第9話 “魔王”
「隠しだてするなら……お前ら、ただじゃ済まねぇぞ!」
怒鳴り声が、屋敷の床板を震わせる。
重いブーツが玄関の石床を鳴らし、さっきまで穏やかだった空気を無遠慮に踏み荒らしていた。湯上がりのぬくもりに包まれていたはずの身体から、血の気が引いていく。
フィオナとミオは、廊下の角に身を潜めていた。
つないだ手が震えている。
ミオの小さな手が、さっきまで湯に温められていたその指先が、今は氷のように冷たくなっていた。
フィオナも同じだ。どちらがどちらを支えているのか、もうわからない。
玄関の方では、口元を歪めた奴隷商人が、ルスへ詰め寄っている。
「お姉ちゃん……あの人たち……」
「……うん。間違いない」
フィオナは喉の奥から、どうにか声を押し出す。
「“あの領主”の使いだわ」
言葉にしただけで、胃の奥が冷たく縮んだ。
怖い。
あの檻へ戻されることが怖い。鞭の音も、鎖の重みも、誰かの泣き声を聞きながら眠る夜も、もう二度と味わいたくない。
けれど、それ以上に恐ろしいことがある。
……この屋敷の人々を巻き込んでしまうこと。
ロッテのあたたかな手も、ルスの穏やかな微笑みも、ジークが不器用に差し出してくれた救いも。私たちのせいで、この優しい人々が不幸になるかもしれない。
そんなことだけは、許せなかった。
「……行かなくちゃ」
フィオナはミオの手を一度だけ強く握る。
「私たちが出ていけばいいの」
「でも、お姉ちゃん……」
ミオの声が震える。
フィオナだって、今すぐ逃げ出したかった。けれど、自分たちのせいでこの屋敷に迷惑がかかるくらいなら、せめて自分の足で出ていくしかない。
膝は震えている。
それでも、フィオナは廊下の角から一歩踏み出そうとした。
その瞬間。
「どけ」
低い声が、すぐ横を通り過ぎた。
黒い影が、フィオナの前へ出る。
──ジークだった。
寝癖の残る髪。眠たげな目。身だしなみだけを見れば、朝食のときとほとんど変わらない。けれど、その背中が一歩進むたびに、屋敷の空気が重く沈んでいく。
フィオナは、息を呑んだ。
さっきまでのジークと同じ人間のはずなのに、近づくことすらためらうような気配がある。
ジークはルスの前に立ち、玄関にいる男たちをまっすぐ見据えた。
「……なんだ。騒々しい」
たった一言。
それだけで、場の空気がぴたりと止まる。
「これは、申し訳ございません。ジーク様のお手を煩わせてしまうとは」
ルスが丁寧に頭を下げる。
ジークはそれに答えず、奴隷商人たちへ視線を向けた。
「お前が、この屋敷の主か?」
男の一人が前へ出る。
粗末なマントの胸元には、赤く縫い取られた紋章があった。フィオナはそれを見た瞬間、奥歯を噛みしめる。
見間違えるはずがない。
あの紋章だ。
「俺たちは、かの有名なグラン=ノルド侯の使いだ。逃げ出した奴隷を探している。この屋敷に逃げ込んだはずだ」
グラン=ノルド侯。
その名を聞いた瞬間、フィオナの胸の奥で何かが軋む。
帝国古参の大貴族。
あの領地で生まれた獣人は、人として扱われない。所有物。道具。玩具。壊れたら捨てればいいだけのもの。
口にすることさえ嫌な名が、今、堂々と告げられている。
──だめ。
あの人に逆らってはいけない。
フィオナは気づけば駆け出していた。
「待ってください!」
奴隷商人たちの視線が、いっせいにこちらへ向く。
全身が震えた。
けれど、止まれない。
「この方々は何も悪くありません! 私たちが勝手に逃げ込んだだけです!」
フィオナは玄関の石床に膝をつき、深く頭を下げた。冷たい石の感触が額に触れる。
すぐ後ろで、ミオも小さな身体を震わせながら姉に寄り添う。
「ですから……私たちを連れて行ってください。それで、終わりにしてください」
声が震える。
喉が痛い。目には涙が自然と浮かんできた。
けれど、これでいいのだと自分に言い聞かせる。
この屋敷の人たちは関係ない。
これ以上、巻き込んではいけない。
──だが。
「……黙っていろ」
ジークの声が降ってきた。
フィオナは、はっと顔を上げる。
ジークは振り返らない。ただ片手をゆるく上げ、フィオナとミオを制するように立っている。
その背中は細く、決して大きく見える体格ではない。
それなのに、不思議だった。
誰も、その前へ出られない。
