第16話 ねぇ、ジークさま。つづき……
部屋に取り残されたフィオナは、しばらくぼう然と立ち尽くしていた。
胸の鼓動が、耳の奥でうるさいほど鳴っている。
熱い。
自分でも驚くほど、顔が熱かった。
違う。
今は、そんなことを考えている場合ではない。
ミオのことを心配しなければならない。
ミオの代わりに自分がジーク様のお相手を……。
そうわかっているのに、胸の奥は少しも落ち着いてくれなかった。
ふらふらと鏡台の前に腰を下ろす。
薄明かりの中、鏡に映る自分の顔を見た。
ロッテに教わった通りに梳かした髪。汚れのない頬。きちんと整えられた寝間着。耳も尻尾も、昔のように泥にまみれてはいない。
奴隷だった頃、自分の容姿など気にしたことは一度もなかった。
綺麗でいることに意味はなかった。
目を引くことは、良いことではなかった。
誰かの機嫌ひとつで、明日がどうなるかわからない場所では、目立たず、逆らわず、息を潜めていることだけが身を守る術だった。
それなのに。
今は、ジークに言われた一言だけで、鏡の中の自分から目を逸らせなくなっている。
「な、なに考えてるの、私……」
フィオナは小さく首を振る。
頬の熱を追い払うように、両手で顔を覆った。
疲れている場合じゃない。
ジーク様に失礼があってはいけない。
ミオの前で取り乱してもいけない。
何があっても、自分がしっかりしなければならない。
そう言い聞かせ、フィオナは立ち上がった。
服の皺を直し、髪をもう一度梳かす。
耳の毛並みを整え、尻尾も丁寧に撫でつける。
指先は震えていた。
それでも、できる限り落ち着いて見えるように、何度も深呼吸をする。
そうしてようやく、フィオナは部屋を出た。
……夜の屋敷は、昼間とは違う顔をしている。
廊下に灯る燭台の火が、壁に長い影を落としていた。歩くたびに床板がかすかに軋み、その音さえ妙に大きく聞こえる。
ジークの部屋が近づく。
近づくほどに、胸の鼓動が速くなる。
扉の前で立ち止まると、中からくぐもった声が聞こえた。
ジークの低い声。
そして、時折それに混じるミオの小さな声。
「……っ」
フィオナは息を止めた。
扉一枚隔てただけなのに、ひどく遠い場所の出来事のように思えた。
大丈夫。
大丈夫なはずだ。
ミオの声は……少なくとも、泣いている声ではない。
それなのに、フィオナの手は冷たくなっていた。
覚悟を決めなければ。
ここで逃げるわけにはいかない。
フィオナはぎゅっと拳を握り、そっと扉を叩いた。
「入れ」
ジークの声が返る。
フィオナは恐る恐る扉を開けた。
室内は薄暗かった。
暖炉の火が、赤く静かに揺れている。昼間は書物や魔法の道具で満ちているジークの部屋も、夜にはどこか別の場所のように見えた。
そして、寝台の上。
そこに、ジークとミオが並んでいた。
「っ……」
フィオナの体が強張る。思わず顔を背けてしまいそうになる。
見てはいけない、と本能が告げている。
そんなフィオナの気配に気づき、ミオがこちらを見た。
「お姉ちゃんも、いっしょ……はやく……」
とろんとした、甘い声。
誘うようなその言葉に、フィオナの顔が赤く染まる。
「ミ、ミオ……」
だが、次の瞬間。
ミオは小さな手で口元を押さえた。
「ふぁぁ……」
可愛らしい欠伸が、ぽろりとこぼれる。
「ミ、ミオっ!? ジークさまの前で、そんな……!」
こんな場面で欠伸など、本来ならば無礼にもほどがある。奴隷の身であれば、その場で鞭を打たれても仕方がないほどの──。
「うるさい」
ジークの低い声が飛んできた。
彼は眉間に皺を寄せ、フィオナを見ている。
「騒ぐな。せっかくミオが眠くなってきたところだ」
「……ね、眠く?」
「そうだ」
ジークは面倒くさそうに言い、片手に持っていたものを軽く持ち上げた。
絵本だ。
大きな挿絵の描かれた、子供向けの分厚い絵本。
開かれたページには、夜空を飛ぶ小さな竜と、星を抱えた少女の絵が描かれていた。
「……え?」
フィオナは固まった。
ジークの枕元には、ほかにも何冊もの絵本が積まれている。
勇者とお姫様、ドラゴンと財宝、大きな船と荒れる海。
表紙の絵を見るだけで、どれもミオが好きそうなものばかりだった。
「お姉ちゃん、こっち」
毛布にくるまったミオが、眠たげな目でフィオナを手招きする。
「お姉ちゃんは、ジークさまのむこうがわ」
「え、えっと……」
フィオナが戸惑っていると、ジークは深いため息をついた。
「来るなら早く来い。そこで立っていられると邪魔だ」
そう言って、寝台の端へ体を寄せる。
「まったく、この寝台に二人同時はさすがにキツいぞ」
「……あ」
フィオナは、ようやく理解した。
『二人同時はキツい』
それは、そういう意味だったのか。
