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第10話 照れ屋さんなんですよ、あの方は

 あれほど屋敷を揺らしていた騒ぎが、嘘のように遠ざかっていく。


 玄関の向こうへ逃げていった足音は、すでに雪の中へ消えていた。残されたのは、開け放たれた扉から流れ込む冷たい風と、どこか拍子抜けするほど静かな屋敷の空気だけ。


 けれど、フィオナの心は凍りついたままだった。


 ──ジーク・ヴァルト・セロ。


 その名が、頭の中で何度も反響している。


 孤高の悪魔。


 魔王。


 奴隷部屋の隅で、誰かが恐怖を紛らわせるように語っていた伝説。どこの国にも属さず、どこの法にも縛られず、王でさえその顔色をうかがうという存在。


 そんな人の屋敷に、自分たちは逃げ込んでしまった。


 それどころか、助けを乞い、命を繋ぎ、食事を与えられ、風呂にまで入れてもらっている。


 考えれば考えるほど、身体の奥から力が抜けていった。


 膝が勝手に折れる。


 がたん、と硬い音が床に響いた。


「し、知らずに……大変な無礼を……」


 フィオナは震える声で言葉を絞り出す。


「本当に、申し訳ありません……っ!」


 額を床に押しつける。


 冷たい木の感触が肌に痛い。けれど、頭を下げずにはいられなかった。自分のような者が顔を上げていい相手ではない。そう刷り込まれてきた身体は、恐怖より先に謝罪の形を取る。


 隣で、ミオもそっと膝をついた。


 どうすればいいのかわからないまま、姉に倣って小さな身体を折りたたむ。その気配を感じるだけで、フィオナの胸が締めつけられる。


 沈黙が落ちた。


 フィオナは額を床につけたまま、息を殺す。ジークがこちらを見下ろしている気配だけが、ひどく重い。


 どんな罰を受けるのだろう。


 この場で殺されても、仕方がないのかもしれない。


 そう身構えていると、頭上からため息のような音が聞こえた。


「……くだらん」


 ぽつりと、それだけ。


 ジークはそれ以上何も言わず、フィオナとミオの横を素通りしていく。


 足音は廊下の先へ向かい、やがて書斎の扉が開く音がした。振り返る気配も、咎める気配もない。扉が閉まると、屋敷にはまた静けさが戻る。


「…………」


 フィオナはしばらく動けなかった。


 謝罪を拒まれたのか。


 怒っているのか。


 あるいは、本当にどうでもいいのか。


 わからない。


 けれど、先ほどまで身体を縛っていた恐怖だけが、少しずつ緩んでいく。


 そんな二人のそばへ、ルスがゆったりと歩み寄ってきた。


 やれやれ、とでも言いたげに肩をすくめながら、けれどその目元には穏やかな笑みがある。


「どうやら……『そんなことには興味がない。気にするな』と仰りたいようですね」


 まるで通訳のように、ルスはジークの言葉の裏側をやさしくほどいてくれる。


 フィオナはゆっくりと顔を上げた。


「……気に、しなくていい……?」


「ええ。少なくとも、ジーク様はお二人が頭を下げることなど望んでおられませんよ」


 その言葉に、胸の奥で何かが小さく揺れる。


 気にしなくていい。

 興味がない。


 それだけのことが、フィオナにはすぐに信じられない。


「本当にあの方は……もう少し人の気持ちを汲んでくだされば、どれほど助かることか」


 後ろから、ロッテのため息まじりの声が聞こえた。


 ルスは小さく笑う。


「ですが、まぁ。照れ屋さんなんですよ、あの方は。とてもご本人には申し上げられませんが」


「ええ、拗ねると子供より厄介ですからね」


 ロッテがくすりと笑う。


 そのやり取りはあまりにも穏やかで、つい先ほどまで絶体絶命の危機があったことさえ、遠い出来事のように思えてくる。


 誰も怒らない。


 誰も責めない。


 フィオナたちが奴隷だったことを問い詰める者も、その身分を理由に床へ押さえつける者も、ここにはいない。


 玄関の扉は、奴隷商人たちが開け放っていったままになっている。


 そこから吹き込む風が、屋敷の空気をほんの少し揺らした。冷たいはずの風なのに、どこかやわらかい。白く輝く雪景色の向こうでは、雲の切れ間から淡い陽が差し込んでいる。


 フィオナは、ゆっくりと立ち上がった。


 まだ膝に力は入りきらない。けれど、先ほどまでのように、恐怖で身体が動かなくなる感覚は薄れていた。


 ミオの手を取る。


 小さな手が、すぐに握り返してきた。


 傷ついた身体も、冷えきった心も、この屋敷に来てから少しずつほどけている。


 ジーク・ヴァルト・セロ。


 世界が恐れる絶対的な力の持ち主。


 最恐の領主。


 その人が、途絶えかけたフィオナの命をつなぎ、凍えた身体を温め、柔らかな布団と美味しい食事を与えてくれた。


 それだけでも奇跡のような出来事なのに。


 今度は、その恐ろしい名によって、フィオナとミオの居場所までも守ってくれた。


「……ねえ、お姉ちゃん」


 隣で、ミオが小さく呟く。


「わたしたち、ここにいて、いいのかな?」


 フィオナはすぐには答えられなかった。


 正しい答えなど、まだわからない。


 いつまでここにいられるのかも、自分たちがこれからどうなるのかも、何ひとつ見えていない。


 それでも。


 フィオナはミオの手を、静かに握り返した。


 ──今は、信じてみたい。


 言葉にできなかったその思いが、指先から伝わればいいと思った。


 ミオはフィオナを見上げ、ほんの少しだけ表情を緩める。


 それが答えだった。


 外では、雪がまたゆっくりと舞い始めている。


 けれど、それはもう、二人を追い詰める凍える絶望ではない。窓の向こうで白く揺れる雪は、暖かな部屋の中から見ると、どこか静かで、綺麗なものにさえ思える。


「お二人とも、早くお部屋へ」


 ルスのやさしい声が、屋敷に響いた。


「せっかく暖まった身体が、また冷えてしまいますよ」


「あ……はい」


 フィオナは慌てて返事をする。


 ミオの手を引き、ルスの方へ歩き出した。


 この冬の中で、ようやく見つけた小さな灯り。


 それは、静かに揺れる暖炉の火のように、やさしく、あたたかい。


 けれど同時に、どんな吹雪にも消されない強さで、フィオナたちを包み込んでいた。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。もし楽しんでいただけたら、ブックマークや評価、感想など頂けると大変嬉しいです。

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