第15話 お前は、随分と美しい方だぞ
翌朝。
食堂には、いつもと変わらない朝の光が差し込んでいた。
焼きたてのパンの香り。
温かなスープの湯気。
食器が触れ合う澄んだ音。
ロッテはいつものように台所で忙しく立ち働き、ルスは食卓を綺麗に磨いている。
何も変わっていない。
けれどフィオナの心だけは、昨夜の暗闇に取り残されたままだった。
「フィオナちゃん? そのお皿、向きが逆よ」
「あっ……ご、ごめんなさい」
ロッテに言われ、フィオナは慌てて皿を置き直す。
指先が落ち着かなかった。
スプーンを並べようとして数を間違え、飲み物を注げば量がばらばらになる。パン籠を運ぶ足取りも危うく、何度も自分の裾を踏みかけた。
昨夜の光景が、頭から離れない。
ジークの腕の中で眠るミオ。
穏やかすぎる寝顔。
そして、あの一言。
──明日も借りるぞ。
その言葉が、胸の奥に冷たい棘のように刺さったままだった。
「フィオナちゃん、顔色が悪いわよ。少し休む?」
「い、いえ。大丈夫です」
フィオナは曖昧に笑った。
大丈夫なはずがない。
けれど、言えるわけがない。
そうしてフィオナが胸の内を押し殺している一方で、ミオは朝から機嫌がよかった。
「ジークさま」
小さな足音を立てて、ジークの後ろをちょこちょことついて歩いている。
「ジークさまさ、お姫さまに会ったことある?」
「邪魔だ。ついてくるな」
「王さまは?」
「どうだったかな」
「ドラゴンは?」
「それはある」
「あるの?」
ミオの目が、きらりと輝いた。
ジークは面倒そうに眉をひそめる。
「だいぶ昔だ。大した話ではない」
「聞きたい」
「断る」
そう言いながらも、ジークは本気で追い払う様子を見せない。
ミオもまた、まったく怯えている様子は無かった。
それどころか、昨夜よく眠れたせいなのか、頬にはいつもより血色があり、目の下の隈も少し薄くなっている。
喜ぶべきなのだろう。
ミオが悪夢にうなされなかったことを。
朝から笑っていることを。
ジークのそばを、怖がらずに歩いていることを。
けれどフィオナの胸は、重く沈んでいくばかりだった。
これで、本当によかったのだろうか。
ミオが笑っているなら、それでいいのだろうか。
昨夜、何があったのかも聞けないまま。
何も知らないまま。
やがて、その日の夜が来た。
「──ミオ」
食後のワインを飲み終えたジークが、当然のように名を呼ぶ。
「今日も夜の支度が済んだら来い」
「はい」
ミオは少し嬉しそうに頷いた。
フィオナの指先が、膝の上でぎゅっと丸まる。
『やめてください』
そう言いたかった。
けれど、声は出なかった。
その夜も、ミオはジークの部屋へ向かった。
そして数刻後。
眠りこけたミオを、ジークが抱いて戻ってきた。
フィオナは布団の中から、その姿を見ていた。
今度は声をかけられなかった。
目を開けていることを悟られるのが怖くて、寝たふりをした。
ジークは昨夜と同じように、ミオを丁寧にベッドへ下ろし、毛布をかけ、静かに部屋を出ていく。
扉が閉まるまで、フィオナは息を止めていた。
ミオは穏やかに眠っている。
悪夢にうなされることもない。
泣き叫ぶこともない。
それは、確かに救いのはずだった。
それなのに、フィオナの胸はじわじわと痛んだ。
どうして。
どうして、ミオばかりが。
出来る事ならば、自分がミオの代わりになりたい。
この身で良ければ、いくらでも差し出すのに。
けれど──ジーク様は自分を必要とはしてくれない。
私には……そんな価値がないから。
そう考えてしまう自分を、フィオナは止められなかった。
◇ ◇ ◇
そんな夜が、数日続いた。
ミオは毎晩のようにジークの部屋へ呼ばれ、眠ったまま戻ってくる。
不思議なことに、それからミオの夜泣きはほとんどなくなった。
けれどフィオナの心は、反対にすり減っていった。
