第7話:旅立ちの日
黒瀬蓮という男に会った夜から、湊は河川敷での稽古の時間を倍にした。
結果はすぐには出なかった。糸は相変わらず気まぐれで、思った通りの軌道を描いてはくれない。それでも、湊は毎日そこに立った。木刀の素振りと、アーツの制御と、両方を交互に繰り返しながら。
「無理するタイプには見えなかったけどな、お前」
「無理してるわけじゃない。ただ、悔しいだけだ」
クダンは何も言わず、その日はいつもより長く、湊の練習に付き合った。
*
大学祭の片付けが終わった週末、湊は鞄の内ポケットから、あの紋様入りのカードを取り出した。
触れるかどうか、迷った時間は、これまでの人生でいちばん短かった気がする。
指先が紋様に触れた瞬間、カードはかすかな光を放ち、宙に小さな文字を浮かび上がらせた。〈明日の夕方、いつもの河川敷で〉。差出人の名前はなかったが、誰からのメッセージかは考えるまでもなかった。
*
翌日、約束の場所には、あの女が一人で立っていた。
「来ましたね」
「あんたの名前、まだ聞いてなかった」
女はわずかに目を見開き、それから、初めて小さく笑った。
「天野紬です。アーク機関で、調査と解析を担当しています」
「天野……紬」
「呼び捨てで構いません。呼びにくい名前でもないので」
妙に事務的な自己紹介だった。湊は苦笑しながら、河川敷の草の上に腰を下ろした。
「単刀直入に聞く。俺が行ったら、何がある」
「守られます。今よりはずっと安全に、アーツの使い方を学べます。そして――おそらく、世界中を旅することになります」
「世界中?」
「スティグマは、日本だけの現象じゃありません。あなたのようなアニマフレンドを必要としている場所は、他にもたくさんある」
湊は空を見上げた。夕焼けが、川面に赤く滲んでいる。
「今の生活を、捨てることになるのか」
「捨てる、とまでは言いません。ただ、今まで通りではいられなくなる。それは事実です」
嘘のない答えだった。湊はそれを、むしろありがたく思った。
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その夜、湊は佐伯を居酒屋に呼び出した。
「珍しいな、湊から誘うなんて」
「……ちょっと、しばらく大学休むかもしれない」
「は? なんで」
「家の事情、みたいなもん」
また嘘だった。だが今度の嘘には、これまでとは違う感触があった。守るための嘘だと、自分に言い聞かせることができた。
「まあ、お前が決めたんならいいけど」
佐伯はそれ以上、深く聞いてこなかった。ただ、いつもよりほんの少しだけ長く、湊の顔を見ていた。
「湊、お前、なんか変わったな」
「そうか?」
「前より、目、逃げてない」
湊は何も答えなかった。ただ、ジョッキの中の泡を、ぼんやりと見つめていた。
*
翌週、指定された河川敷には、これまで見たこともない大きさの影が浮かんでいた。
雲を割るようにして降りてきたのは、鯨に似た輪郭を持つ、飛行艦だった。船体のあちこちに、幾何学的な紋様――カードに刻まれていたのと同じ意匠――が刻まれている。
「梭型飛行艦……アリア・ドルフィン号だ」
クダンが、珍しく感心したような声を出した。
タラップの上に、天野紬が立っていた。
「決心はつきましたか」
「……ついた、と思う」
湊は一瞬だけ、迷うそぶりを見せた。だが、それは今までのような、決められないための迷いではなかった。ただ、この選択の重さを、確かめるための一瞬だった。
「行く」
言い切ったその声に、自分でも驚くくらい、迷いはなかった。
クダンが肩に飛び乗る。タラップに足をかけた湊の視界に、遠ざかっていく見慣れた街並みが映った。もう戻れない、というより――戻る場所の意味が、これから変わっていくのだと、湊は静かに理解していた。
船内へと足を踏み入れる湊の背後で、タラップが音もなく閉じていく。
名前も知らない「何か」たちが、まだこの世界のどこかで、彼を待っていた。
*
「――で、結局、日本に残ってるスティグマはどうなるんだ」
船内食堂の丸テーブルで、湊は紬に向かって、ずっと引っかかっていたことを聞いた。アリア・ドルフィン号に乗り込んで三日、生活にも少しずつ慣れてきた頃だった。
「良い質問ですね」
紬は端末を操作しながら、地図上に光る点をいくつか表示させた。
