第3話:街が綻びる日
「もう一回」
「さっきから同じことしか言ってないだろ」
「同じことしかさせてないからな」
河川敷は、二日連続で湊の道場になっていた。夕暮れ時、犬の散歩をする人影がまばらに通り過ぎていく以外、誰もいない土手。湊はスニーカーの先で地面を均すと、右手を突き出し、意識を手放すように息を吐く。何も考えない。選ばない。ただ、そこにあるものを、あるがままに引く。
最初の一時間は、何も起きなかった。二度目の挑戦で、指先がわずかに痺れた。三度目――もう諦めかけていた頃。
――ふっ、と。
指先に、光る糸が一筋、浮かんだ。すぐに霧散したが、確かに見えた。
「出た」
「出たな。昨日より早い」
「これ、なんて呼べばいいんだ。糸、じゃさすがに味気ないだろ」
「アーツだ」
クダンはこともなげに言った。
「アーツ? 武道の型か何かかよ」
「お前らの言葉に無理やり当てはめてるだけだ。呼び方なんかどうでもいい、使えるかどうかが全部だ」
「いや、どうでもよくはないだろ、これから毎回それで呼ぶんだぞ」
「細かい男だな」
「あんたが横文字ばっかり使うからだろ」
クダンは答える代わりに、湊の肩に飛び乗った。
「お前みたいな、何かの力を宿した人間のことを、こっちじゃアニマフレンドって呼ぶ。まあ、名前の通りだ」
「俺、うつわなの」
「不満か」
「いや、まあ……響きは悪くないけど」
現金なものだと自分でも思う。
「で、その中身は? あんたの正体は結局なんなんだよ」
「それはまだ早い」
「毎回それだ」
「お前が全部知って、受け止めきれるとは思ってない。今のお前に必要な分だけ渡す。それが俺の役目だ」
いつになく真面目な声だった。湊は、それ以上突っ込むのをやめた。
河川敷を後にする頃には、街の明かりがぽつぽつと灯り始めていた。自転車を押しながら歩く湊の肩で、クダンが小さくあくびをする。
「なあ、クダン。俺、これから毎日こんな感じなのか」
「毎日ではない。だが、油断していい日は減る」
「不穏な言い方すんなよ」
「不穏なんだから仕方ない」
軽口を叩き合いながらも、湊の胸の奥には、小さな棘のような予感が居座っていた。
*
異変が起きたのは、その翌日、大学帰りの商店街だった。
夕方の人混み。総菜屋の匂い。自転車のベルの音。買い物袋を提げた主婦、下校中の小学生、シャッターを下ろし始める八百屋の店主。ごくありふれた光景の中に、それは唐突に紛れ込んできた。
最初に気づいたのは、電飾看板がノイズのように明滅したことだった。次に、通りの端に立っていた郵便ポストの輪郭が、ぐにゃりと歪んだ。
「クダン」
「見えてる。今日は昼間からとは、ずいぶん礼儀知らずだ」
郵便ポストだったものが膨れ上がる。赤い塗装がひび割れ、剥がれた破片の下から覗くのは、油じみた黒い金属の地肌だった。丸みを帯びていた本体は縦に引き伸ばされ、人の背丈をゆうに超える太さの胴体になる。投函口だったはずの横長の切れ込みが、耳障りな音を立てながら顎のように開閉した。左右には、案内板の支柱を取り込んだらしい、いびつに長い二本の腕。先端は鈍く尖り、鉄杭のようだった。周囲の悲鳴が上がるまで、数秒とかからなかった。
湊は考えるより先に走り出していた。人波を割って、スティグマと人々のあいだに割り込む。
「動け、間抜け」
言われるまでもなかった。右手に意識を落とす。何も考えない。選ばない。
鉄杭のような右腕が、唸りを上げて振り下ろされる。湊はぎりぎりで飛び退いたが、アスファルトに突き立った腕の余波で、足元が揺れた。
