52 夢の中の夢とセレネという名
目が覚めたときには、もう朝になっていた。
のろのろと起き上がって、自分の格好を見下ろす。お風呂に入った覚えも着替えた覚えも、ベッドに入った覚えもないが、ちゃんとネグリジェを着てベッドで寝ていたようだ。たぶん、誰かがお風呂にも入れてくれている。……ベル、だけじゃできないだろうから、他の人たちも手伝ってくれたんだろう。
それにしても暑い。暑すぎてぼうっとする。おかしいな、今十一月で、大分気温は低くなってきてるはずなんだけど。
時計に目をやれば、もうそろそろ城を出る時間。今から身支度をしてご飯を食べて、としていたら、遅刻はしないだろうがちょっと危うい時間だった。
体の中の魔力に、意識を向ける。……かなり、増えてる。けれど一晩で大分馴染んだらしく、違和感はなかった。
今日は確か、魔法実技の授業はなかったはずだ。魔法学の授業はあるが、そこはなんとか乗り切ろう。体感的に、まだ扱いきれない魔力量ではない。
重い体を動かして、ベッドの端から足を出して床につける。ぐっと力を入れて立ち上がり……立ち上がり……あれ、立ち上がれ、ない、な……。
自覚はなかったが、昨日のことで大分体にダメージが出ているのかもしれない。というか、かも、ではなく確実に出ているのだろう。立ち上がることさえできていないのだし。
今日は学院を休むしかない、かなぁ……。体調的にはそこまで問題ないから、できれば行きたかったんだけど。
「セレネ、起きてる?」
控えめなノックの後に、ドアの向こうから姉様の声が聞こえてきた。
起きてます、と答えようとして、声が出ないことに気づく。くっ、くっ、と何度か喉の奥を鳴らしてみるも、小さな掠れ声が出るようになっただけだ。
しかし、その気配は姉様に伝わったらしく、「入るね?」とそうっとドアを開けて入ってきた。その後ろにはエリクの姿もある。
私を見た二人は、心配そうな顔をほんの少しだけほっとしたように緩めた。
「おはよう、セレネ。大丈夫、ではなさそうだね……昨日のことは覚えてる?」
「……いち、おう」
「あ、ごめんね! 喋らなくていいから! あとでベルに言って、喉にいいお茶持ってきてもらうね」
お言葉に甘えて声は出さないことにして、ありがとうございます、という意味を込めてこくりとうなずく。姉様にならこれで伝わるはずだ。
「今日は僕たちだけで学院に行くから、ゆっくり休むこと」
「……」
そこまで体調悪くないのになぁ、という思考がばれたのか、エリクはじとっとした目をした。
「ちょっとおでこ触るよ? ……ほら、やっぱり熱高い。昔からセレネ、自分の体調の悪さには鈍感だよね」
ひやりとしたエリクの手に、ほう、と目を細める。冷たい。気持ちいい。
そっか、暑いと思ったのは体自体が熱かったからか。そう自覚すると、なんだか頭がぐらんぐらんしてきた気がする。
額から離れていく手をつい名残惜しげに見てしまうと、エリクは小さくため息をついてから私の両頬に手を添えてくれた。あまりに気持ちよくて、その手の上に更に自分の手を重ねる。すぐに私の熱が移っていって、最初に感じたほどの冷たさは残っていないが、それでも何もないよりはよっぽどましだった。
「……これで嫌がらないなんて、かなり熱が高いみたいだな。本当に今日はゆっくり休んでね。わかった?」
目をつぶりながらうなずくと今度は、仕方ないなぁ、という呆れのニュアンスを含んだため息が聞こえた。
「じゃあセレネ、私たちもう行くね? 今日は先生との訓練やらずに、早く帰ってくるから……」
「僕もまた来るからね。それまでしっかり寝て、ちょっとでも体調を回復させてほしいな」
エリクは私の頬からそっと手を離すと、優しくぽんぽんと頭をなでてくれた。
目を開けて、部屋を出て行く二人を見送る。私の会釈に、姉様とエリクは手を振って返してくれた。……私も行きたかったな。
明日は姉様のお誕生日だ。寝込んでなんかいられないのに、急に体が重くなって、ぱたりとベッドに体を倒す。ああ、やだなぁ……。熱出るとなかなか引かないんだよな、私。明日の朝までには、学院に行けるくらいに回復しているといいんだけど。
少ししてからベルがやってきて、お粥とお茶を持ってきてくれた。なんとか完食してお茶も飲みきれば、ようやく声がまともになる。この調子なら、寝ていれば熱も下がるかもしれない。
食べた直後に寝るのは、と思ったが、眠気に耐えきれずに私は目を閉じた。
* * *
夢を見た。
私が、ゲームの世界に生まれ変わってしまう夢。
私は、そのゲームの主人公の異母妹になっていた。ゲームにはいなかったはずの、よくわからないひと。
最初はゲームの世界だなんて気づいていなかった。けれどそれでも、どうしたって、こんな世界を受け入れることはできなかった。
――こんな世界、私は知らない。
顔の横に手を当てたって、そこに普通の耳はなかった。あるのは兎の耳だけ。聞こえすぎるそれに、いっそ何も聞こえなくなったほうがましだと思った。お尻にはしっぽもあった。耳もしっぽも、びっくりしたり悲しくなったり、そんな感情と共に勝手に動く。
