第13話 夜に呼ばれるということ
屋敷では、穏やかで温かな日々が続いていた。
朝になれば、ロッテが焼いたパンの香りが廊下まで流れてくる。
昼には、ルスが帳面を前に小言をこぼし、ジークが無愛想に本を読み、ミオがその隣で絵本を広げている。
夕方になれば、フィオナはロッテと並んで夕食の支度をし、ミオは窓辺から帰路を飛ぶ鳥を見ている。
そんな、どこにでもあるような日常。
けれどフィオナにとっては、それが何よりも尊いものだった。
だからこそ。
その夜、静寂を切り裂いた悲鳴は、あまりにも鋭く響いた。
「──っ、やぁっ!」
フィオナは反射的に飛び起きた。
部屋は暗い。窓の外には月もなく、僅かに残った暖炉の赤い光だけが、床を小さく照らしている。
隣のベッドで、ミオが毛布を握りしめて震えていた。
「ミオっ!」
フィオナはすぐに駆け寄る。
ミオは膝を抱え、顔を伏せたまま、何かから逃げるように小さな体を丸めていた。銀色の髪が乱れ、頬には大粒の涙がいくつも伝っている。
「いや……来ないで……」
かすれた声だった。
「やだ……痛いの、やだ……っ」
「ミオ、大丈夫。大丈夫だから」
フィオナは震える妹を抱き寄せる。
けれどミオの目は、フィオナを見ていなかった。
この部屋ではない、今ではない、もっと遠くて暗い場所を見ている。そうとしか思えないほど、焦点の合わない目で、ミオは怯え続けていた。
「大丈夫、ここはジークさまのお屋敷。もう、ひどい人はいないから」
「いや……やだ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「謝らなくていい。ミオは何も悪くないよ」
フィオナは何度もそう言い聞かせながら、細い背中をさすった。
少しして、廊下を急ぐ足音が近づいてくる。
扉が開き、寝間着の上から上着を羽織ったルスが顔を出した。状況を一目で理解したのか、彼は痛ましげに眉を寄せる。
「また、ですか……」
「すみません。起こしてしまって……」
「謝ることではありません」
ルスはそっと部屋に入り、ベッドのそばへ膝をついた。
ミオの呼吸を確かめ、額に手を当てる。その仕草はいつも通り穏やかだったが、表情にはどうにもならない苦さが滲んでいた。
「熱はありませんね。……やはり、悪夢でしょう」
悪夢。
そう呼ぶには、あまりに重いものだった。
ミオは、フィオナと出会う前のことをほとんど話さない。
何をされてきたのか。誰に傷つけられてきたのか。どれほど怖い思いをしてきたのか。
産まれながらの姉妹ではないフィオナは知らない。
知らないまま、ただこの小さな体に残された傷跡だけを見てきた。
「お辛いでしょうが……こうした心の傷は、薬でどうにかできるものではありません」
ルスは静かに言った。
「できることがあるとすれば、今は安全なのだと、少しずつ覚えてもらうことくらいです」
「……はい」
「今夜は、そばにいてあげてください」
フィオナは頷いた。
ルスが部屋を出ていったあとも、ミオの震えはしばらく収まらなかった。
フィオナは毛布ごと妹を抱きしめ、何度も同じ言葉を繰り返す。
大丈夫。
もう怖くない。
ここには、ひどい人はいない。
けれどその言葉が、ミオの奥深くまで届いているのかはわからなかった。
やがて泣き疲れたミオが眠りに落ちた頃、窓の外はうっすらと白み始めていた。
フィオナは眠ることもできず、妹の小さな寝顔を見つめ続ける。
この子を、二度とあんな場所へ戻したくない。
ただそれだけを、胸の奥で強く、強く願いながら。
◇ ◇ ◇
それから数日。
ミオの夜泣きは、不定期に繰り返された。
毎晩ではない。
けれど、忘れた頃に必ずやってくる。
穏やかに眠ったと思った夜ほど、突然、夢の底から引きずり出されるように泣き叫ぶことがあった。
そのたびにフィオナは飛び起き、ミオを抱きしめる。
大丈夫だと囁き、背中をさすり、時には一緒のベッドで朝まで過ごした。
けれど、夜が明ける頃には二人とも疲れ切っていた。
ミオの目の下には薄い隈ができ、昼間に絵本を読んでいても、こくりこくりと舟を漕ぐことが増えた。
フィオナもまた、仕事の最中に手元が狂いそうになる。
