第18話 私が……いらなくなった
その日の午後、屋敷の前には一台の馬車が用意されていた。
木枠の荷台に布の幌をかけただけの、飾り気のない馬車。けれど、車輪の金具はよく磨かれ、荷台の板にも目立つ傷みはない。質素ではあるが、長く大切に使われてきたものだとひと目で分かった。
馬車を引くのは、艶やかな黒毛の馬。すらりとした脚に、よく手入れされたたてがみ。大きな瞳は穏やかで、出発を待つ間も落ち着いた様子で鼻を鳴らしている。
ミオが毎朝「おてつだい」と称して餌をやりに通っている、屋敷の飼い馬だ。
御者席に腰かけたルスは手綱を握ると、玄関先に立つ面々へ静かに頭を下げた。
「それでは、行ってまいります」
「ふたりとも、気をつけてね〜」
ロッテがいつもの調子で明るく手を振る。その隣では、ミオが小さな頬をぷくりと膨らませていた。
「……ミオも行きたかった」
不満げな声とともに、小さな手がジークの上着の裾をぎゅっと掴む。
ジークはいつもの眠たげな顔のまま、ちらりとミオを見下ろした。
「だめだ。二人とも仕事で行くんだ。ルスも、お前の面倒まで見ていられない」
「けちー」
「うるさい」
すげなく返されても、ミオは引き下がらない。唇を尖らせ、さらに裾を握る手に力を込める。
フィオナは慌てて馬車の上から身を乗り出しかけた。
「ミ、ミオ。ジーク様になんて口を──」
けれど、当のジークは気にした様子もなく、裾を掴む小さな手を軽く払った。
「うー」
「……後で本くらい読んでやる」
「ほんと?」
そんなやり取りを見て、ロッテがくすくすと笑う。
この二人は、どこか似ているのかもしれない。
最初の頃は、ミオがあのジークに懐いていること自体が不思議だった。けれど最近では、二人はまるで年の離れた悪友のように言い合い、じゃれ合い、時にはそろってロッテに叱られている。
気難しく、近寄りがたかったジークに、小さな友人ができた。
屋敷の皆は口には出さないものの、その変化をひそかに喜んでいた。
「では、参りましょうか」
ルスが手綱を軽く引くと、黒馬は心得たように鼻を鳴らし、ゆっくりと歩き出す。
屋敷が少しずつ遠ざかっていく。
玄関先では、ロッテが変わらず手を振っている。ミオはまだ不満そうにこちらを見つめ、ジークは面倒くさそうに立ちながらも、結局最後まで見送っていた。
その光景を胸の中にしまい込みながら、フィオナは揺れる馬車の上でそっと背筋を伸ばした。
◇ ◇ ◇
丘を下り、馬車は緑の広がる山道へと入っていった。
幌の隙間から、春の風がやわらかく吹き込んでくる。湿った土の匂いに、芽吹いたばかりの草木の香りが混じっていた。
冬の間は白く静まり返っていた景色も、今は少しずつ色を取り戻している。道端には小さな花が咲き、遠くの梢では鳥がさえずっていた。
屋敷から町までは、歩けばそれなりに時間がかかる。だが、馬車なら半刻ほどで着くらしい。
遠くから眺めることは何度かあったが、実際にそこへ向かうのは、フィオナにとって初めてのことだった。
町。
人間たちが暮らす場所。
その言葉を思い浮かべただけで、胸の奥がわずかに強張る。
流れていく景色は穏やかで、空は高く、風は優しい。それなのに、フィオナの心はどうしても晴れなかった。膝の上に置いた手を、気づけば強く握りしめている。
やがて道の先に畑が見え始めた。
土を耕す人影、荷を運ぶ男、道端で草を摘む子どもたち。どれも、ただの穏やかな日常の景色に過ぎない。
けれど、その景色を目にした瞬間、フィオナの肩は小さく跳ねた。
「……どうかなさいましたか?」
隣で手綱を握るルスが、静かに尋ねる。
「あの……やっぱり、私……足枷か、手枷をつけた方がいいのではないでしょうか」
ルスの眉が、ほんのわずかに動いた。
「それに、この服も……」
フィオナは自分の胸元に視線を落とす。
身につけているのは、屋敷で与えられたメイド服だ。
柔らかな生成りの布地に、控えめなレース。派手ではないが上品で、動きやすいよう仕立てられている。
今まで身につけてきた粗末な布とは比べものにならないほど、清潔で、温かくて、大切に扱われていることが伝わってくる服だった。
だからこそ、怖かった。
「獣人の私が、こんな立派なお洋服を着ていたら……きっと、変に思われます。ルスさんまで、変な目で見られてしまうかもしれません。私のせいで、ご迷惑を……」
最後の言葉は、ほとんど声にならなかった。
町では、奴隷は奴隷らしくしていなければならない。
