第4話:アニマ
実家の物置には、祖父の道着が今もそのままかけてある。
週末、碧見市の実家に顔を出した湊は、母に頼まれた片付けの途中で、この部屋にふらりと立ち寄った。埃っぽい匂いと、畳の湿った感触。子供の頃はもっと広く感じた部屋が、今はやけに小さく見える。
湊は幼い頃、日曜の朝だけこの部屋に呼ばれた。畳の上に立たされ、構えを直され、何度も同じ動きを繰り返させられた。「考えるな、覚えろ」というのが、祖父の口癖だった。意味が分かったのは、ずっと後になってからだ。あの頃は、朝早く起こされることが嫌で仕方なかった。今なら分かる。あれは、頭で選ぶより先に、身体に答えを刻み込む作業だったのだと。
道着の袖に触れると、古い木刀が壁に立てかけてあるのが目に入った。柄の部分だけ、明らかに色が違う。祖父の手の脂が、何十年もかけて染み込んだ跡だった。祖父が最後に倒れたのも、確かこの部屋の畳の上だったと聞いている。湊はその日、部活の練習で家におらず、看取ることすらできなかった。
「懐かしいのか」
肩の上でクダンが言った。いつの間について来ていたのか、湊は気づいていなかった。
「別に。ただ、思い出しただけ」
「思い出すことに『別に』は付けなくていい」
妙に的を射たことを言う。湊は木刀を手に取り、素振りを一つした。空を切る音は、いつもと変わらない。ただの、対人間の技術。それでも、この動きが今の自分を支えていることを、湊はもう疑っていなかった。
「じいちゃんは、なんでこんなに稽古をつけたんだろうな」
「守りたいものがあったからだろう。大抵の場合、理由なんてそれだけで十分だ」
柄にもなく、素直に胸へ落ちてくる言葉だった。湊は木刀を壁に戻すと、道着にもう一度だけ触れて、物置の戸を閉めた。
*
「湊、最近ほんと変じゃない?」
学食で、佐伯が急に真顔になった。
「なにが」
「なんか、たまにボーッとしてるし、腕にでっかい絆創膏貼ってるし。彼女できた?」
「できてない」
「じゃ、なに」
言葉に詰まる。嘘をつくのは苦手だった。かといって、本当のことなど言えるはずもない――肩にはスティグマにやられた痣があり、右手には正体不明の力が宿っていて、蜘蛛に似た相棒が自分の部屋に住み着いている、などと。
「バイト、始めた」
「湊がバイト? 珍しい」
「まあ、色々あって」
「何のバイト」
「……力仕事系」
あながち嘘でもない、と思ってしまう自分に、湊は少し呆れた。
我ながら苦しい嘘だった。佐伯はそれ以上追及してこなかったが、その気遣いが逆に胸に刺さった。選ぶことから逃げてきた自分が、今度は真実から逃げている。何も変わっていない、と思いかけて、湊は小さく首を振った。少なくとも、あの夜、身体は迷わず動いた。それだけは、前の自分とは違う。
「まあ、無理すんなよ」
佐伯はそれだけ言うと、話題を変えた。湊は曖昧に頷きながら、心のどこかで、この日常がいつまで続くのか分からない、という予感を持て余していた。
*
その夜、河川敷での稽古の後、湊は珍しく息が上がったまま座り込んだ。
「今日はやけに疲れるな……」
「シンクロの負荷だ」
「また新しい単語かよ」
「お前と俺の結びつきの深さを指す言葉だと思っとけ。深く使うほど、お前の側にも負担がかかる」
「便利な力ってわけじゃないんだな」
「タダで動く力なんてものは、この世にない」
妙に実感のこもった言い方だった。
「クダン。あんたの正体は、結局何なんだよ」
クダンは一瞬だけ動きを止めた。
「アニマ。俺たちのような存在を、そう呼ぶらしい」
「あんたも、その一つってことか」
「そういうことになる」
「じゃあ、あんたの本当の姿は」
「今はまだだ、と言ったはずだ」
いつもの調子に戻って、クダンはそれ以上答えなかった。
だが、話を切り上げようとしたそのとき、河川敷の対岸で、街灯が一つ、また一つと消えていくのが見えた。規則的に、まるで何かに導かれるように。
「……クダン」
「今日はもう帰るつもりだったんだがな」
闇の中から現れたのは、これまでの「何か」とは明らかに違う動きをする影だった。無造作に暴れるのではなく、まっすぐに、迷いなく、湊のいる方向だけを見ている。
「動きが違う」
「使役型だ。誰かの指図で動いてる」
クダンの声から、初めて聞く硬さが伝わってきた。湊は木刀の素振りで培った勘だけを頼りに、右手を軽く握った。指先に、まだ完全には制御できない糸の気配がざわめく。
影との距離は、まだ十分にある。それでも湊は、後ずさろうとする自分の足を、意識してその場に留めた。
「指図って、誰の」
「それが分かれば苦労しない」
影は足を止め、地面に細い糸のような線を何本も走らせた。無意味な模様に見えて、湊にはなぜか、それが「文字」のように思えた。読めない。それでも、何かを伝えようとしている気配だけは、はっきりと感じ取れた。
――迎えに行く。
なぜかその一言だけが、頭の中に落ちてきた。声ではない。誰かが直接そう告げたわけでもない。それでも、確信に近い形で、湊はそう理解した。
「クダン、今の」
「聞こえたのか」
「聞こえたっていうか……分かった、が近い」
クダンは答えなかった。ただ、これまでにない真剣さで、影を――そして湊を、見ていた。
影は地面の模様を残したまま、街灯の消えた闇の奥へと、音もなく退いていった。
(第四話・了)
◆用語ノート
・シンクロ:アニマフレンドとアニマの結びつきの深さを表す言葉。力を使うほど、湊自身にも負担がかかるらしい。
・アニマ:クダンのような存在の総称、あるいは出どころを指す言葉。クダン自身もその一つらしいが、詳しい正体はまだ明かされていない。
・使役型:これまでのスティグマとは違い、誰かの指図で動いているように見える個体。今回、初めて湊自身に接触してきた。