自分の体が、怖くてたまらなかった。何、これ。何もかも、全部私じゃない。これは誰。気持ち悪い。顔も、体も、声も、私じゃない。
王女? 現実味がない。重いドレスは着たくない。知らない人たちにお世話されるのもいやだ。
それに、それに、誰もいなかった。
お母さんもお父さんも、友だちも、知っている人は誰もいなくて、いるのは髪も目もおかしな色の人たち。どうしてこれがこの世界の普通なのか。意味がわからなかった。だって、自然な色じゃない。ありえない。
獣人とか妖精とか、そんなのもファンタジーの世界にしかありえないのに。理解できないひとたちが、そこら中にいる。話しかけてくる。笑いかけてくる。まるで、普通の人のように。
理解できない私のほうが、異常なのだというように。
怖かった。孤独が、怖かった。
いつまで経っても夢は覚めなくて、その世界での日々を受け入れていって。大嫌いだった主人公の、幸せを願ったりなんかして。
……好きな人も、できたりして。
現実の世界の人々が、だんだんと記憶から薄れていった。
やだ。忘れたくない。
息が苦しくなる。
そう、これは夢。長い夢。いつかは覚める夢。だけど、夢の中の人たちも好きになってしまって、大好きになってしまって。夢だなんて、言えなくなってしまった。
だけど、夢なのだ。私が死んだなんて、悪い夢。車が迫ってくるあの恐怖はきっと、何かの勘違い。だから早く、早く。
早く。
すべてを、忘れてしまう前に。
――この夢が覚めますように。
* * *
「あ、起こしちゃった?」
最初に目に入ったのは、エリクの顔だった。……まだ、夢見てるのかな。あれ、でもどっちが夢で、どっちが現実なんだろう。
頭が熱くて、返事もせずにエリクを見つめた。姉様はいない。エリク一人のようだった。
夢、かなぁ。
だってエリクは、ある程度成長してからは一人では私の部屋に入らないようになったから。もちろん、姉様の部屋にだって。
それじゃあ。
さっきのは、夢の中で夢を見てた? ……夢の中の夢で、夢を見ていたんだろうか。
「……」
声を出そうとしても、乾いた口からは何も発せられなかった。「水持ってきたよ」とエリクが差し出した水を、体を起こしてゆっくりと飲む。少しぬるくなっていたが、喉の渇きを潤すのには関係なかった。
飲み終わって一息つくと、エリクのひんやりとした手がおでこに当たる。
「熱上がってるね」
眉をひそめるその顔は、相変わらずの美少女だ。可愛くて、優しくて、でもとびっきりかっこいい。……そんなの、姉様だって同じだけど。
ああ、好きだな。
夢なら言ってしまえ、とも思うが、夢の中でさえ口にする勇気がない。私がもしこの気持ちを告げる日が来るとしたら、それはきっと、姉様が幸せになってからだ。その『幸せ』な未来で、姉様の隣にエリクがいたら。私はもう、エリクを好きでいることすらやめるだろう。
「エリク」
「……なーに、セレネ。声は出るようになったんだね、よかった」
優しく、エリクが私の髪にふれる。くすぐったくて、ふふ、と笑ってしまった。私の笑顔を見て、エリクも笑ってくれた。それが嬉しくて、同時に、なぜかとても悲しかった。
「あのね」
「うん」
「ゆめだと、おもってた」
うん、とエリクはまたうなずく。
「ゆめだと、おもってたんだよ」
「そっか」
「なのに、さめないの。ずっと、ずっと、いつまでたっても、さめなくて」
「うん」
「……ゆめなんかじゃ、なかった」
私が何を言っているのか、わかるわけがない。だけどエリクは、私の話にただ相槌を打ってくれた。
こんなことを言えるのは、夢だからだけど。現実だとしても、エリクはこんなふうに話を聞いてくれるんだろう。だって、エリクだから。
「ねーさまも、えりくも、みんな、すきなの」
目頭が熱くなる。じん、と鼻の奥が痛くなる。
そう。好きなのだ。皆のことが、大好きになってしまったから。
姉様のことが、大好きになってしまったから。
「――さめなきゃ、いいなぁ……っ」
願いが、口からこぼれる。
早く覚めますように。夢の中の夢では、そう思った。
だがもう、違うのだ。今の私は、もう駄目なのだ。――きっと、姉様がいない世界では生きていけない。
「ちがう、きらい、きらい、だいっきらい」
嫌いだったはずだ。
「みんな、きらいだよ……」
「……そっか」
ほんの少し傷ついたように、エリクは微笑む。夢のなかだとはいっても、彼にそんな顔をさせてしまったことに胸が痛む。ごめん、違う、ごめんね。
近くにあった彼の手を、両手でつかむ。
「ごめん、ちがう」
「嫌われててもいいよ」
「ほんとにすきなんだよ」
「そうだったら、嬉しいなぁ……」
「ほんと、だよ」
だからそんな顔をしないで、と泣きながら言えば、「セレネこそ」と困った顔をされてしまった。
エリクの綺麗な指が、私の涙を拭う。
「セレネが僕たちのことを好きなら、嬉しいけど。でもそうじゃなくても、僕たちはセレネのことが好きだから、それだけでいいんだよ」
優しくて、甘い声。その声が紡ぐ言葉は、頭の中に上手く入っていかなかった。
セレネ、セレネ。
――それは、誰のこと?