首輪をし、鎖を鳴らし、主人の後ろをうつむいて歩く。勝手に顔を上げてはいけない。人と目を合わせてはいけない。笑うなど、もってのほかだ。
そう教え込まれてきた。
その問いに、ルスはすぐには答えなかった。
じっとこちらを見つめるその視線だけが、フィオナの胸に重い影を落とす。
やがてルスが口を開きかけた、その時だった。
「あっ、ルスさん!」
明るい声が、前方から飛んできた。
気づけば、馬車は町の入口へ差しかかっていた。
「ルスさん、こんにちは!」
「おお、ルスさんじゃないか。先日は助かったよ!」
「今日はお買い物ですか?」
馬車に気づいた人々が、次々とこちらへ顔を向ける。市場の女将らしき女性に、畑仕事帰りの親子。白い髭をたくわえた職人風の老人や、籠を抱えた若い娘まで、誰もが当たり前のように笑顔を浮かべていた。
ルスは悠然と馬車を止め、御者席から軽やかに降りる。
「どうも、皆様。ごきげんよう。お変わりありませんか?」
「おかげさまでね。あの薬、よく効いたよ」
「それは何よりです」
「ルスさん、今度帳簿について教えてくれないか? 王都の役人がうるさいんだ」
「承知しました。日を改めて伺いましょう」
「この前の手紙、ちゃんと届いたよ。ありがとうねえ」
「いえいえ、お役に立てたのでしたら幸いです」
礼を述べる声。相談を持ちかける声。体調を気遣う言葉。何気ない世間話。
町の人々は、まるで旧友に再会したかのようにルスのもとへ集まってくる。
ルスもまた、その一つひとつに丁寧に応じていた。屋敷の中で見せる穏やかな執事の顔と少しも変わらないのに、町の人々の間に立つ彼は、どこか皆を支える柱のようにも見える。
フィオナはそっと馬車を降り、邪魔にならないよう少し離れた場所に立った。
ルスが屋敷でどれほど頼りにされているかは知っている。けれど、この町でも同じなのだ。いや、もしかするとそれ以上に、多くの人が彼を頼り、慕っているのかもしれない。
そう思った矢先、広場にひときわ明るい少女の声が響いた。
「ねえ! あの人、だーれ?」
フィオナの体が、ぴたりと強張る。
声の方を見ると、小さな女の子がルスの手を引きながら、まっすぐこちらを指差していた。
その瞬間、周囲の視線が一斉にフィオナへ向けられる。
見られている。
人間たちに。町の中で。獣人である自分が、顔を上げたまま、立っている。
頭で考えるより早く、体が動いた。
「も、申し訳ございません……!」
フィオナはその場に膝をつき、地面へ額を伏せていた。
奴隷として叩き込まれた、街での立ち振る舞い。
堂々と立っていてはいけない。人間様と同じ高さで目を合わせてはいけない。
獣人の奴隷ごときが、人間様の視界を汚すなどあってはならない。
申し訳ございません! 以後気をつけます! 今後二度とこのような事は……!
頭の中で、謝罪の言葉だけが何度も空回りする。
広場から音が消えた。
先ほどまで賑やかだった声も、笑い声も、すべてが途切れる。地面に伏せたフィオナには周囲の表情など見えなかったが、張り詰めた沈黙だけは痛いほど伝わってきた。
そして、その静けさの中に、ルスの声が落ちる。
「……フィオナさん。いけませんよ」
びくん、と肩が跳ねた。
打たれる。
そう思った瞬間、体が反射的に縮こまる。次に来る痛みに備え、奥歯を噛みしめた。
けれど、フィオナに触れたのは鞭でも、蹴りでも、怒声でもなかった。
肩にそっと添えられた、温かな手だ。
「立ってください。せっかくの服が汚れてしまいます」
ルスの声は、少しも変わらず穏やかだった。
「それに──落ち着いて、周りをご覧なさい」
「……え?」
戸惑いながら、フィオナはゆっくりと顔を上げる。
そこに、怒っている人はいなかった。
眉をひそめて見下ろす者も、穢らわしいものを見る目も、値踏みするように眺める者もいない。
町の人々はただ驚いたように、そしてどこか心配そうに、こちらを見つめていた。
その中から、先ほどの少女が一歩前へ出る。
そして、フィオナを見上げるなり、ぱっと花が咲いたように笑った。
「うわぁ……きれいなメイドさん!」
明るく弾んだ声。
そこには悪意も、侮りも、嫌悪もなかった。
ただ珍しいものを見つけた子どもらしい好奇心と、まっすぐな憧れだけがある。
フィオナは思わず、その少女を見つめ返した。
そして、ようやく気づく。
少女の頭には、柔らかそうな獣耳がぴょこんと立っていた。服の後ろでは、小さな尻尾が元気よく揺れている。
その子もまた──獣人だった。




