第11話 ガキに与える仕事などない
「屋敷には置いてやる」
いつものように表情ひとつ動かさず、ジークはそう告げた。
「だが、タダ飯を食わせるつもりはない。働け」
姉妹がこの屋敷へ連れてこられてから、数日が過ぎていた。
フィオナの体に刻まれていた無数の傷は、ルスの治療とロッテの世話で少しずつ癒えはじめている。ミオの頬にも、ようやく血の気が戻ってきた。
温かい食事。
清潔な寝台。
安心して眠れる夜。
それらが本当に自分たちに許されたものなのか、フィオナにはまだ信じきれない。
だから、ジークの言葉を聞いた瞬間、彼女は迷わず頷いた。
「はい」
働くのは、当然だと思った。
ただで置いてもらえるはずがない。食べ物を与えられ、屋根の下で眠らせてもらえるなら、その分だけ働く。そんなことは、誰に教えられなくても知っている。
つい先日まで、フィオナは人ではなかった。
少なくとも、あの場所ではそう扱われていた。
寝る間もなく続く力仕事。泥と糞尿にまみれる掃除。冬の水で手を真っ赤に腫らしながら作業をさせられることもあった。
それから──大人の女たちが、奥の部屋へ連れていかれる背中も、何度も見てきた。
だから覚悟はできている。
どれだけつらい仕事でも、ミオと一緒にいられるなら。あの冷たい檻へ戻されずに済むなら。ここに置いてもらえるのなら。
フィオナは、どんなことだってやり遂げるつもりだった。
「甘やかすつもりはない」
ジークの声は、刃物のように淡々としている。
「弱音を吐けば、すぐに叩き出されると思え」
「……はい」
フィオナは背筋を伸ばし、短く返事をした。
怖くない、と言えば嘘になる。
それでも、怖がっている場合ではない。役に立たなければ、居場所はなくなる。そう思えば、震える膝にも力が入った。
──けれど。
「……あの、これは?」
どんな仕事でもする。
そのつもりだったのに、目の前に用意されたものを見た瞬間、フィオナの覚悟はあっさり揺らいでしまった。
鏡の中に、見慣れない少女が映っている。
ふわりと広がる、清潔な白のエプロンドレス。深い黒のワンピースはきちんと体に合っていて、袖口には小さなレースがあしらわれている。胸元には銀色のブローチが留められ、わずかに差し込む朝の光を受けて、上品にきらめいた。
それは、どう見ても立派なメイド服だった。
ぼろ布を体に巻き、汚れを落とすことさえ許されなかった自分が。
今、こんな服を着ている。
その事実があまりに現実離れしていて、フィオナは息をするのも忘れてしまった。
「うん、よく似合うわね!」
背後でロッテが、手を合わせてにこにこと笑う。
「とっても可愛いわ。若い頃の私みたい」
「そ、そんな……」
褒められ慣れていないフィオナは、反射的に俯いた。
けれど、視線を落とせば落とすほど、真っ白なエプロンが目に入る。清潔で、やわらかくて、皺ひとつなく整えられたその布地に、自分の指先が触れている。
嬉しい。
そう思ってしまいそうになる自分が、怖かった。
こんなもの、自分には不釣り合いだ。すぐに取り上げられるに決まっている。喜んだ分だけ、失ったときにつらくなる。
そうわかっているのに、胸の奥では小さな灯りのようなものが、ふわりと膨らんでいた。
「後のことはロッテに聞け」
側に立っていたジークが、興味なさそうに言い捨てる。
「要領が悪ければ……キッチンから叩き出されるからな」
そう告げると、彼はさっさとソファへ戻っていった。
「もお、ジークさまったら!」
ロッテが腰に手を当てて、わざとらしくジークを睨む。
「大丈夫よ、フィオナちゃん。そんなことしないから。最初は誰だってできなくて当たり前なんだからね」
「……はい」
「このお屋敷を、ロッテさんお一人で維持するのは大変でしたからね」
そばで見守っていたルスが、いつもの穏やかな声で言葉を添えた。
「前々から、申し訳ないと思っていたのです。あなたが手伝ってくれるなら、きっとロッテさんも助かります」
「え、えっと……私で、よろしければ」
フィオナはおずおずと答え、もう一度鏡を見る。
そこに映る自分は、やはりどこか知らない誰かのようだった。
けれど、ロッテはそんなフィオナの肩にそっと手を置き、優しく言った。
