第12話 何がどうしてこうなったのかしら
それから、数ヶ月が過ぎた。
山間の屋敷を閉ざしていた雪は、いつの間にか姿を消していた。
ついこの間まで白一色だった庭には、湿った土の色が戻り、石畳の隙間からは小さな若草が顔を出している。吹き抜ける風にはまだ冷たさが残っているものの、窓辺に差し込む陽射しは、冬のそれよりもずっと柔らかい。
春が近いのだ。
季節が溶かしたものは、雪だけではなかった。
静まり返っていた屋敷にも、少しずつ音が戻り始めている。
キッチンからは、包丁がまな板を叩く軽快な音。煮込み鍋から立ちのぼる湯気には、肉と野菜の甘い香りが混じっていた。
「うん、ずいぶん手際がよくなったわね」
ロッテが鍋をかき混ぜながら、隣へ目を向ける。
そこには、白いエプロンドレスに身を包んだフィオナの姿があった。袖口をきちんとまくり、真剣な顔で野菜を切っている。
「最初は包丁を持つ手まで震えていたのに」
「……あの頃は、失敗したらお終いだと思っていたので」
フィオナは少し照れたように笑った。
「ロッテさんが繰り返し優しく教えてくれたおかげです」
「あら、叱ったことくらいあるでしょう?」
「あります。でも……怖くはなかったです」
ロッテが厳しい言葉を使うのは、フィオナの身に危険が及ぶときだけだった。
危ない包丁の使い方、火の扱いの不注意、重い物の運び方。
言葉の裏には必ず「あなたに怪我をして欲しくないから」という優しさがあった。
叱られることと、傷つけられることは違う。
そんな当たり前のことを、彼女はこの屋敷で初めて知った。
「私も、早くロッテさんみたいに、何でもできるようになりたいです」
「ふふ。そんなことを言われたら、張り切って教えたくなっちゃうわね」
ロッテが嬉しそうに笑う。
並んで台所に立つ二人の姿は、まるで昔からそうしていたかのように馴染んでいた。
少し離れた執務机では、ルスが帳面を前に眉を寄せている。
「まったく……雪解けと同時に街道が使えるようになるのは喜ばしいことですが、物資の流れまで一斉に変わるのは困りものですね」
ぼやきながらも、羽根ペンを走らせる手は止まらない。
帳面には、食料、薬草、薪、布、茶葉、修繕用の釘に至るまで、細かな数字がびっしりと並んでいた。
この屋敷は山奥にある。
冬の間は物資の搬入が滞りやすく、春先になればなったで、雪解け水やぬかるんだ道のせいで予定が乱れる。ルスが頭を悩ませるのは、毎年のことらしい。
それでも、その声に深刻さはなかった。
ロッテが昼食を作り、フィオナがそれを手伝い、ルスが帳面と睨み合う。
当たり前のように流れていく、穏やかな時間。
そんな日々の中で、一際変化があったのは──ジークとミオだった。
「ジークさま」
ソファに腰掛け、分厚い魔術理論書を読んでいたジークの隣に、ミオがちょこんと立った。
両手には、一冊の絵本を抱えている。
「ご本、よんで」
「駄目だ」
ジークは本から目を上げずに即答した。
「今、忙しい」
その声は相変わらずそっけない。
だがミオは引かない。
数ヶ月前なら、それだけで肩を震わせ、姉の後ろへ隠れていただろう。人の視線を恐れ、声をかけられるだけで怯えていた少女は、今はまっすぐジークを見上げている。
「ご本。よんで、ほしいです」
「ロッテに頼め」
「お料理してる」
「ルス」
「お仕事してる」
「俺も読書をしている」
「でも、ジークさまが、本でもよんでろっていった」
ぴたり、と。
ジークの指が、ページの上で止まった。
キッチンでフィオナが思わず息を呑む。
ロッテは口元を押さえ、笑いをこらえていた。
ルスは帳面から顔を上げ、目を細める。
小さなため息を吐いた後、ジークは観念したように手を差し出した。
「……貸せ」
ミオの顔が、ほんの少し明るくなる。
大きく表情を変えるわけではない。飛び跳ねて喜ぶわけでもない。ただ、抱えていた絵本を両手で差し出す仕草が、いつもより少しだけ弾んでいた。
ジークは絵本を受け取ると、自分の隣を顎で示した。
「座れ」
「うん」
ミオは素直に頷き、ソファの端に腰を下ろす。
ジークの隣に、ぴったりとくっつくように。
最初の頃なら考えられない距離だった。
ジークもジークで、特に追い払うことはしない。ただ眉間に皺を寄せたまま、絵本の表紙を開く。
無骨な指先が、色鮮やかなページを一枚めくった。
「……あるところに、小さな森があった」
低く、平坦な声が部屋に落ちる。
子供に読み聞かせるには、あまりに抑揚がない。感情を込めようとしているのか、していないのかもわからない。
それでもミオは、じっと絵本を覗き込んでいる。
部屋の隅からその様子を眺めていたルスは、羽根ペンを置き、しみじみと呟いた。
「……あれほど他人に関心のなかったあの方が、子供相手に絵本とは」
「本当にね」
ロッテも鍋の火を弱めながら、そっと目を細める。
「何がどうして、こうなったのかしら」
きっかけが何だったのかは、誰にもわからない。
けれど、不思議とあの二人は相性がよかった。
無口で不器用な屋敷の主と、感情を大きく表に出さない小さな少女。
どちらも言葉は多くない。
けれど、だからこそ通じ合うものがあるのかもしれなかった。
フィオナは、野菜を切る手を止めて二人を見つめていた。
ジークの隣で、ミオが膝を抱えて絵本を覗き込んでいる。
その横顔に、かつての怯えはない。
傷だらけだった頬はふっくらとし、銀色の髪もロッテが毎日丁寧に梳いてくれるおかげで、柔らかく光を弾いていた。
あの子が、誰かの隣に座っている。
何かを望んでいいのだと知っている。
それだけのことが、フィオナには泣きたくなるほど嬉しかった。
「フィオナちゃん?」
ロッテに呼ばれ、フィオナははっとする。
「す、すみません。手が止まっていました」
「……いいのよ」
ロッテは優しく笑った。
フィオナはもう一度だけ、ソファの方を見る。
この人に拾われてよかった。
心から、そう思った。
季節が移ろうように。
屋敷を覆っていた雪が、少しずつ消えていくように。
フィオナたちの胸の奥に積もっていた長い冬もまた、静かに、ゆっくりと解け始めていた。




