第2話:同居人
目が覚めて最初に思ったのは、夢だった、ということだった。
次に思ったのは、夢にしては肩が痛すぎる、ということだった。
常盤湊はベッドの上で半身を起こし、パジャマの袖をまくった。左肩に、焼け跡のような赤い痣が残っている。ゆうべ、「何か」の腕がかすめた場所。夢なら痛みは残らない。少なくとも、湊の知っている夢は、朝になればちゃんと輪郭を失ってくれるはずだった。
「起きたか」
声のした方――勉強机の上を見ると、蜘蛛によく似た小さな異形が、消しゴムのかけらを前脚でつついていた。存在ごと現実感がない。それでも、間違いなく昨夜と同じ声だった。
「……本当にいるんだ」
「いたら悪いのか」
「悪くはないけど……あんた、それ、俺の消しゴム」
「食い物じゃないのは分かってる。触感の確認だ」
クダンは前脚で消しゴムを机の端まで押しやると、湊の枕元まで八本――いや、それよりずっと多い脚を器用に使って歩いてきた。存外に軽い足音。体長は掌に収まる程度なのに、机がわずかにきしんだ気がしたのは、たぶん気のせいだ。
「あんた、どこで寝てたんだよ」
「本棚の隙間」
「勝手に住みつくなよ」
「文句があるなら追い出してみろ。お前にできるならな」
できるわけがなかった。昨夜あれだけのことがあって、なお「追い出す」という選択肢を本気で検討できるほど、湊の頭は単純にできていない。
「訊きたいことは山ほどあるだろうが、今日はやめとけ」
「は?」
「学校があるんだろう。行け。話はお前が消化できる分だけ、小出しにしてやる」
都合のいいときだけ物分かりのいいことを言う。湊はそう思ったが、口には出さなかった。出したところで、答えが返ってくる気がしなかったからだ。
「あと」
部屋を出ようとした湊の背中に、クダンの声が刺さった。
「その痣、隠しとけ。人間に見せていい類のもんじゃない」
その一言だけは、妙に真剣だった。
台所に降りると、テーブルの上に母親の字でメモが立てかけてあった。〈出張、金曜まで。夕飯は適当に〉。父も今週は帰りが遅いと聞いている。この家では、それが特別なことではなかった。壁のカレンダーには、遠く離れた場所に嫁いだ妹の結婚式の日取りが、赤い丸で囲まれている。小さい頃、事故で死にかけた妹だ。あのときも、家族の誰かが何かを決めるより先に、事態の方が勝手に進んでいった記憶がある。湊はメモを一瞥しただけで、トーストをくわえて家を出た。
*
「湊、また顔死んでる」
学食で佐伯が向かいに座るなり言った。
「寝不足」
「珍しいじゃん、お前が理由を即答するの」
からかうような笑い方。湊は視線を逸らして、うどんの汁をすすった。理由を即答できたのは、選ぶまでもなく事実だったからだ――寝不足の原因を選ぶ必要はない。選ばなくていいことにだけ、自分はいつも素早い。
ふと、そのことに自分で引っかかった。
昨夜、あの「何か」が迫ってきたとき、頭は何一つ決めていなかった。それでも身体は勝手に半歩引いて、勝手に掌を出していた。決めたのではなく、決まっていた。祖父の朝稽古とは、そういうものだったのかもしれない。考える前に、身体の方が答えを知っている稽古。
「そういえばさ」
佐伯の声で我に返る。
「なに」
「ネットで見たんだけど、変な都市伝説流行ってんの知ってる? 『十五、揃ったら終わる』ってやつ」
「……何それ」
「知らん。誰が言い出したのかも分かんない。でも急に色んなとこで見るようになった。世界のどこかに十五体の何かがいて、それが全部揃うと、なんかヤバいことが起きるとか起きないとか。あと、道化師みたいな格好した奴が現れると危ない、みたいな尾ひれも付いてた」
湊の手から、箸が滑り落ちそうになった。
「湊?」
「……いや。くだらな、って思って」
「だろ? くだらないよな」
くだらない。そう言い切れたら、どれだけ楽だっただろう。窓の外、大学の正門を出ていく人波の中に、屋台を引くでもなく、ただ通り過ぎていく中年の男の姿があった気がしたが、瞬きの後にはもう見えなくなっていた。
午後の講義が終わったあと、湊は図書館の隅で、誰にも見られていないことを確かめてからスマートフォンで「蜘蛛男」「輪郭が溶ける」「夜道 人間 消える」と検索してみた。出てくるのは、都市伝説をまとめた個人ブログと、何年も更新の止まった掲示板の書き込みばかりだった。〈信じてもらえないと思うけど〉〈警察には言えなかった〉。同じような言葉が、国も言語も違う投稿に、判で押したように並んでいる。誰も信じていない。誰も、本気で調べようとしていない。ただ、確かに何人もが、同じものを見ていた。
