第19話 足枷か、手枷を着けた方が
その日の午後。
屋敷の前には、一台の馬車が用意されていた。木枠の荷車に布の幌をかけただけの、質素ながらしっかりとした造りだ。
その馬車を引くのは、一頭の立派な黒毛の馬。
ミオが毎朝「お手伝い」と称して餌をやりに通っている、屋敷の飼い馬だった。
御者席に腰かけたルスが、手綱を握ったままふと振り返る。
「それでは、行ってまいります」
「ふたりとも、気をつけてね〜」
玄関先ではロッテが明るく手を振り、その隣では、ミオがぷくっと頬を膨らませていた。
「……わたしも行きたかった」
小さな手が、ジークの上着の裾を引く。
「だめだ。二人とも仕事で行くんだ。ルスも、お前の面倒まで見てられない」
「けちー」
ミオは唇を尖らせて、ぎゅっと裾を掴んだままふてくされる。
フィオナが慌てて諌めようとしたが、ジークはいつものごとく無表情のまま、軽くミオの手を払った。
──この二人、どこか似た者同士なのかもしれない。
最近では悪友のようにじゃれ合い、時折そろってロッテに叱られている。
あの気難しいジーク様に、小さな友人ができた──屋敷の皆は、そんな微笑ましい変化をひそかに喜んでいた。
ルスが手綱を引くと、馬が鼻を鳴らして歩き出した。
◇ ◇ ◇
馬車は丘を下り、緑が広がる山道へと入っていく。春の風が柔らかく吹き抜け、草木の香りをふわりと運んできた。
町は屋敷から遠望できる位置にあり、徒歩で行くには遠いが、馬車なら半刻もあれば着く距離だ。
しばらく進むと、前方に広がる畑で農作業をする人影が見えてきた。
その景色を目にした瞬間、フィオナは思わず身をすくませる。
肩をぎゅっと縮め、膝の上で手を強く握りしめた。
「……どうかなさいましたか?」
隣で手綱を握るルスが、ちらりと視線を向ける。
フィオナは少しだけ躊躇し、やがて絞り出すように言葉を紡いだ。
「あの……やっぱり、私……足枷か、手枷を着けた方が。それに、この服も……」
自分の胸元に視線を落とす。
今着ているのは、屋敷から支給された清潔なメイド服。柔らかな生成りに、品のいいレースが施された、おそらく上等品だ。
「獣人の私が、こんな立派なお洋服なんて……。こんな姿で町に入ったら、ルスさんまで変な目で見られてしまいます……。私のせいで、ご迷惑を……」
言葉が尻すぼみになる。
ルスはその横顔に目を細めたが、返事をするより先に、馬車は町の入口へと差し掛かっていた。
「──あっ、ルスさん! こんにちは!」
「おお、ルスさん! 先日はありがとうございました!」
馬車に気づいた人々が笑顔で駆け寄ってくる。
市場の女将、畑仕事帰りの親子、年配の職人風の男まで──みな、声を揃えてルスに挨拶を送った。
「どうも、皆様ごきげんよう。お変わりありませんか?」
ルスは悠然と馬車から降り、一人ひとりに丁寧に応じていく。
礼を述べる声、暮らしの相談、体調を気遣う言葉、世間話……。
まるで町全体が、旧友に再会したかのようにあたたかかった。
(……あっという間に人だかりが。ルスさん、町でも頼りにされてるんだ……)
フィオナもそっと馬車を降り、隅に立ってその光景を見守る。
けれど──
「ねぇ! あの人、だーれ?」
少女の明るい声が、広場に響いた。
声の方を見ると、楽しげな少女がルスの手を引きながら、まっすぐにフィオナを指差していた。
次の瞬間、周囲の視線が一斉にフィオナへと注がれた。
恐怖が、背中を冷たく撫でる。
「も、申し訳ございません……!」
フィオナは思わず、地面に頭を擦り付けていた。
奴隷として叩き込まれた“街での立ち振る舞い”が、反射のように身体を支配する。
街中で奴隷が堂々と立つなど、許されない。
人様と目を合わせるなど、もってのほか──
そんなことをすれば、鞭が鳴り、怒声が飛ぶ。鉄の檻が、待っている。
広場を、静寂が包んだ。
まるで時間が止まったかのような、張り詰めた空気。
──その中で、ルスの静かな声が落ちた。
「……フィオナさん。いけませんよ」
びくん、と肩が跳ねる。
(ごめんなさい。ごめんなさい……!)
けれど、次の瞬間。
彼女に触れたのは、鞭などではなかった。
そっと肩に添えられた、温かな手。
「立ってください。服が汚れてしまいます。それに──落ち着いて周りを見てください」
思いがけない優しい声に、フィオナは戸惑いながら顔を上げる。
「うわぁ、綺麗なメイドさん!」
少女がぱっと笑顔を咲かせた。
その頭には、柔らかそうな獣耳がぴょこんと立ち、尻尾が服の後ろで元気よく揺れていた。
その子も──獣人だった。




