる
――企む者よ
――平伏し、曝け出せ
――偉大な光の前に隠れることはできないのだから
頭の中に余韻を残し、歌声は響き続けた。まるで鐘の音のように、空から降ってくる。
ルークたちの目の前で景色は大きく歪んだ。
思わず二人は驚きを漏らす。
「なんだよ、これ……」
「驚くべきものが明らかにされたな。化け物か」
歪みの奥から、これまで影も形もなかった異形の巨体が姿を現した。
赤黒い肉が連なり、巨大な塔を形成している。いや、塔というよりも剣に近い形状かもしれない。刃を下にして、地面に突き立てられているようだ。ルークはなんとなく、そう思った。そして肉の剣には巨大な蟲たちが巻き付いている。鍔には燃える蛾、そこから刃に沿って上から順に電撃を放つ蜂、鋭い鎌を掲げる蟷螂、毒々しい青の百足、濃い鱗粉をまき散らす蝶、無数の糸を張り巡らせる蜘蛛、黒く鈍い輝きを放つ甲虫。これらは肉のようなナニカでひと繋ぎとなり、一個の生命体として成立している。
『酷いことを、なさい、ますの……ね。私を……引きずり……ぐッ』
そして驚くべきことに、蟲の怪物は言葉を発した。
この声を間違えようもない。ルークは苦々しい表情を浮かべていた。
「あんな化け物が夢、だったのかよ。あんなものが理想なのかよ」
「哀れみを向けるなルーク。あれは彼女が望んだ姿だ。そして罪の姿でもある。奴を葬ることが私たちの使命だ」
「……ああ、そうだな」
悍ましい姿に変わり果てた。だがそれがミリアムの望みであった。
これは彼女にとっての夢の果て。ようやく辿り着いた救いだ。一方でルークたちにとっては邪悪の顕現でもある。今のミリアムは、まさに打ち倒すべき魔であった。
◆◆◆
ウェルスに乗るカーミラとネオンもまた、悍ましきミリアムの姿を目にしていた。ネオンの歌は《聖捌》の光を発し、魂で反響させる大儀式。あらゆる魔を減衰させ、討ち滅ぼす。
「あなたは大丈夫でしたか? 申し訳ありません。私の策をミリアムに悟られるわけにはいかず」
「問題ありません。瘴血が阻害してくれていますので」
ミリアムはこちらの声を聞いていた。
どんなにか細い声であろうと、全てを捉えていた。ネオンはこれを逆利用したのである。彼女の歌には力がある。意図せず、魔術を乗せることができた。やがてこの力を彼女は手中に収め、祝福すらも歌に乗せるほどとなる。
歌は魂に響き、共感させ、同調させる。
つまり歌声を聞いた者は、意図せず同じ術を行使してしまう。特に魔に属する者となれば、自身の内側から発せられる《聖捌》の光で体内から壊されてしまう。
「しかしお陰でミリアムの本体を引きずり出すことが叶ったようですね。内側から発せられた破魔の光が、彼女の作る異界すら打ち消したようですね」
「異界、ですか?」
「あのような巨体が隠れる場所などありません。見てください。私たちは空を飛んでいるというのに、見上げなければならないほどです。ですから異界を作り、そこに隠れていたと考えられます」
「では今まで見たミリアムは」
「やはり分身だったということでしょう。あの肉塊の中にミリアムの魂を感じます」
聳える蟲たちの肉塊は見上げるほど。ウェルスに乗って、空を飛んでも尚だ。玉蟲の業魔と名乗っただけはあり、様々な蟲系魔物を取り込んでいるとみるべきだろう。
「ネオンさんの歌には可能性があります。先ほどの歌は?」
「あれはエルムレア事件を鎮魂するために作られた歌です。彼女への手向けとして相応しいと思ったのですが……もはや言葉など届かないのかもしれません」
「いえ、そのようなことはありません。ネオンさんの歌に心を震わせたからこそ、ミリアムを引きずり出すことができました。ただ語りかけるだけでは伝わらないことも、伝わるはずです」
「そう、ですね。そう願って、私も歌を愛しています」
玉蟲の業魔は酷く呻いている。全体から膿のようなものが噴き出し、赤い液体も流れ出ていた。そして肉の剣に巻き付く七色の蟲たちも痛みに喘いでいた。
ただそれらの傷も急激に再生していく。
『いいでしょう。この私を目にしたのです。全ての力を以て威を示しましょう。同化です、聖杯よ!』
空が黄金に染まり、巨大な光の天秤が出現する。それはまさしく神器・聖杯の同化だ。ミリアムの本体たる肉の剣、その刃に当たる部分の中央付近で目のような紋章が現れた。通常であれば額に現れる第三の眼である。
「そんな! まだあんなことまで!」
「いえ。これは好機です。あの紋章は本来、人の頭に現れるもの。あの位置にミリアムの急所があるということに他なりません」
「本当ですか!?」
「確証もあります。あの位置には魂も感知できます。つまり魔石が存在する場所です」