夜が来るのが怖い。
ミオが呼ばれる声を聞くたび、胸が潰れそうになる。
そして、ある晩。
夜の支度を終え、フィオナが寝室でミオの髪を梳いていたときだった。
扉が叩かれる。
フィオナの肩が跳ねた。
「入るぞ」
低い声。
返事を待たずに、ジークが部屋へ入ってきた。
今日は、彼の方からミオを迎えに来たのだ。
ミオはぱっと顔を上げる。
「ジークさま」
「ああ。支度は済んだか」
「うん」
その自然なやり取りを見た瞬間、フィオナの中で何かが切れた。
これ以上は、黙っていられなかった。
「あ、あのっ!」
布団を跳ねのけるようにして立ち上がる。
声が裏返った。
ジークが足を止め、怪訝そうにフィオナを見る。
その視線だけで膝が震えた。
それでも、フィオナは引けなかった。
「恐れながら……お願いが、あります」
「何だ」
短い返事。
その一言に背中を押されるように、フィオナは両手を胸の前で握りしめた。
「ジークさまのなさることに、私ごときが口を挟むなど、許されないことだとは重々承知しております。ですが……ですが、ミオは、まだ子供です」
言葉が震える。
けれど、止まれない。
ミオが不思議そうにフィオナを見上げている。
その視線が痛かった。
この子は、きっとわかっていない。
フィオナが何を恐れているのかも。
それでも言わなければならなかった。
「もし……もし、それが、お役目のようなものなら」
声が、喉の奥でひっかかった。
吐き出したくない言葉だった。
けれど、飲み込めばミオを守れない。
「わ、私が……私が代わります。ミオではなく、私をお呼びください」
部屋が、しんと静まり返る。
蝋燭の火が揺れる音さえ聞こえそうな沈黙だった。
ジークは無言でフィオナを見下ろしている。
その目には、怒りも欲もない。
ただ純粋に、意味がわからないものを見ているような色があった。
「……何を言っている?」
やがて、ジークが淡々と問う。
フィオナは唇を噛みしめた。
言わせないでほしかった。
これ以上、言葉にしたくなかった。
けれど、ジークは続ける。
「お前では無理だ」
「っ……!」
その一言は、フィオナの胸をまっすぐ刺した。
無理。
自分では駄目。
代わりにもなれない。
やはり、自分には価値がないのだろうか。
ミオを守るために差し出せるものすら、自分にはないのだろうか。
フィオナはうつむいた。
耳が力なく垂れ、尻尾も床へ落ちる。
「……もちろん、わかっています」
声は小さかった。
「私のような、見栄えのしない女では……ジークさまのご期待に添えないことくらい」
自分で言いながら、胸が痛んだ。
そんな事は……分かっている。
ミオは幼く、可憐で、守りたくなる姿をしている。
けれど自分は違う。
綺麗なメイド服を着せてもらっても、鏡の中の自分はいつもどこか場違いに見えた。
自分は何を思い上がっているのだろうか。ミオの代わりが務まるだなんて。
けれど、価値がないなりに、ミオの盾になりたかった。
「ですが、それでも……できる限りのことは……いえ、何でも致します! どうか、ミオだけは……」
「は?」
ジークの声が、低く落ちた。
フィオナはびくりと肩を震わせる。
怒らせてしまった。
そう思った。
けれど、ジークの眉間に寄っていたのは怒りではなく、理解できないという困惑だった。
「何の話かは知らんが」
そして、まるで当たり前といわんばかりにあっさりと告げた。
「お前は、随分と美しい方だぞ」
「……え?」
時間が、止まった気がした。
フィオナは顔を上げる。
ジークは相変わらず無表情だった。
からかっている様子はない。慰めようとしているわけでもない。特別な感情を込めたようにも見えない。
ただ、本当に。当たり前の事実を訂正しただけ。
そんな顔をしていた。
「な、にを……」
フィオナの思考が追いつかない。
美しい。
自分が?
