第6話:bad
カードを鞄にしまい込んでから三日、湊は何も決められないまま、いつも通りの生活を続けていた。決めない、というのもまた一つの選択だと、自分に言い聞かせながら。
異変は、大学祭の準備で賑わう夕方のキャンパスで起きた。
模擬店の設営で行き交う学生たち。発電機のうなる音。誰かが試し打ちする太鼓の音。その只中で、体育館裏――資材や折り畳みテーブルが積み上げられた、人気の少ない一角だけが、ふっと重くなった。
「クダン」
「複数だ。しかも、統率されてる」
湊の声に応じるクダンの声には、これまでにない緊張があった。積み上げられた資材の影から、それは一体、また一体と姿を現す。
人の形をした、黒曜石のような漆黒の身体。表面は無数の細かいひび割れに覆われ、動くたびにその隙間から、燻んだ赤い光が漏れる。顔にあたる部分には目鼻はなく、ただ滑らかな鏡面があるだけだった。関節という関節――肩、肘、股、膝――に、赤い光の筋が走っている。まるで、そこから何かに操られているかのような、不気味な規則性だった。踏み込むたびに、その光の筋が明滅し、四体の動きが寸分違わず同期する。
数えて、四体。
「多すぎる……」
これまで相手にしてきたのは、いつも一体だけだった。四体同時は、明らかに規模が違う。しかも動きに迷いがなく、まるで一つの意志で操られているようだった。
「使役型が、複数を同時に動かしてる。誰かが本気で、ここを狙ってる」
湊は右手に意識を落とした。何も考えない。選ばない。だが今回ばかりは、それだけでは足りないという予感があった。
*
「――来る!」
先頭の一体が、地を蹴った。踏み込みの速さは、これまでの敵とは比べ物にならない。湊は反射的に右手を突き出し、縛糸を放った。
「縛糸っ……!」
伸びた糸が、影の腕に絡みつく。手応えがあった。関節の隙間から漏れる赤い光が、糸の締め付けに反応するように激しく明滅する。
「捕らえた……!」
だが、絡め取った瞬間、二体目と三体目が左右から同時に踏み込んできた。まだ一体目を締め上げている右手が、動かせない。
「くそ……!」
湊はとっさに身を捻り、積まれた資材の陰へ転がり込んだ。金属パイプが乾いた音を立てて崩れる。二体目の拳が、湊のいた場所を掠め、コンクリートの床に蜘蛛の巣状のひびを刻んだ。
「馬鹿力かよ……!」
息をつく間もなく、三体目が回り込んでくる。湊は縛糸を手放さないまま、空いた左手で近くの折り畳みテーブルを蹴り倒し、盾代わりに滑らせた。三体目の拳がテーブルを叩き割る。木片が飛び散る中、湊はその隙に距離を取った。
「湊、四体目が来る」
「分かってる、けど――」
一体を拘束したまま、残る三体を相手にする。糸を引き絞る余力もない。湊の呼吸が、次第に浅くなっていく。
「くっ……!」
四体目の蹴りをまともに受け、湊は資材の山ごと吹き飛ばされた。背中を強かに打ち、視界が一瞬白く霞む。手にしていた縛糸の締め付けが緩み、一体目が拘束を振りほどいた。
「効いてない、わけじゃない……けど、数がっ……」
四体が、ゆっくりと湊を囲むように距離を詰めてくる。関節の赤い光が、示し合わせたように同時に明滅した。避けきれない――そう覚悟した瞬間。
空気を切り裂くような音とともに、闇の中から何かが割り込んだ。
*
最初に視界に飛び込んできたのは、血のように赤黒く濡れた爪だった。
二体目の胴を、深々と斜めに切り裂く。黒曜石の表面が砕け散り、内側から溢れた赤い光の粒子が、線香花火のように弾けて消えていく。返す刃――いや、その手自体が刃だった――が三体目の首筋を薙ぎ、悲鳴の代わりに甲高い硝子の割れる音が響いた。
湊はその一部始終を、地面に倒れ込んだまま呆然と見ていた。
黒いコートを羽織った、湊と同年代か、少し年上に見える男だった。長身瘦躯、癖のない黒髪をわずかに乱しながらも、そのせいで余計に様になっている。整った顔立ちに、酷薄そうな微笑み。瞳の色は、街灯の光を受けるたびに、黒からわずかに赤みを帯びて見えた。右手の指先は、人間のそれではなく、黒く長い、獣めいた爪へと変わっている。その根元から、薄い蝙蝠のような翼の膜が、肘の辺りまで覆っていた。