「セレネって、だれ」
え、と見開かれた碧眼を見て、言ってはいけないことを言ってしまったと思った。
「だ、いじょうぶ、私、わたしがセレネだから、大丈夫」
慌てて、夢の中のエリクに首を振る。
でも、あれ、とふと思った。
今私はたぶん、夢を見ているのだ。だとしたら。エリクがいても、私が私であるとは限ら、ない? ここにいる私は、誰?
「……セレネ?」
エリクが、そう呼ぶのなら。私はここでも、私なのかな。
そっと、耳に手を当てる。もふりとした感触。涙で歪んだ視界に映るのは、白い毛。きっと鏡を覗き込めば、赤い瞳がこちらを見返してくるのだろう。
「……うん」
エリクの呼びかけにうなずいて、その名前を肯定する。
体が重くて、枕に頭を下ろす。その弾みに瞼を閉じてしまえば、すぐに眠気がやってきた。……また、夢の中で夢を見るのかなぁ。
眠りに落ちていくなか、「おやすみ」と頭をなでられた気がした。
案の定、次の日も熱は下がらなかった。むしろ悪化した。朝おはようを言いに来てくださった姉様に、力なく挨拶を返し、体を起こす。
「姉様、お誕生日おめでとうございます」
喉が回復したままだったのだけが救いだ。姉様のお誕生日当日に、直接お祝いの言葉が言えないなんてことになっていたら……うぅ、よかった。
ずきずき痛む頭に顔をしかめ、頭に手をやると、姉様は気遣わしげに私の体を支えてくださった。
「ありがとう、セレネ。無理しないで」
「いえ、そういうわけにはいきません。プレゼント、は……」
今、渡していいだろうか。帰ってきてからのほうがいいだろうか。
逡巡する私の頬に、姉様の手がそうっと伸びてくる。熱で火照ったそこに冷たさが心地よくて、無意識にふっと息を漏らす。
「今、もらっていい?」
微笑む姉様に、ほっとうなずく。
「はい、ぜひ」
立ち上がろうとすれば、慌てて押しとどめられた。「しまってある場所言ってくれればいいから!」と主張する姉様に、しぶしぶ場所を伝える。私の手で渡したかったな……。
無事プレゼントを見つけた姉様は、綺麗に包装された小さな箱を嬉しそうに見つめる。
「開けてもいい?」
「もちろんです」
そわそわした様子で、包装を解いていく姉様。箱の中から出てきたのは、青いリボンバレッタだ。狐とカレン様のプレゼント選びをしたときに、一緒に買ったあれだった。
わあ、と小さく歓声を上げて、姉様はそれを持ち上げた。
「すっごくかわいい!」
目を輝かせた姉様は、いそいそと髪をハーフアップにまとめて、さっそくバレッタで留めた。……可愛い。思った通り、すごく似合っている。姉様に関して私の見立てが間違うことはないだろうとは思っていたが、それでも実際につけているところを見ると安心した。
……悔やまれるのは、やっぱりそれを私の手で渡せなかったことかなぁ。
「よかった、とってもお似合いです」
「ありがとう! 大事にするね」
頬を染めて笑う姉様に、私は今、ここにいるのだと意識する。
……大丈夫。
私は、セレネ・ヴィヴァーシェ・ムーン。ゲームには存在しないけれど、姉様の異母妹だ。
セレネ・ヴィヴァーシェ・ムーン。それが、私の名前。他でもない、私を示す、私だけの名前。
私は、ここにいる。




