第36話 誤字は発生するもの
奴らは後から出てくる
石畳の地面が揺れた。店舗の大きな窓ガラスが小刻みに鳴る。帝都の明るい空気を恐怖へ変える咆哮が響き渡った。
それは一つだけではない、四か所でほぼ同時に上がった。
クラウスは執務室の窓から土煙が上がった場所を確認する。そこから見えるのは二か所のみだ。
右手側に見える場所はサンドラがいる魔法研究所からのほうが近い。彼女が行くならそちらだろう。クラウスは左手に見える土煙の方へ急いだ。
部下たちには事が起こったら民間人の避難を最優先にするよう指示を出している。心配はない。
クラウスが現場に着くと、第一師団の騎士たちが虎のような変異種と戦っていた。人を丸呑みにできそうなくらいの巨体だ。剣と槍は弾かれ、魔法が当たってもびくともしない。白と黒の虎毛は何事もなかったかのようだ。
ルクシアの報告通り、かなり表皮が硬い。かすり傷ひとつ付けられないでいる。
周囲の建物の壁が崩れている。巻き込まれた民間人はいなさそうだ。その姿は見えない。
虎の鋭い爪が飛んだ。弾かれた騎士は大きく吹き飛ぶ。その身体は瓦礫にぶつかって止まった。痛みで呻き、身体を動かせないでいる。
クラウスは虎に向かって光の矢を複数個打ち込んだ。第一師団の騎士たちより威力があったようで、その巨体がよろける。金色の瞳がギョロッとクラウスに向けられた。
「そう、こっちにおいで。相手は僕だ」
クラウスは小さく笑う。彼の登場に第一師団の騎士たちから安堵の息が漏れた。
虎はゆっくりと向きを変え、クラウスに牙をむく。地を這うような唸り声が牙の間から響いた。虎の姿勢が低くなる。巨大な足の跳躍はそれに見合うものだった。
一瞬でクラウスとの間合いを詰め、牙を突き立てんとする。
クラウスが右手を前に掲げた。虎の身体の半分が瞬きをする間に消え去る。下半身が力なく地に落ちた。
「あ、精霊石まで消し飛ばしちゃったかも」
やりすぎたかな、とクラウスが下半身のみとなった虎の亡骸を見る。じわじわと黒く溶けていくその中に精霊石はなさそうだ。サンプルが減ったとサンドラから苦情が入るかもしれない。
しかし、加減がわからなかったということで勘弁してもらおう。
「僕は他のところに行くから、ここは頼むよ」
クラウスは第一師団の騎士たちにそう言って、サンドラがいるであろう場所へ向かった。
その数分前にさかのぼる。
魔法研究所では避難民を受け入れていた。避難できる人数ギリギリになったところで、結界魔法陣を発動する。これで野獣は容易に入ってこられないはずだ。
研究所の前に立っているのはサンドラだ。白衣を脱ぎ、白のブラウスと黒のスラックス姿となった彼女の手には刀が握られていた。
「さて、行きますか」
土煙が立ち昇る場所を目指して移動する。トンと地面を蹴って空へ飛びあがった。風の神の加護を持つ彼女には簡単なことだ。
サンドラが見つけたのは青いたてがみの熊だった。第一師団の騎士たちが必死に応戦している。熊は唸り声を上げながら両腕をブンブン振り回していた。
第一師団は野獣との戦いに慣れていない。基本的に人間の犯罪者が相手だ。それが如実に表れている。
一歩間合いを詰めては熊の腕に弾かれ、一歩引こうものなら追撃が飛んでくる。
「あーあー、見てらんないね」
サンドラが呆れた声で呟いた。刀を抜き、風を刀身に纏わせる。その瞬間、彼女はトップスピードへと加速した。急降下した勢いをそのままに、熊の腹へ切っ先を叩き込む。
熊は後ろにあった建物へと吹き飛び、建物は崩れ落ちた。
サンドラはゆっくりと地面に降り立つ。手ごたえはあったが、傷はつけられていない。彼女の表情は険しかった。ルクシアの剣が通らないという報告は伊達ではないらしい。
「皆は下がってて。巻き込んじゃうと悪いから」