ミオひとりならまだしも、フィオナまで一緒に絵本を聞くとなれば、寝台の上はさすがに狭い。ジークはただ、それを言っていただけだった。
あまりにも当たり前の意味に、フィオナの頬が一気に熱くなる。
「す、すみません……」
「いいから、早くしろ」
「は、はい……」
フィオナはおずおずと寝台へ近づいた。
ミオがいるのとは反対側。ジークが空けてくれた場所へ、そっと身を横たえる。
確かに狭かった。
少し身じろぎするだけで肩が触れそうになる。布団の端も足りず、フィオナの尻尾は収まりきらずに外へ出てしまった。
けれど、不思議と嫌ではない。
すぐ隣にはジークの顔。
暖炉の光を受けた漆黒の髪が、静かに揺れている。伏せられた睫毛は思いのほか長く、いつも険しく見える目元も、今は少しだけ柔らかく見えた。
胸がまた、妙な音を立てる。
慌てて視線を逸らすと、反対側でミオが嬉しそうに毛布を握った。
「ねぇ、ジークさま。つづき……」
「あぁ」
ジークが改めて絵本を手に取る。
けれど、フィオナにはまだ確認しなければならないことがあった。
絵本を持つジークの手元を見つめ、恐る恐る口を開く。
「あの……ジークさま」
「何だ」
「私では、役に立たないとおっしゃっていたのは……」
ジークの指が、ページの上で止まった。
彼は一瞬だけ黙り、やがて呆れたように息を吐く。
「ああ。お前は──字が読めないだろう」
「……あ」
その一言で、すべてがはっきりした。
お前では無理。
それは、フィオナに価値がないという意味ではなかった。ミオの代わりになれないという意味でもなかった。
ただ、絵本を読めないから。
本当に、それだけだったのだ。
ジークは、眠れないミオのために絵本の読み聞かせをしてくれていた。
悪い夢を見ないように。
夜を、少しでも穏やかに越えられるように。
ミオが楽しい気持ちのまま眠れるまで、毎晩こうして本を開いてくれていたのだ。
フィオナの胸に、安堵と恥ずかしさが一度に押し寄せる。
「わ、私……」
とんでもない勘違いをしていた。
そう言おうとして、うまく声にならなかった。
ジークはしばらく黙っていたが、やがて視線を本へ落としたまま、ぼそりと言った。
「……だが、言い方は悪かった」
「え?」
その声は相変わらずぶっきらぼうだった。
けれど、不思議と冷たくは聞こえない。
「代わりと言ってはなんだが」
ジークは少しだけ顔を横へ向ける。
「今度から俺が読み書きを教えてやる」
フィオナは目を見開いた。
「ジ、ジーク様がですか!?」
「あぁ。お前が嫌でなければ、だか」
「い、いえっ! 嫌だなんて、とんでもありません! その……ありがとうございます!」
そう答えながら、フィオナは視界が少し滲むのを慌てて毛布の端で隠した。
ルスさんは、ミオの悪夢をどうにかできないかと、医学書を何冊も調べてくれていた。
ロッテさんは、眠る前に体が温まる飲み物を作ってくれた。甘い蜂蜜を少しだけ落として、ミオが飲みやすいようにしてくれた。
そして、興味がなさそうに見えたジーク様も。
ジーク様なりに考えてくれていたのだ。
『──俺の好きにさせろ』
あの時の言葉が、ようやく胸の中で形を変える。
好きにする。
それは、ミオを傷つけるという意味ではなかった。
自分のやり方でミオを助けてみせる。
そういう意味だったのだ。
そして、その通りミオは悪魔にうなされる事はなくなった。
やっぱり、この屋敷の人たちは優しい。
ロッテさんも、ルスさんも。
そしてジーク様も。
不器用で、言葉が足りなくて、怖い顔ばかりしているけれど。
それでも、どうしようもなく優しい。
「……ありがとうございます、ジーク様」
フィオナは小さく言った。
ジークは本から目を離さないまま、返事はしなかった。
「ねぇわジークさま……」
ミオのうっとりとした声がジークの肩越しに聞こえる。
「ああ。わかった」
ジークは絵本を持ち直した。
「では、小さな竜が星の丘へ向かったところからだな」
低い声が、静かな部屋に落ちていく。
昼間に聞くとぶっきらぼうなその声は、夜の暖炉の前では不思議と穏やかに響いた。
ミオはすぐに目を閉じた。
それでも、続きを聞き逃すまいとするように、時折小さく頷いている。
フィオナはその様子を見つめながら、そっと息を吐く。
そして、二人の邪魔にならないように、ほんの少しだけジークの背に身を寄せた。
ページをめくる音が、暖炉の火と混じって夜に溶けていく。
ぶっきらぼうなくせに、どこまでも優しい声。
それに包まれながら、フィオナもそっと目を細める。
昨日まであれ程恐ろしかった夜が。
今はどうしようもなく愛おしい時間に感じる。
先に寝息を立てたのはミオだったのかフィオナだったのか。
それはジークだけが知っていた。
それはジークのみが