「ノルド?」
ジークは奴隷商人へ向き直り、わずかに眉を寄せる。
「知らんな。どこの田舎者だ」
一瞬、男たちが呆気に取られた。
次いで、下卑た笑いが漏れる。
「笑わせる、どっちが田舎者だ。こんな辺境の、誰の土地かもわからん場所に住んでるような連中が──」
「……何だ、貴様ら」
ジークの声が、静かに重くなる。
「誰の土地かも知らずに入ってきたのか?」
沈黙が落ちた。
笑っていた男たちの顔から、徐々に表情が消えていく。
フィオナにも、理由はわからなかった。
けれど、本能が告げている。
ここから先は、触れてはいけない。
聞いてはいけない。
知ってしまえば、もう後戻りできない何かが、この場にある。
ジークの背に並ぶように、ルスが一歩進み出た。
その所作はいつも通り穏やかで、執事としての礼節を少しも崩していない。だが、告げる声には、静かな重みがあった。
「ご説明いたしましょう」
ルスは男たちを見据える。
「こちらは、ジーク・ヴァルト・セロ様」
その名が告げられた瞬間、玄関の空気が凍りついた。
「この一帯は、ジーク様がお治めになる、ヴァルト領でございます」
ヴァルト・セロ。
孤高の悪魔、セロ。
その名は、奴隷であるフィオナの耳にすら届いたことがある。
部屋の隅で、誰かが怯えた声で語っていた。
決して怒らせてはならない存在。
各国の王は常にその顔色をうかがい、国軍は衝突を恐れてその領土に近づきさえもしない。
伝説とも災厄とも呼ばれる男。
たった一人で大軍を退け、国の命運をねじ曲げ、精霊災害すら鎮めたという怪物。
人々はその名を恐れて、こう呼ぶ。
──“魔王” と。
「て、てことは、あんたは……“白獅子”……」
奴隷商人の男が、今度はルスを見る。
口がぱくぱくと動いているのに、声になっていない。
ルスは小さく微笑んだ。
「昔のことでございます」
それだけだった。
だが、その返答が何よりも雄弁だった。
男たちの顔から血の気が引いていく。
話には聞いていたのだろう。
災厄や伝説、英雄と呼ばれる存在が、この世にいることを。だが、遠く帝国から来た彼らにとって、それはどこか作り話に近いものだったに違いない。
警戒を怠った。
その結果、今、逃れられない現実が目の前に立っている。
「じょ、冗談だろ……そんな……」
奴隷商人の声が震える。
もちろん、冗談ではない。
ジークは何もしていない。ただそこに立っているだけだ。
だが、それで十分。
その存在そのものが、その迫力だけで、男たちの呼吸を奪っていた。
「ま、待ってくれ。俺たちはただ、命令で……」
男は額に汗を浮かべ、必死に笑みを作る。
「そ、そうだ。領主様のご命令なんだ。俺たちは命じられて──」
「ほう」
ジークが男の言葉を遮る。
「ならば、そのノルドとかいう領主と“話”をつければいいのだな」
静かな声だ。
脅したつもりはなかったのかもしれない。ジークにとっての「話をつける」は、金銭や契約の事を指していただけなのかもしれない。
けれど、一人で国すら滅ぼすと言われる男が口にすれば、その一言はまったく別の意味を帯びる。
男たちの顔が、みるみる青ざめていく。
このままでは、ノルド領が消える。
いや、下手をすれば帝国そのものが──。
そんな想像が、彼らの頭をよぎったのだろう。
「お、お時間を取らせて申し訳ありませんでしたっ!」
男たちは慌てて後ずさる。
「こ、この件はなかったことに……ではっ!」
逃げるように扉が開かれ、荒い足音が雪の上へ遠ざかっていく。
数秒もすれば、屋敷には静けさが戻った。
……フィオナは、ただ立ち尽くすしかなかった。
ジーク・ヴァルト・セロ。
孤高の悪魔。
“魔王”。
奴隷である自分たちすら知っている。
伝説、災厄、禁忌。決して触れてはならない者。
なのに。
その人は昨夜、フィオナの傷を治してくれた。
二人に食事を与え、風呂に入れてくれて、不器用な言葉でここに居て良いと言ってくれた。
恐ろしいはずなのに。
近づいてはいけない存在のはずなのに。
フィオナの目は、その背中から離れない。
「……お姉ちゃん」
ミオのか細い声が、隣から聞こえる。
けれど、言葉が出てこない。
ただ、胸の奥で何かが静かに揺れている。
恐怖とも、安堵とも違う。
……まだ名前のつかない感情だった。