「今日からあなたは、この屋敷のメイド見習いです」
メイド。
その言葉が、フィオナの胸に深く染み込んでいく。
かつてのフィオナにとって、メイドとは遠い世界の存在だった。
綺麗な服を着て、背筋を伸ばし、誰かの役に立つために働く人たち。汚れた床に這いつくばる自分とは違う、ちゃんと名前を呼ばれる人たち。
その人たちと同じ服を、今、自分が着ている。
「ビシバシ鍛えますからね。覚悟してください」
ロッテが冗談めかして言うと、フィオナは思わず顔を上げた。
不安はまだある。
けれど、それ以上に──頑張ってみたいと思った。
「せ、精一杯頑張ります!」
フィオナは背筋をしゃんと伸ばし、初めて自分から笑った。
その笑顔を見て、ロッテは満足げにうなずく。
「うん、いい返事ね」
「わ、わたしも……」
そのとき、隣で小さな声がした。
ミオだった。
銀色の髪を揺らしながら、彼女はおそるおそる部屋の隅へ歩いていく。そこに立てかけられていたデッキブラシを、両手でぎゅっと握りしめた。
細い腕には明らかに大きく、重すぎる。
けれどミオは、それでも必死に持ち上げようとしていた。
「わたしも、はたらく……」
その一言に、フィオナの胸がぎゅっと締めつけられる。
ミオもわかっているのだ。
役に立たなければ、ここにいられない。
食べさせてもらうなら、働かなければならない。
そうでなければ、また捨てられる。
幼い妹にまで、そんなことを考えさせてしまっている。
フィオナが慌てて口を開きかけた、その瞬間。
ぱたん、と乾いた音が響いた。
ソファに座っていたジークが、本を閉じていた。
彼は眉間にわずかな皺を寄せると、無言でミオの前まで歩いてくる。
ミオの肩が、びくりと跳ねた。
すぐに目を伏せ、ブラシを握る手に力を込める。叱られると思ったのだろう。あるいは、取り上げられて追い出されると思ったのかもしれない。
「ガキに与える仕事など、ない」
冷たい声だった。
フィオナは反射的にミオの前へ飛び出した。
「あ、あの……! ミオは物覚えもいいんです。歳の割に要領もよくて、掃除だって、洗い物だって、きっとすぐ覚えます。だから……!」
言葉が震える。
それでも、止まれなかった。
「どうか、ミオもここに置いてください。わ、私が二人分働きます。ミオの分まで、何でもしますから……!」
必死だった。
自分はどうなってもいい。
けれどミオだけは守らなければならない。
フィオナの願いを聞いているのかいないのか、ジークは何も言わなかった。
ただ、ミオの小さな手からデッキブラシをするりと取り上げる。
ミオが、今にも泣きそうに唇を震わせた。
だがジークは、取り上げたブラシを壁際へ戻すと、代わりに近くの棚から一冊の本を抜き取った。
厚すぎず、重すぎず、子供の手にも収まりやすい大きさの本だった。綺麗な背表紙には、金色の文字で物語の題名が刻まれている。
ジークはそれを、ミオの手に押しつけた。
「……え?」
ミオが呆けたように顔を上げる。
ジークは面倒くさそうに視線を逸らし、ぶっきらぼうに言った。
「ガキに労働なんかさせるか」
その声は相変わらず冷たい。
けれど、先ほどまでとは少しだけ違って聞こえた。
「お前は子供らしく、その辺で遊んでいるか、本でも読んでいろ」
ミオは、手の中の本を見下ろした。
それから、ジークの顔を見る。
もう一度、本を見る。
意味がわからない、というように何度も瞬きをしている。
暫く固まった後、胸に本を抱えたまま、戸惑いながらも小さく頷いた。
「……うん」
その声は、まだ少し震えている。
けれど、デッキブラシを握っていたときよりもずっと、子供らしい声だった。
ジークはそれを見届けると、何事もなかったかのようにソファへ戻っていく。そして再び本を開き、もう興味はないとでも言うようにページへ視線を落とした。
ルスとロッテは、そんな主人を見て、どこか嬉しそうに目を細めている。
フィオナは胸の前で手を握りしめた。
この屋敷は、やはりまだ怖い。
ジークの声も、表情も、何を考えているのか少しもわからない。
けれど──。
ミオが大事そうに本を抱きしめている姿を見たとき、フィオナの胸の奥に灯った小さな温もりは、さっきよりも少しだけ強くなっていた。