サンドラは左手をひらひら振りながら第一師団に言う。彼らは大人しくその指示に従った。
建物の瓦礫をかき分けて、熊が姿を現す。大きな口から荒い息が聞こえてきた。
サンドラは熊を見据え、正眼に構える。風が再び刀身に集まり、渦を巻いた。熊がサンドラへ突進する。刀が翻ったと思った時には、サンドラの姿は熊の後ろへと通り過ぎていた。
振り抜かれた刃から血が滴る。
ボトリと熊の左手が落ちた。熊の口から絶叫が迸る。それでもサンドラは容赦しなかった。刀を大きく振り上げ、背後から熊へ叩きつける。
背中から真っ二つにされた熊は声もなく崩れ落ちた。
周囲がシンと静まり返る。
数秒後、ワッと歓声が上がった。その中で熊は静かにドロリと溶けていった。
「ドーラ、ケガはない?」
いつの間にか来ていたクラウスが鞘を投げ渡しながら尋ねた。サンドラはそれを受け取ると、刀を納める。チンッと納刀の音が小さく鳴った。
「この通り何にも」
サンドラは両腕を広げて大丈夫だとアピールする。クラウスは安心したように笑った。
「で、派手にやったね」
クラウスが周りを見渡しながら言った。ちょっと咎める雰囲気のある言い方に、サンドラはムッとする。
「私に頼んだなら、これくらい想定内でしょ」
サンドラは悪びれる様子もない。
実際、彼女が出てこなければこれだけの被害では済まなかった可能性が高いのだ。許容範囲内と言えばそうである。
むしろ、許容しろと彼女は言うだろう。
「他にもまだいるの?」
「たぶんね、行こうか」
サンドラの問いかけに、クラウスはまるで食事にでも誘うように答えた。やれやれ、と肩をすくめながらサンドラは了承する。
どの道、この騒動が治まるまでは研究が出来そうにない。
だが、他の二体は先に向かっていた第三、第四師団長の手によって片付けられていた。ただ、師団長クラスでなければ太刀打ちできなかったようだ。駆けつけるまでの数分間に建物への被害や騎士の負傷が相次いだ。
医療班が忙しそうに動き回っている。
サンドラはその中に見覚えのあるこげ茶色の長い髪を見つけた。
「セラ~、お疲れ。大丈夫そう?」
セラと呼ばれた女性が振り返る。
本名はセラフィーナ。クラウスとサンドラ、アーサーとは同学年で悪友だ。今は治癒師として働いている。
「おー、良いところに来た。手伝え」
「え、やだ。治癒魔法は専門外」
セラフィーナの命令にサンドラは即座に拒否する。
「ドーラじゃなくて、旦那のほう」
セラフィーナが指したのはクラウスだった。クラウスも「え、僕?」と言いながら自分を指さす。
規格外人類は何でもできる。もちろん治癒魔法も使える。そんなわけでクラウスは医療班の輪の中へ強制連行された。
サンドラは手を振って見送る。医療班の中で異彩を放つ長身を面白そうに眺めた。
「協力感謝する。ファーレンハイト侯爵夫人」
威厳のあるバリトンボイスが聞こえてきた。第一師団長のクリフォード・カークだ。
サンドラは柔らかく微笑む。
「ご用があればいつでも」
何とも心強い言葉だ。
クリフォードも小さな笑みを浮かべる。だが、それも長くは続かない。事前に情報を得ながらも、ここまでの被害を出してしまった。クリフォードはサンドラに会釈をして部下たちの指揮に当たった。
サンドラは余計な仕事を言いつけられる前にそそくさと研究所へ戻った。
そんな後片付けに追われている帝都の空に、空を飛ぶ船が現れたのだから再び大騒ぎになる。ルイスが先に降りて説明をして何とか攻撃されることは免れた。
飛行船は城の庭にゆっくりと着陸する。
オルディアーノ家は邪竜族を主犯格とそれ以外に分けて騎士団へ引き渡した。
幸い貴族街は被害が少なかった。オルディアーノ家の別邸も無事だ。
ルクシアは帝都の別邸で今日の出来事を手紙にしたため、兄が魔法で作った鳥でザイゲルへ届ける。これでシディアン王国にも連絡が行くだろう。