「ならば狙うほかありませんね」
『させると思いまして?』
聖杯の天秤が傾く。
充分な代価が載せられた結果、同等の返礼が世界に訪れるのだ。空に無数の光が生じ、それら一つ一つが太陽のように輝いた。
「ッ! ウェルス!」
カーミラはすぐに警告を発して、赤い霧を展開した。
それと同時に、大量の光が天地を結ぶ。それらは空を、地を、視界に映る全てを埋め尽くした。
◆◆◆
サンドラの帝都は、夜中にもかかわらず眠っている者は一人としていなかった。空は突如として青や黄金に変わり、閃光や地響きが度重なる。彼らを起こし、不安を呼び覚ますには充分過ぎる怪異であった。人々はこの世の終わりではないかと騒ぎ立て、宮殿にも押し寄せる。
しかしながら炎帝は不在。軍も多くがいない。
混乱は大きくなるばかりだ。
『不安に思ってはいけませんわ』
そんな中、空から声が降ってきた。
鐘のように響き、鈴のように耳朶を打つ。不審な声であるにもかかわらず、全ての民が聞き入っていた。
『世は終わろうとしています。ですが不安に思ってはいけませんわ。新しい世界が訪れるのです。それは死も恐れもない世界。正しき融和がもたらす楽園なのです』
世の終わりは誰もが感じていたことだ。そして男も女も、子供も老人も、あらゆるサンドラ人が希う。自分たちを救ってほしいと、声高々に叫ぶ。
『さぁ、私の天秤を受け入れるのですわ。望むのです。自らを私に明け渡し、救いへの道を開くために!』
その意味を正しく理解できる民は一人としていなかった。
彼ら帝国民は考えることを止めて、ただ天の声に従う。鐘のように鳴り響く声を是とする。
『契約は成りましたのよ』
人々は、サンドラの帝都臣民およそ八万人は、洩れなく契約を受け入れた。すなわち、魂を差し出す聖杯の契約に。全ての人間が、自らの魂を明け渡し、聖杯に奉げてしまった。偽りの救いを信じて。
◆◆◆
聖杯と同化した玉蟲の業魔は、苛烈な範囲魔術攻撃によって破壊の限りを尽くしていた。天より降り注ぐ無数の熱線は大地すらも融解させる。人間など掠るだけで重症だろう。カーミラは瘴血の霧を濃く広げることで攻撃を打ち消し、ネオンを守っていた。
「カーミラ! このままではルークとスルザーラが!」
「まずは私たちの安全です。これほどの魔力、尋常ではありません」
魔力保有量は重要な資質だ。強い魔装もまた、強い魔力があってこそ宿る。魔術にしてもより強力なものを扱えるようになる。しかしながら戦闘において重要なのは、魔力の出力だ。一度にどれほどの魔力を扱えるか、という資質も考慮しなければならない。
身に余る魔力を手中に収め、正しく管理して初めて大きな力を振るうことができる。
その点、玉蟲の業魔が放つ無尽蔵の熱線は異質であった。
「これほどの高出力魔術……聖杯とやらの力でしょう。一つの生命体が扱える魔力ではありません。まずミリアムと聖杯を切り離さなければまともに近づくことも叶いませんね」
「でしたら私が再び歌を」
「これほどの轟音です。ネオンさんの歌も掻き消されてしまいます。ここは私に任せてください。まずあれの気を引くため、軍勢を用意します」
「軍、勢?」
いったいどういうことなのか。
ネオンは問い返そうとして、思わず息を飲んでしまった。なぜなら、突然カーミラが右手を自身の胸に突き入れたからである。大量の血が噴き出し、骨や肉までもが飛び出る。見るだけで痛々しい。
「カーミラ!? 何をッ!」
「大丈夫です」
そう言いながらカーミラは胸の奥から小さな塊を引きずり出す。それは拳ほどの大きさで脈打つ肉塊だ。最も重要な臓器の一つ、心臓である。
未だに力強く動くそれは、驚くほど濃い魔力を発していた。
「血よ、呪われた地を開く贄となれ」
心臓の中心部から黒い紋様が浮かび上がり、それが全体を覆って張り付く。そして次の瞬間、折り畳まれるようにして一気に潰れた。その痛みのためか、カーミラは一瞬呻く。
ネオンは悲鳴を上げてしまった。
「血盟召喚秘術」
大地の全てが燃え上がる。
空から降る光と対を為すような、漆黒の炎だ。それらは渦を巻き、波打ち、激しい竜巻すら巻き起こす。見渡す限りの黒い炎は、その中心部が深く深く窪み始めた。その奥から、悍ましい魔力が解き放たれる。また黒い炎は玉蟲の業魔にも燃え移り、白と黒の蟲が呻きを発していた。
そしてこれで終わりではない。
黒い炎の大海から次々と不死属の魔物が現れる。それらは這い寄り、積み上がり、玉蟲の業魔へと迫る。
「不死の軍勢を以て打ち倒すのです」
カーミラは自らの心臓という魔力の塊を捧げ、世界を歪めた。黒い炎はその余波に過ぎない。本質はその奥深くより現れる、無限の不死属たちであった。