「くそ、でかい……!」
「大きさに気を取られるな。芯は一本、投函口の奥にある」
クダンの声に、湊は目を凝らした。開閉を繰り返す顎の奥、暗がりの中に、鈍く光る何かがある。あれが芯か。
伸びた糸が、まず左腕の付け根に絡みつく。二日前とは違う。今度は、ただ引かれるのではなく、自分の意思でその軌道を選べた。糸は左腕を縛り上げ、通りの脇――誰もいない路地へと、力ずくで引きずり込む。
だが、右腕が追ってきた。振り回された鉄杭が、湊の頭上すれすれを掠める。ブロック塀に突き立ち、粉塵とともに亀裂が走った。
「もう一本、来る……!」
湊は塀を蹴って横に転がり、路地に積まれた古い自転車の山へ飛び込んだ。右腕がそれを巻き込んで薙ぎ払う。フレームの軋む音と共に、視界が土埃で白く濁った。
「今だ。芯へ引け」
クダンの声に、湊は左腕を縛ったままの糸を、渾身の力で引き絞った。ずるり、と手応えが変わる。糸の先が、顎の隙間から本体の奥へと食い込んでいく感触。
路地の暗がりで、湊は本気で糸を絞った。今度こそ、迷わなかった。頭のどこかで、祖父の声がした気がした。――迷ってから動くな、動きながら迷え。
「――抜けろ!」
引き絞った糸が、鈍く光る芯ごと本体を内側から締め上げる。金属の軋む音が悲鳴のように高く響き渡り、やがてひび割れた郵便ポストの残骸が、砂の城が崩れるように音もなく崩れ落ちていった。手のひらに残る痺れるような余韻。息が上がっているのは、恐怖のせいなのか、力を使った反動なのか、湊自身にも分からなかった。
肩で息をする湊の視界の端、路地の入り口に、誰かが立っていた。
若い女だった。飾り気のない地味なコートを羽織っているのに、そのせいでかえって整った顔立ちが際立って見える。長い黒髪を無造作に一つにまとめ、化粧気はほとんどない。眼鏡の奥の目は、黒に近い深い焦げ茶色で、感情の温度が読み取りにくい。逃げ惑う人々の中で、彼女だけがまるで別の時間を生きているかのように、静かにこちらを見ていた。手には薄い端末のようなものを持ち、指先がその上で小さく動く。何かを記録しているように見えた。
「あんた……」
声をかけようとした瞬間、彼女はコートを翻し、路地の奥へと姿を消した。追いかけようとした湊の肩を、クダンが押さえる。
「よせ。今のお前じゃ追いつけない」
「誰だよ、あれ」
「さあな」
いつもの投げやりな声ではなかった。湊は肩越しにクダンを見た。
「クダン、なんか知ってるだろ」
「厄介なのに目をつけられたな、とは思ってる」
「それ、答えになってない」
「今はそれで十分だ」
商店街には、何事もなかったかのように明かりが戻っていた。総菜屋の匂いも、自転車のベルの音も、下校中の小学生の笑い声も。誰一人、たった今そこで何が起きたのか気づいていない。それが救いなのか、恐ろしいことなのか、湊にはまだ判断がつかなかった。
ただ一人、湊の中にだけ、静かな女の視線の記憶が残っていた。感情の読めない、けれど確かにこちらを見ていた、あの目。
(第三話・了)
◆用語ノート
・アーツ:湊の右手に宿った力の呼び名。使い方次第で軌道を制御できるらしい。
・アニマフレンド:アーツのような力を宿した人間を指す呼び方。湊自身もその一人だという。
・郵便ポストのスティグマ:日用品を取り込んで巨大化した個体。開閉する投函口の奥に「芯」と呼べる核があり、そこを直接締め上げなければ機能を止められない。
・謎の女:商店街での一件を、物陰から静かに記録していた人物。正体は不明。