「――二体」
男が低く呟くと、翼の一部が鞭のようにしなり、残る一体目と四体目を纏めて薙ぎ払った。今度は爪ではない。翼膜の縁が、まるで刃物のように硬質な音を立てて肉――否、殻を裂いていた。二体は声すら上げさせず、地に伏す。
わずか数秒の出来事だった。
「――終わりか」
男は爪を、指先へとゆっくり収めていく。血のように赤黒い色をした爪が、皮膚の下へ溶けるように消えていった。
*
男は湊を一瞥すると、興味なさそうに肩をすくめた。
「後輩、ってことになるのか。お前が、例の」
最後まで言わず、男は湊の右手――まだ糸の余韻が残るそこに、視線を落とした。
「へえ」
たったそれだけの反応だったが、その一瞬、男の目つきが変わったのを、湊は見逃さなかった。値踏みするような、あるいは、何かを確かめるような目。
「なんだよ」
「お前の力、他の連中のとは、根本が違うな」
「どういう意味だ」
「さあな。詳しいことは、紬にでも聞け」
紬。その名前に、湊は反応した。あの女がそう名乗っていたわけではないが、聞き覚えのある響きだった。
「あんたも、アーク機関の……」
「黒瀬蓮。一応、先輩アニマフレンドってやつだ」
答えたのは黒瀬ではなく、彼の肩口から顔を出した何かだった。掌ほどの大きさの、蝙蝠に似た翼を持つ小さな影。真っ黒な体毛に、顔の大きさに不釣り合いなほど広がる口からは、鋭い牙が覗いている。それなのに、丸くくりくりとした目だけは、拍子抜けするほど人懐っこかった。
「ギャハハ! 律儀に自己紹介とはお前も丸くなったな、レン!」
「うるさい、黙ってろ」
黒瀬が心底うんざりした顔で吐き捨てると、小さな影はふわりと肩の上で丸くなった。
「今の、喋った……?」
「俺はストリゴイ。こいつのアニマだ。よろしくな、新入り!」
「うるさいと言っている」
黒瀬の声には、明らかな苛立ちが滲んでいた。クダンとはまた違う、やたらと陽気なテンションに、湊は面食らったまま立ち尽くした。
黒瀬と名乗った男は、それだけ言うと、興味を失ったように背を向けた。地面に横たわる四体は、赤い光の残滓を残しながら、砕けたガラス細工のように静かに崩れていく。
「待てよ、説明――」
「説明はあっちの仕事だ。俺は片付けが専門でな」
黒瀬は振り返ることなく、夕闇の中へ姿を消した。残された湊は、地面に残る硝子片のような残骸を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。関節にあった赤い光の筋だけが、最後まで消えずに、小さく明滅を続けていた。
「クダン。今の、何なんだよ」
「見ての通りだ。格が違う」
クダンの声には、悔しさとも呆れとも取れる響きがあった。
「俺、あんなに強くなれるのか」
「なれるかどうかより、なるかどうかだ」
いつになく突き放した言い方だった。湊は右手を強く握りしめた。悔しさが、腹の底からじわじわと込み上げてくる。今まで感じたことのない種類の感情だった。
選ばないことに慣れていた自分が、初めて、はっきりと何かを欲しがっていた。
(第六話・了)
◆用語ノート
・黒曜の使役型:黒曜石のような外殻を持つ、統率された複数体で行動する使役型スティグマ。関節部に走る赤い光の筋で互いに同期しており、何者かに操られている様子が窺える。今回のような「一体の意匠を複数体で使い回す」個体が、後の巻で判明する「制御糸」による人形化技術と関係している可能性がある。
・黒瀬蓮:突如現れ、圧倒的な力で複数のスティグマを一瞬で片付けた先輩アニマフレンド。アニマ・ストリゴイの力を宿し、鋭い爪と翼膜を武器化して戦う。湊の力に何かを感じ取った様子だった。
・ストリゴイ:黒瀬蓮の宿すアニマ。吸血鬼をモチーフとし、爪や翼を得物として顕現させる。
・紬:黒瀬の口から出た名前。謎の女と関係があるらしい。