湊はスマートフォンをしまい、鞄を持ち直した。知らなければよかった、とは思わなかった。知ってしまった以上、選ばずに済ませることはできない。それが、いちばん怖かった。
*
帰り道、湊は誰もいない河川敷で、こっそり右手を突き出してみた。
「引け、って言われても、何を引けばいいんだよ」
「昨日は勝手に出てただろうが」
「昨日は命の危機だったからだろ!」
「じゃあ死ぬ気でやれ」
「物騒すぎるだろ、その理論」
何も起きない。右手はただの右手だった。半刻ほど粘って、指先が痺れてきた頃、クダンが呆れたようにため息をついた。
「お前、そもそも“欲しい”と思ってないだろ、その力」
「……え」
「頭でどうにかしようとしてる。だからブレる。お前の意思決定の癖、たぶんそういうとこにも出る。学食のメニューひとつ選ぶのに三分かかるタイプだろ、お前」
「見てないくせに言うなよ」
「顔に書いてある」
的確すぎて言い返せなかった。湊は黙って手を下ろした。
そのときだった。土手の向こう、雑草の陰で何かが動いた。
「クダン」
「ああ、見えてる」
草むらから顔を出したのは、人の形とも獣の形ともつかない、小さな影だった。輪郭は昨夜の「何か」と同じ、糸のように絡み合った質感をしている。けれど、大きさは子犬ほどしかなく、こちらに気づくと、びくりと震えて後ずさった。
襲ってこない。
「……こいつも、STIGMAってやつか」
「そうだ」
「昨日のとは、様子が違う気がする」
「勘は悪くないな。あれは自分から人を襲うタイプだった。こいつは違う」
「違うって、じゃあ何なんだよ」
「積極的に人を襲わないタイプ、としか今は言えん。理由はまだお前に話せる段階じゃない」
小さな影は、震えながらもその場を動かなかった。逃げるでもなく、威嚇するでもなく、ただ、湊たちの様子をうかがっている。何かにおびえているようにも見えた。糸くずのような輪郭の隙間から、街灯の光がちらちらと漏れて見える。
湊の中で、迷いが生まれた。
昨夜のように、糸で切り裂くべきなのか。それとも――
「名前、あるのか、お前」
気づけば、そう口にしていた。クダンが横目でこちらを見た気配がした。答えるはずもないのに、湊は続けた。
「……ないよな。じゃあ、勝手に呼ぶけど」
迷った末に出てきたのは、我ながらひねりのない言葉だった。
「クロ、でいいか」
答える間もなく、影は身をひるがえし、草むらの奥へ溶けるように消えていった。追う間もなかった。
「……逃げられた」
「今日はな」
クダンの声に、いつもの皮肉っぽさはなかった。
「クダン。あれも、俺が戦わなきゃいけない相手なのか」
「さあな。それを決めるのは、俺じゃなくてお前だ」
「即答できないんだけど」
「知ってる。だから今すぐ答えを出せとは言わない」
答えになっているようで、なっていない答え。湊は河川敷に立ち尽くしたまま、影の消えた草むらをしばらく見つめていた。
その夜、自室のテレビが、ぼんやりとニュースを流していた。
『――現地時間未明、北欧の港湾都市で、原因不明の停電と共に複数の目撃情報が――』
湊はリモコンに手を伸ばしかけて、止めた。
画面には、夜の港に立ち並ぶクレーンのシルエットと、避難する住民の映像が流れている。キャスターの声は、いつもと同じ抑揚で「大規模な集団幻覚の可能性」という専門家のコメントを読み上げていた。誰も本気にしていない。誰も、本気で怖がっていない。
偶然だと思いたかった。けれど、机の上でクダンが、テレビの画面をじっと見つめていることに、湊は気づいていた。前脚の一本が、こつん、こつん、と机を叩いている。苛立ちにも、何かを数えているようにも見える仕草だった。
「クダン」
「今は訊くな」
いつもの投げやりな口調ではなかった。湊は、それ以上何も言わなかった。ただ、画面の向こうの、見知らぬ街の夜を、いつまでも見つめていた。
(第二話・了)
◆用語ノート
・STIGMA:ある夜を境に姿を見せ始めた、正体不明の存在。人の輪郭を借りることもあれば、そうでない姿もあるらしい。
・クロ:湊が名付けた、人を襲わないタイプのスティグマ。詳しいことはまだ何も分かっていない。




