第17話 そうした枠を、必要としない方です
冬の名残は、いつの間にか屋敷の周辺からも消えていた。
朝の空気には、湿った土と若い芽の匂いが混じりはじめている。窓の外から差し込む光も、少し前までの白く冷たいものではなく、どこかやわらかい。
その朝、フィオナはなぜか、いつもより早く目を覚ました。
寝台の上で身じろぎした瞬間、ぴくり、と耳が動く。
裏庭の方から、乾いた音が聞こえていた。
木と木が打ち合わされるような、硬い音。けれど、一定ではない。高く、低く、鋭く、時に間を置きながら、不規則に朝の静けさを震わせている。
(……なに?)
気になったら、もう寝ていられなかった。
フィオナは急いで身支度を済ませると、足音を忍ばせることも忘れて廊下を駆けた。裏手の庭へ出た瞬間、冷たい朝露の匂いが鼻先をかすめる。
そして、そこで見た光景に、思わず足が止まった。
庭の中央で、二人の男が向かい合っている。
一人は、ジークだった。
いつものように寝癖まじりのぼさぼさ頭で、服装もどこか気の抜けたまま。
その手には木剣が握られている。
もう一人は、ルス。
皺ひとつない執事服に身を包み、背筋を伸ばしたまま、同じく木剣を構えていた。
剣の稽古。
言葉にすれば、きっとそうなのだろう。
けれど、フィオナの目に映ったそれは、単なる稽古などという言葉で片づけられるものではなかった。
木剣が交わる。
乾いた音が弾けた次の瞬間には、二人の位置が入れ替わっている。踏み込み、受け、流し、避け、また打ち込む。そのすべてがあまりにも滑らかで、荒々しいはずの斬り合いが、まるで一つの舞のように見えた。
静かなのに、激しい。
美しいのに、恐ろしい。
空気そのものが、二人の呼吸に合わせて震えているようだった。
(す、すごい……)
息を呑む。
獣人であるフィオナの目は、人間よりもずっとよく動きを捉えられる。足運びも、剣筋も、確実に視界に収まっている。
なのに、今はその動きを追うのがやっとだ。
見えているのに、分からない。
木剣がどこから来て、どこへ流されたのか。足がどう動き、体がどう入れ替わったのか。理解するより早く、次の音が鳴る。
理屈ではない。
身体の奥が、ぞくりと震えていた。
これは、人の域を超えた技だ。
そう思ったとき、ジークが一歩、前へ出た。
それまで淡々と剣を交えていた彼の気配が、わずかに変わる。気だるげな表情はそのままなのに、踏み込みだけが鋭く深くなった。
木剣が振るわれる。
一撃、二撃、三撃。
容赦のない連撃を、ルスは微動だにせず受けていた。いや、受け止めているのではない。刃筋にほんのわずかな角度を与え、力の向きをずらし、流している。
ジークの剣も決して軽くはない。
けれどルスの手にかかると、その一撃はまるで水面を滑る葉のように、自然と逸れていく。
それでもジークは止まらない。
むしろ、ルスの動きごと読み切るように、さらに半歩踏み込んだ。
フィオナが思わず息を詰めた、その瞬間。
ジークの口元が、かすかに緩む。
「──そこだ」
低い声と同時に、木剣が大きく振り下ろされる。
決まった。
そう思った。
けれど、次の瞬間にはもう、ルスの姿はそこになかった。
しなやかに身を捻った老執事は、ジークの懐をすり抜けるように消え──気づけば、その背後に立っていた。
木剣の先が、ジークの背に静かに添えられている。
朝の庭に、しん、とした沈黙が落ちた。
やがて、ジークが深く息を吐く。
「……はぁ。相変わらずだな」
肩越しに振り返り、彼は苦笑した。
「王国最強は、今でも“白獅子”──おまえだよ、ルス」
「恐縮です」
ルスは穏やかに微笑み、丁寧に頭を下げた。
「とはいえ、年々、体の衰えを感じますな」
「どの口が言う」
ジークは呆れたように呟くと、木剣を肩に担いだ。
それから、まだ朝だというのに、欠伸まじりに屋敷の方へ歩き出す。
「満足した。寝る」
それだけ言い残して、ジークは本当に戻っていってしまった。
あまりにもあっけない終わり方に、フィオナはしばらくぽかんとしていた。けれど、すぐに我に返り、手にしていたタオルを握り直す。
「あ、あのっ、ルスさん! これ、汗を……!」
「おや。これは恐縮です」
ルスはにこやかにタオルを受け取り、額に浮かんだ汗を軽くぬぐった。
激しい打ち合いのあとだというのに、呼吸は少しも乱れていない。執事服の襟元も、袖口も、いつもとほとんど変わらないように見えた。
それがまた、フィオナには信じられなかった。
「すごかったです……!」
胸の前で両手を握りしめると、言葉が勝手にこぼれ出す。
「まるで踊っているみたいで……でも、すごく速くて、鋭くて。剣のことはよく分かりませんけど、普通じゃないっていうのは、私にも分かります。ルスさんが、あんなにお強かっただったなんて……!」
興奮で、声が少し弾んでしまう。
剣技の名前も、駆け引きの理屈も、フィオナには分からない。
けれど、あの一瞬一瞬にどれほどの技と読み合いが詰まっていたのかは、肌で感じ取れた。息つく暇もない剣の応報。わずかな呼吸の乱れさえ許されない間合い。そのすべてを、ルスは穏やかな顔のまま支配していた。
ルスは少しだけ目を細める。
「ほほ。お褒めにあずかり、光栄です」
そして、手にしたタオルを畳みながら、静かに続けた。
「ですが、私の実力など、あくまで剣の上での話ですよ」
「剣の上……ですか?」
「ええ」
ルスは庭の向こう、ジークが戻っていった屋敷の扉へ視線を向けた。
「道具が決まり、間合いが決まり、互いに同じ条件で向かい合う。そうした稽古であれば、私にも多少の心得はございます」
穏やかな声だった。
けれどそこには、謙遜だけではない響きがある気がする。
「ですが、何でもありの戦場であれば、話は別です。私など、ジーク様の足元にも及びません」
「えっ……でも、さっきはルスさんが勝ったんですよね?」
「はい。あくまで、剣の稽古の話、ですね」
ルスはあっさりと頷いた。
「ジーク様は本来、そうした枠の中で測れる方ではありません。剣もあくまで趣味の域。それであの実力なのですから──いやはや、本当に底の知れないお人です」
その言葉を聞いて、フィオナの胸の奥が小さく震えた。
先ほどの光景だけでも、十分に人離れしていた。
そのルスが、当然のように言う。
ジークは、さらにその外側にいるのだと。
(……謙遜、ではないんだ)
フィオナには、まだ分からないことばかりだ。
ジークの強さも、ルスの過去も。
けれど、一つだけはっきりと思った。
ジーク様の隣に立つこの人も、やはり普通ではない。
穏やかに微笑むこの老執事もまた、紛れもなく規格外の人なのだ。