「フィオナちゃん、今日はもう休みなさい」
ロッテが心配そうに声をかけてくれることもあった。
けれどフィオナは首を振る。
「ごめんなさい、大丈夫です」
休んでいる場合ではない。
自分がしっかりしなければ。
ミオを守れるのは、自分だけなのだから。
そう思っていた。
──そんなある日の夕食後。
いつものように食卓を囲み、食後のお茶が出された頃だった。
ロッテが今日の焼き菓子の出来を語り、ルスが春先の物資の値上がりについてぼやき、ミオが眠そうに目をこすっている。
ジークは黙ってワインを飲んでいた。
その視線が、ふとミオに向けられる。
「ミオ」
低い声が落ちた。
食堂の空気が、ぴたりと止まる。
ミオは小さく肩を揺らし、顔を上げた。
「……はい」
「今夜、夜の支度が済んだら俺の部屋に来い」
瞬間。
フィオナの心臓が、凍りついたように跳ねた。
音が消える。
ロッテの手元で揺れていたティーポットの音も、暖炉の薪が爆ぜる音も、ルスが息を呑んだ気配さえも、遠くへ引いていく。
『夜の支度が済んだら部屋に来い』
その言葉を、フィオナは知っていた。
聞いたことがある。
何度も、何度も。
かつていた屋敷で。
領主が女奴隷を呼ぶとき、似たような言葉を使っていた。
呼ばれた者は逆らえない。
断れば罰を受ける。抵抗すれば、もっとひどい目に遭う。そうして連れていかれた女たちが、翌朝どんな顔で戻ってきたのか、フィオナは見てきた。
だから、わかってしまった。
わかりたくもない意味を、勝手に体が思い出してしまった。
夜に呼ばれるということ。
それはすなわち──“夜伽”。
ご主人様の欲望を満たすため、身体を差し出すという命令。
「……っ」
フィオナは膝の上で拳を握りしめる。
違う。
ジークさまが、そんなことをするはずがない。
そう思いたかった。
この屋敷は、あの場所とは違う。
ロッテさんは優しい。ルスさんも優しい。ジーク様はミオに子供らしく本を読んでいろと言ってくれた。
だから、違うはずだ。
違うに決まっている。
けれど、頭の奥で別の声が囁く。
では、自分たちに何の価値があるのだろう。
力仕事ができるわけでもない。
ロッテさんのように家事を完璧にこなせるわけでもない。
ルスさんみたいに知識があるわけでもない。
ただ食べさせてもらい、眠る場所を与えられているだけの自分たちに価値があるとすれば──若い女であるというだけのこと。
フィオナの喉が、ひゅっと細く鳴った。
「……はい」
ミオは少し戸惑いながらも、素直に頷いた。
その返事が、フィオナの胸をさらに締めつける。
ミオはわかっていない。
その言葉が、かつてどんな意味で使われていたのか。
いや、もしかすると知っているのかもしれない。知っていて、逆らってはいけないと思っているのかもしれない。
どちらにしても、恐ろしかった。
「ジークさま」
ルスが何かを言いかける。
だがジークは、短く遮った。
「俺の好きにさせろ」
ただそれだけを告げ、また紅茶へ視線を落とす。
その言葉に、ロッテとルスは顔を見合わせた。
ロッテは少し困ったように、けれどどこか納得したように息を吐く。ルスもまた、何かを察したように眉を下げた。
恐怖が、フィオナの声を奪っていく。
ミオは不安げにフィオナを見た。
──お姉ちゃん、どうしたの?
そう尋ねられている気がした。
フィオナは震える唇を噛みしめ、どうにか笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「……ミオ」
かろうじて呼びかける。
ミオが首を傾げる。
食卓の向こうで、ジークは何事もなかったようにグラスを口へ運んでいる。
その横顔からは、何も読み取れない。
信じたい気持ちと、信じきれない恐怖が、フィオナの中でぐちゃぐちゃに絡まり合っていた。
温かなスープの香りも、焼き菓子の甘い匂いも、いつもと変わらない。
それなのにフィオナには、この屋敷が一瞬で冷たい檻に戻ってしまったように思えた。
どうか。
どうか、何も起きませんように。
祈ることしかできない自分を、情けなく思いながら。フィオナはただ、膝の上で握った拳に爪を食い込ませていた。