ジーク様が、そう言った。
否定しようとしても、その言葉が真正面から胸に入ってくる。
「え……えええええっ!?」
一拍遅れて、フィオナの顔が一気に熱くなった。
耳の先まで燃えるように熱い。
尻尾が勝手に跳ね、慌てて両手で押さえようとするが、今度は視線をどこに置けばいいのかわからなくなる。
心臓がうるさい。
嬉しいのか、恥ずかしいのか、怖いのか、もう何もわからない。
ただ、胸の奥で固く凍っていた何かが、思いがけない方向から叩かれたような気がした。
その様子を、黙って見ていたミオが、ジークの袖をくいと引いた。
「あのね、ジークさま」
「何だ」
「ミオばっかりだから、お姉ちゃん、さみしいの」
「……は?」
「だから、お姉ちゃんも一緒に。いいでしょ?」
「ちょ、ちょっとミオ!?」
フィオナは慌てて顔を上げる。
だがミオは、まったく悪気のない顔で続けた。
「お姉ちゃん、ミオだけ行くと、さみしそう」
「ま、待って、ミオ。それは違うというか、そういう話じゃないというか……!」
フィオナがしどろもどろになっている間に、ジークは面倒くさそうに頭をかいた。
「一緒に、だと?」
「うん」
「二人同時には、さすがにキツいのだが」
「ち、違います違います違いますっ!」
フィオナは顔を真っ赤にしたまま、全力で首を振った。
何が違うのか、自分でもうまく説明できない。
けれど、とにかく今の言い方は駄目だと思った。
ジークはますます怪訝そうに眉を寄せる。
「お前が言いだしたんだろう」
「言いましたけど! 言いましたけど、そういう事では……!」
「意味がわからん」
「私も自分で何を言っているのかわかりません!」
フィオナは半泣きだった。
ミオはそんな姉の袖を引き、じっと見上げてくる。
「お姉ちゃんも一緒がいいの。ね?」
「え、ええと……」
ミオの目は、まっすぐだった。
何の疑いもない。
その無垢な瞳に見つめられ、フィオナは何も言えなくなる。
ジークは深いため息をついた。
「……わかった」
低い声で言う。
「お前も来い」
「えっ」
「何だ。嫌なのか」
「い、嫌ではありません!」
反射的に答えてしまってから、フィオナは自分の口を呪いたくなった。
嫌ではない。
確かに、嫌ではない。
ミオが心配だし、行けるものなら行きたい。けれど、それはつまり、ジークの部屋に自分も行くということで。
この数日、ずっと想像しては打ち消してきた場所へ。
ミオと一緒に。
「た、ただ、その……準備が」
「夜の支度は済んでいるだろう」
「心の準備です!」
「面倒だな」
ジークは一刀両断した。
そしてミオの方を見る。
「先に行くぞ」
「うん。お姉ちゃん、あとで来てね」
ミオは嬉しそうに手を振る。
「では先に行っている。あまり遅くなるなよ」
ジークはそれだけ言い残し、ミオを連れて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
取り残されたフィオナは、その場に立ち尽くした。
顔はまだ熱い。
耳も尻尾も、自分のものではないみたいに落ち着かない。
──お前は、随分と美しい方だぞ。
先ほどの言葉が、頭の中で何度も響く。
違う。
今はそれどころではない。
ミオのことを考えなければならない。
部屋へ行かなければならない。
そうわかっているのに、胸の奥が妙にざわついて、うまく息ができなかった。
「い、一緒って……」
フィオナは両手で真っ赤な顔を覆う。
「ミオと一緒に……ジーク様のお部屋へ……?」
考えれば考えるほど、頭の中が真っ白になっていく。
心の準備なんて、できるはずがなかった。