「ひとまず、私たちの役目はこれで終わりかな」
鳥が飛んで行った空を眺めながらアーサーが言った。ルクシアは頷く。
「はい。後は国同士でやり取りしてもらいませんと」
これ以上、間に挟まれては本格的に交渉の場へ引きずり込まれかねない。それだけは避けたかった。
ルクシアの望みは平穏な日常だ。面倒事はもうたくさんである。
死んだことにされ、大事な友人が囚われ、最後には自身がさらわれた。
もう業務外労働はしたくない。
通常業務に戻らせてくれと切に願う。
だが、ルクシアの願いに反して事情聴取という現実が待っていた。もうしばらくは帝都に家族そろって滞在しなければならないようだ。
裏を返せば久々の家族の団欒が増えたということ。ルクシアはそう前向きに捉えて、帝都ライフを満喫することにした。
ただ、現役騎士団員であるルクシアには事情聴取の他に書類作成が待っていた。クラウスの執務室の片隅を借りて、今回の一連の騒動の報告書を書かされている。
「クラウスお兄様ぁ、書いても書いても終わりませんわ~」
泣き言を言う妹分にクラウスは笑うだけだ。
良くも悪くも、闇の精霊王の加護を持つ彼女が騒動の中心だったことは間違いない。ルクシアは半泣きになりながらも丁寧に報告書を書き連ねる。
いつもは手伝ってくれるシンディがいない。それだけでルクシアの机の上はどんどん乱雑になっていく。いかにシンディが優秀なアシスタントだったのかが身に染みた。
書いては書類を整理する、を繰り返す。
繰り返すこと丸二日で、ようやく報告書が出来上がった。ジルベールの考察交じりの報告書には負けるが、なかなかの厚みがある。
「終わりました……」
ルクシアはげっそりした顔でクラウスに書類の束を提出した。半年分くらいの書類を書いた気分だ。手が痛い。事務仕事は苦手ではないが、流石に堪えた。
「お疲れ様。今日はもう帰りな」
クラウスは苦笑いでそれを受け取る。ルクシアは彼の言葉を受けて、フラフラと家路に就いた。
外は黒い曇り空でまだ日があるのに夕方のように暗く感じる。もうすぐ雨が降り出しそうだ。その前に別邸に入りたいと足早に道を歩く。
いつもなら労ってくれるシンディがいない。
いつもならモフモフさせてくれるシリウスもいない。
従魔シックになりながらルクシアは歩いた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
別邸の玄関をくぐると、メイドが出迎えてくれた。ルクシアの表情から疲れ具合を読み取ったのか、お茶にしようとリビングへ通す。リビングでは両親がお茶を飲んでいた。
「おかえりルクシア」
「おかえりなさい」
両親が笑顔で出迎えた。ルクシアはフラフラしながらソファへダイブする。
「はしたないわよ」
「無理ですわ~」
母が咎めるが、娘は居直すことをしない。できない、が正しい。
しかし、これが三十代半ばの淑女のやることか、と母は嘆く。仕事に全力投球なのだ。結婚相手が見つけられないわけである。
そこへメイドがカップとティーポットを持ってきた。紅茶が注がれる音が心地よい。
「お嬢様、ここに置いておきますね」
優しい声でメイドが言う。ルクシアは声だけでお礼を伝えた。その声にも力はない。
数分後、ルクシアはのそのそと起き上がった。メイドが注いでくれた紅茶を飲む。温度が上がり飲みやすい温かさになっていた。
身体の中が温まり、ホッとする。
「報告書は終わったのか?」
ルクシアが起きたタイミングを見計らい、ルイスが尋ねた。
「はい、何とか書き終えました」
ルクシアは頷いて答えた。
クラウスのタブレット型連絡機でジェラルドとは連絡を取って無事を伝えてある。皆、安心して仕事をしていることだろう。
「これでメラルの町へ帰れます」
ルクシアは嬉しそうに微笑んだ。
つづく




