第14話 ミオは幼く……
夜も更け、屋敷がしんと静まり返った頃。
姉妹に与えられた寝室では、小さな蝋燭の火だけが頼りなく揺れていた。
窓の外は暗い。
風の音さえ遠く、屋敷全体が息を潜めているようだった。
フィオナは、ミオを膝の前に座らせ、櫛を手にしていた。
銀色の髪に、そっと櫛を通す。
絡まった髪を無理に引っ張らず、毛先から少しずつほぐしていく。細い絹糸のように指の間をすべっていく。
「くすぐったい……」
ミオが小さく肩を揺らし、くすりと笑った。
その声は、あまりにも無防備だった。
何も疑っていない。
これから自分が何をしに行くのか、その言葉の意味を知らない。
──知らないでいてほしかった。
フィオナの手が、わずかに止まる。
忘れたつもりだった光景が、蝋燭の揺らめきに引きずられるようにして、胸の底から這い上がってきた。
かつていた屋敷。
冷たい床。薄暗い廊下。
夜になると、決まって響いた足音。
男たちが、女奴隷を連れにくる。
まるで箱に押し込まれた玩具を品定めするように。
呼ばれた女たちは、誰も抵抗しなかった。できなかった。泣き叫んだところで、床に押さえつけられ、髪を掴まれ、もっとひどい目に遭うだけだと知っていたからだ。
フィオナは何度も命じられた。
『そいつの身なりを整えろ。見苦しい格好で主人の前に出すな』
そう言われて、震える手で女たちの髪を梳いた。
乱れた服を直し、痣を布で隠し、せめて髪だけでも綺麗に見えるように櫛を通した。
泣く者もいた。
祈る者もいた。
ただ虚ろな目で壁を見つめている者もいた。
そして翌朝、戻ってきた彼女たちは、前の夜とは別人になっていた。
幸いな事に、フィオナもミオも夜伽に呼ばれた事はない。華奢で幼い印象の残る身体は、主人の好みではなかったのだろう。
本当に、運が良かった。
奴隷──ましてや獣人の夜伽は、ただの奉仕ではない。“人間の女”が受けるものとは違うのだ。
なぶられ、弄ばれ、玩具のように扱われる。
それは、快楽ではなく、支配欲を満たすための行為。
女が壊れていく様を、楽しむ……残酷な遊びだ。
声を失った者。
食事を受けつけなくなった者。
誰かが近づくだけで、子供のように震えるようになった者。
体も、心も、壊されて──自ら命を絶った同族を、フィオナは何人も見てきた。
「……お姉ちゃん?」
ミオの声で、フィオナははっと我に返る。
気づけば、櫛を持つ指が白くなるほど力んでいた。
「いたいよ」
「あ……ご、ごめんね」
慌てて手を緩めると、ミオの髪が指先からさらりと落ちた。
何を考えているのだろう。
この子はまだ幼いのに。
こんなにも小さく、抱きしめれば腕の中にすっぽり収まってしまうのに。
違う。
ジーク様は違う。
あの屋敷の人間とは違う。
違うはずだ。
そう信じようとするたびに、過去の記憶が囁き返してくる。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
ミオが振り返る。
大きな瞳が、心配そうにフィオナを見上げていた。
この子は何も知らない。
いや、本当は知っているのかもしれない。
知っていて、知らないふりをしているだけなのかもしれない。
どちらにしても、フィオナには耐えられなかった。
「……ううん。なんでもないよ」
声が震えそうになるのを、必死で押し殺す。
「ジークさまに、失礼のないようにね」
口にした瞬間、自分の言葉がひどく薄汚れて聞こえた。
失礼のないように。
何度も聞いた言葉だ。
逆らうな。
泣くな。
拒むな。
生きて戻りたければ、ご主人様の機嫌を損ねるな。
そんな意味を押し込められた言葉。
フィオナは奥歯を噛みしめた。
「ねぇ、ミオ。もし……もし嫌だったら……」
そこまで言って、言葉が詰まる。
嫌だったら──何だというのか。
ミオが泣いて、嫌だと言っても、誰が助けてくれるのか。
自分に……何が出来るというのか。
フィオナの喉が細く鳴る。
「怖かったら……お姉ちゃんを呼んでね」
「うん」
ミオは素直に頷いた。
その素直さが、痛かった。
「ジークさま、こわくないよ?」
「……うん」
フィオナは笑おうとした。
けれど頬が強張って、うまく動かなかった。
「そうだね。ジークさまは……怖くないね」
自分に言い聞かせるような声。
ミオは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は何も聞かなかった。
「いってきます」
小さな手を振り、ミオが寝室を出ていく。
扉の閉まる僅かな音が、まるで重い鉄格子が下ろされる音のように聞こえた。
部屋に、ひとり残される。
揺れる蝋燭の火の中、ミオの温もりが消えた膝の上だけが、やけに冷たく感じた。
フィオナは逃げるようにベッドに入り、目を固く瞑る。
けれど眠れるはずがない。
毛布を頭からかぶっても、耳が勝手に廊下の物音を拾ってしまう。
物音はしないか。
ミオの声はしないか。
泣いてはいないか。
何も聞こえない。
何も聞こえないことが、かえって恐ろしかった。
