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結び直す世界 ―KNOTHING―  作者: muta
第一巻 

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1/5

第1話:蜘蛛の巣

――世界が、糸だらけだった。




 黒く沈んだ空に、数えきれないほどの糸が張り巡らされている。ぴんと張った糸。だらりと垂れた糸。途中で燃え尽きて、灰になって消えていく糸。その真ん中に、誰かが立っていた。輪郭さえおぼろげなその誰かに向かって、女性の声が静かに呼びかけている。




 ――ねえ。覚えてる? 最初に交わした約束。




 声は、はっきりと届く。なのに、呼ばれているはずの名前だけが、なぜか聞き取れない。




 映像は、そこで途切れた。





            *





 常盤湊ときわみなとが蜘蛛の巣に気づいたのは、雨が上がったばかりの、火曜日の午後だった。




 桜峰大学の裏門を出てすぐの電柱と、隣のブロック塀のあいだ。まだ水滴の残る蜘蛛の巣が、傾きかけた陽の光を受けて、細い虹色の線をいくつも浮かべていた。誰が張ったのか知らない、名もない蜘蛛の、名もない仕事。




 立ち止まって見ていたのは、たぶん十秒か、十五秒。




 ――なんで、こんなものに見入ってるんだろう。




 自問しても、答えは返ってこない。風もないのに、七色に光る糸の一本一本がかすかに震えているのを見ていると、指先の感覚だけが、どこか遠くに置き去りにされたような気がした。動けないのではなく、動かないことを、無意識に選んでいる。その違いに、湊自身、うっすらと気づいていた。




「湊、また止まってる」




 振り返ると、同じ学部の佐伯さえきが呆れた顔をしていた。




「蜘蛛の巣、見てた」


「見てどうすんの」


「別に。ただ――」




 ただ、なんとなく目が離せなかった。理由は自分でもわからない。




 湊はそういう人間だった。何かを決めるのが、少しだけ苦手だった。学食のメニューも、サークルに入るかどうかも、就活の軸すら、まだ選びきれずにいる。選ばなければ、間違えることもない。そう思っているわけではないけれど、気づけばいつも、選択そのものを先延ばしにしていた。




 百八十センチの上背に、着られればいいという程度に選んだ、少し大きめのシャツとパンツ。染めているわけでもないのに、なぜか地毛からして黒より茶に近い髪は、整えていないだけで寝癖ひとつなく、清潔感だけは損なわれていない。目つきだけは妙に鋭く、のんびりした本人の気質とはどこか噛み合っていない。整った顔立ちをしているのに、本人にその自覚がまるでないせいで、妙に垢抜けない印象を周囲に与えている――そういうタイプだった。着飾ることを選ばない、というのも、湊にとっては一つの先延ばしなのかもしれなかった。




「今日、飲み会あるけど来る?」


「……考えとく」


「それ、絶対来ないやつじゃん」




 佐伯が笑いながら先に歩いていく。湊はもう一度だけ、蜘蛛の巣を振り返った。虹色の線は、もう陽の角度が変わって、ただの灰色の糸に見えた。





            *





 異変が起きたのは、その日の夜だった。




 碧見市の外れ、最寄り駅から自宅までの道は、いつもより静かだった。街灯の間隔が長い裏通り。前を歩いていた老人の影が、一歩ずれた。




 最初は、見間違いだと思った。




 だが、次の瞬間には、老人の輪郭そのものが揺らいでいた。輪郭線が糸くずのようにほどけ、闇の中に溶けていく。悲鳴を上げる暇もなく、それは膨れ上がり、街灯の光を吸い込むようにして、人の形をした「何か」になった。




 肌のない、筋のような何かが幾重にも絡み合った姿。目に見える顔はなく、ただ、こちらを向いている、という気配だけがあった。




 恐怖より先に、身体が動いた。




 半歩引いて重心を落とし、伸びてきた「何か」の腕を掌で捌く。幼い頃、祖父に叩き込まれた体さばきだった。祖父はもういない。それでも、あの朝稽古の感覚だけは、骨の中に染みついている。




 ――効いていない。




 掌に伝わったのは、何かを捌いた手応えではなかった。空を切ったような、頼りない感触。かわしたはずの「腕」はするりと形を変え、湊の肩をかすめた。焼けるような痛みが走る。