「スティグマには、地域ごとに個体をまとめる『親玉』格が存在します。親玉を倒せば、その周辺の個体は連鎖的に鎮静化し、消滅する。だから私たちは、一つの地域に居座り続ける必要がない。各地の親玉さえ押さえれば、被害は最小限に抑えられます」
「なんだ、そうなのか。じゃあ最初の夜にいたやつも――」
「ええ。あなたが最初に戦った個体は、周辺一帯を統率していた親玉でした。今の日本は、ひとまず落ち着いています」
少しほっとした。だが、紬の表情はすぐに引き締まった。
「ただし、使役型は別です。あれは親玉の支配下にいるわけじゃない。外から誰かの意志で動かされている。だから、親玉を倒しても消えません」
湊の脳裏に、あの夜の光景が蘇る。地面に走った、文字のような模様。――迎えに行く。
「あれは、まだどこかにいるってことか」
「おそらくは」
紬は、それ以上何も言わなかった。
*
「おう、噂の新人!」
機関室に迷い込んだ湊に、そう声をかけてきたのは、油じみた作業着を着た、やたらと声の大きい青年だった。日に焼けた肌に、無造作に刈り上げた金髪。袖をまくった太い腕には、機材の熱傷らしき痕がいくつも残っている。名札には「ルーカス」とある。
「アーク機関の整備担当、ルーカスだ。よろしくな、湊!」
「あ、はい。よろしく……」
「聞いたぜ、アーツの制御、まだ我流なんだって? なら丁度いい、俺が艦の武装データ、色々見せてやるよ。テンション上がるぞ、これ」
「アーク機関って、そんなに兵器も持ってるのか」
「持ってるっちゃ持ってるけど、スティグマ相手じゃほぼ飾りだよ。うちの技術力どんなに上げても、あいつらには通用しない。だから結局、アニマフレンドが頼りなんだ」
ルーカスは満面の笑みで、湊の肩を遠慮なく叩いた。船に乗ってから出会った誰よりも距離が近い。紬の淡々とした調子に慣れていた湊には、その熱量が新鮮だった。
「なあ、湊の技って、まだ名前ないのか?」
「名前?」
「戦闘記録につけるんだよ、識別用に。『糸で縛るやつ』じゃログとして格好つかないだろ」
言われてみればその通りだった。湊は少し考えて、口を開いた。
「じゃあ、あの……絡め取るやつだから……ぐるぐる、とか」
「センスの欠片もねえな!」
ルーカスが盛大に噴き出した。紬まで、口元をわずかに緩めている。湊は顔を赤くしながら、慌てて訂正した。
「じゃあ、その……『縛糸』とか」
「お、いいじゃん。それでいこうぜ」
あっさり採用された。湊は少し照れくさくなって、右手を軽く握った。まだ様になっていない自分の力に、初めて名前がついた瞬間だった。
「そのうち、もっとかっこいいのも増やせよ。お前ならできる」
ルーカスの言葉には、根拠のない、けれどまっすぐな確信があった。
*
その夜、湊は展望デッキで一人、夜の海を見下ろしていた。行き先は、東南アジアのどこかだと聞いている。見たこともない景色に、少しだけ気持ちが浮つく自分がいた。
「クダン」
「なんだ」
「これから、いろんなやつに会うんだろうな」
「嫌でもな」
答えるクダンの声は、いつもよりわずかに軽かった。
遠く、雲の切れ間に、小さな光の点が見えた気がした。街の明かりにしては規則性がなく、まるで何かがこちらを見ているような、そんな瞬きだった。
「クダン、今の――」
「見えてる。まだ距離がある」
目を凝らすと、その光は4足歩行の獣のような輪郭を持ち、時折、低い唸り声のようなものを響かせているようだった。これまで出会ってきた「何か」とは、明らかに違う気配。
「あれも、スティグマか」
「たぶんな。だが、様子がおかしい」
光はやがて、雲の向こうへと紛れて見えなくなった。湊は手すりを強く握りしめたまま、しばらくその方角を見つめ続けていた。
旅は、まだ始まったばかりだった。
(第七話・了)
◆用語ノート
・天野紬:アーク機関の調査・解析担当。謎の女の正体はこの人物だった。
・アリア・ドルフィン号:アーク機関の飛行艦。謎の技術が詰まっている。ここから湊の旅が本格的に始まる。
・親玉:ある地域のスティグマを統率する個体。倒すと周辺の個体も鎮静化するらしい。ただし使役型はこの法則の外にある。
・ルーカス:アリア・ドルフィン号の整備担当。声が大きく人懐っこい、これまでとは毛色の違う人物。
・縛糸:湊の技に初めてついた名前。ルーカスの後押しでとりあえず採用された。