想像したくないものばかりが、暗闇の中で形を持つ。
ジーク様の無表情な顔。
ミオの細い体。
閉ざされた扉。
逃げ場のない部屋。
あの人の手が、ミオに触れる。
その想像が脳裏をかすめた瞬間、フィオナはぎゅっと目をつぶった。
違う。
違う。
違う。
ジーク様は、そんな人ではない。
あの人は、私たちを救ってくれた。
あの人は、奴隷商から守ってくれた。
あの人は、居場所を与えてくれた。
だから。
だから、違うはずだ。
毛布の中で無意識にきつく拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、痛む。
その痛みだけが、今の自分がまだここにいることを教えてくれた。
いつにも増して、夜が、長い。
いつまで経っても終わらない。
時計の針の音さえ聞こえない静寂の中で、フィオナは何度も祈った。
◇ ◇ ◇
どれほど時間が経ったのだろう。
かすかな物音に、フィオナは弾かれたように体を起こした。
扉が開いている。
廊下の薄明かりを背に、誰かが立っていた。
ジークだった。
その腕の中に、ミオがいる。
「……っ」
悲鳴が漏れそうになり、フィオナは両手で口を押さえた。
ミオは眠っていた。
ジークの腕に抱かれ、頭を胸元に預け、すうすうと穏やかな寝息を立てている。
その顔に、涙の跡はない。
怯えた様子もない。
ただ、本当に眠っているだけに見えた。
けれどフィオナは、すぐには安心できなかった。
あまりにも穏やかすぎる寝顔が、逆に怖かった。
何かをされたのに、それを理解できないほど幼いだけなのではないか。
泣き疲れたあとではないのか。
諦めきった人間ほど、静かに見えることがあると、フィオナは知っていた。
ジークはフィオナを見ると、口元に指を当てた。
静かに。
そう無言で告げる仕草だ。
フィオナは動けなかった。
ジークは音を立てないように部屋へ入り、ミオをベッドへ下ろす。
その動きは驚くほど丁寧で、まるで壊れ物を扱うように、頭を支え、体を横たえ、毛布を肩までかけてやる。
フィオナはその手を見つめた。
大きくて、無骨な手。
その手が優しく見えるほど、フィオナの中の疑念は行き場を失っていく。
信じたい。
でも、怖い。
ジークはミオが目を覚まさないことを確かめると、踵を返した。
咄嗟に、フィオナはベッドから降り、震える足でジークの背を追った。
「あ、あの……っ」
声は掠れていた。
ジークが振り返る。
暗がりの中、その表情はほとんど読めない。
フィオナは喉を鳴らし、必死に言葉を探した。
「その……ミオは……ご無礼など、ございませんでしたか……?」
自分でも、何を聞いているのかわからなかった。
違う。
聞きたいのはそんなことではない。
ミオは無事なのか。
何をしたのか。
泣かなかったのか。
怖がらなかったのか。
けれど、そんな言葉を主に向けることはできなかった。
代わりに出てきたのは、せめてもの懇願。
「ジークさまの……ご趣味に、意見を申し上げるつもりは……ありません。けれど……ミオは、まだ幼く……そういった教育も、受けておらず……」
言いながら、フィオナは吐き気がした。
何を言っているのだろう。
ミオを守りたいのに。自分にはそれができない。
許してください。
不出来でも罰しないでください。
ミオを、壊さないでください。
そう遠回しに乞うているだけだ。
情けなくて、悔しくて、視界が滲んだ。
ジークは怪訝そうに片眉を上げた。
しばらく、沈黙が落ちる。
そして彼は、短く答えた。
「別に、問題ない」
フィオナの心臓が嫌な音を立てた。
問題ない。
何が。
その言葉は、何を意味するのか。
問い返す前に、ジークは続けた。
「明日も借りるぞ」
息が止まった。
借りる。
ミオを。
明日も。
その言葉は、フィオナの胸の奥に冷たく沈んでいった。
何かを言わなければならない。
今すぐ、嫌だと言わなければならない。
ミオは物ではない。
貸し借りするものではない。
自分の妹だ。
そう叫びたかった。
けれど、声が出ない。
足が震え、指先が冷たくなり、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
ジークはそれ以上何も言わず、廊下へ出ていく。
扉が、静かに閉まった。
部屋には再び、蝋燭のかすかな明かりと、ミオの穏やかな寝息だけが残される。
フィオナはゆっくりと振り返った。
ミオは眠っている。
いつものように悪夢にうなされることもなく、怯えて涙を流すこともなく、静かな顔で眠っている。
それは、本来なら喜ぶべきことのはずだった。
けれど今のフィオナには、その安らかさすら恐ろしかった。優しかったはずのこの場所が、見知らぬ場所に変わっていく。
フィオナはベッドのそばに膝をつき、眠るミオの手をそっと握った。
小さな手は温かかった。
「……ミオ」
呼んでも、返事はない。
ミオはただ、安心しきったように眠っている。
フィオナはその寝顔を見つめながら、声にならない祈りを胸の中で繰り返した。