 殴っても、捌いても、意味がない。頭より先に、身体がそれを理解していた。これは、人間を相手にする技術が通じる相手じゃない。




 「何か」がゆっくりと迫ってくる。




 そのとき、視界の端で、小さな影が跳んだ。




 電柱の上から降ってきたのは、掌に乗るほどの大きさの、蜘蛛によく似た異形だった。八本の脚の代わりに、もっと多くの、もっと細い脚。背には、灰色がかった体毛。丸っこい体つきはどこか愛嬌があるのに、額のあたりからは、不釣り合いなほど鋭い二本の小さな角が覗いている。牛のような、鬼のような、その角だけが、こいつがただの蜘蛛ではないことを物語っていた。目だけが、やけに人間くさい色をしていた。




「動け、間抜け」




 声は、頭の中に直接響いた。




「動けって言われても――」


「いいから、右手を見ろ」




 言われるままに右手を見た湊は、そこに見覚えのない一本の糸が絡みついているのを見つけた。手首から伸びたその糸は、闇の中に消えている。いつの間に。




「引け」


「え」


「引けって言ってんだよ、蜘蛛の糸を舐めるな」




 訳もわからないまま、湊は糸を引いた。




 その瞬間、自分の身体が、糸に引かれるようにして真横に跳んだ。「何か」の腕――そう見えるものが、たった今まで湊が立っていた場所を薙いだ。アスファルトが陥没するような音がした。




 着地した湊の目の前で、無数の細い糸が、彼の右手から放たれていく。まるで最初からそこにあったかのように、自然に。糸は「何か」の輪郭に絡みつき、締め上げ、引き裂いた。




 筋のような輪郭が、束ねる力を失ったところから順に、灰の粒子となってほどけていく。最後まで気配だけを残していた「顔」の辺りが、音もなく闇に溶けて消えた。




 静寂が戻る。




 膝が、笑っていた。今さらのように鼓動が耳の奥で暴れ出し、乾いた喉が空気を求めて震える。恐怖は、遅れてやってくるものらしい。身体が先に動き、心がようやくそれに追いついた――そんな感覚だった。




 湊は、自分の右手を見た。指先から伸びていたはずの糸は、もうどこにもない。ただ、掌にはまだ、何かを握っていた感触だけが残っている。頭では理解が追いつかないのに、掌だけが、たしかに何かを知っている。その捩れた感覚が、なぜか湊を落ち着かせた。




「……今の、何」




 肩で息をしながら振り返ると、蜘蛛によく似た異形が、電柱の陰から顔を出していた。




「お前が聞くことかよ」


「聞くだろ、これは」


「蜘蛛の糸だよ。お前の、な」




 異形――それは自分をそう名乗るように、湊の肩に飛び乗ってきた。存外に軽い。




「俺の……糸?」


「詳しいことはこれから話す。とりあえず、お前は今日から独りじゃない」




 どこか投げやりな口調で、それでいて、どこか安堵したような響きがあった。




「あんた、名前は」


「ない」


「じゃあ何て呼べば」




 異形は少し考えて、湊の肩の上でぐるりと一回転した。




「クダンでいい。予言の獣、って意味だ。似合うかどうかは知らないけどな」




 クダンと名乗ったそれは、それ以上の説明をしなかった。街灯の下、湊は自分の右手を、もう一度見つめた。何も見えない。それでも確かに、あの瞬間、そこには何かがあった。




 妙なのは、恐怖よりも先に、ある種の解放感に似た何かが胸の奥にあったことだった。選ばなくていい。考えるより先に、身体が答えを出してくれた――そのことに、湊はまだ、名前をつけられずにいた。




 その夜、湊はまだ知らない。




 自分が今つかんだのが、蜘蛛の糸などではなく、もっと大きな、名前のない何かの入り口だったということを。




 そして、彼らの様子を、屋台のたこ焼き屋の店主が――どこにでもいそうな、平凡な中年男が――少し離れた場所から、じっと見つめていたことにも、湊は気づいていなかった。




 男は小さく笑うと、屋台を畳み、夜の中へ歩き去っていった。





(第一話・了)





◆用語ノート


・クダン:湊の目の前に現れた、蜘蛛によく似た小さな異形。多くを語らない。


・糸:湊の右手に宿った、まだ正体不明の力。とっさの窮地で初めて姿を現した

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