第20話 お姉さんも、奴隷だったの?
フィオナは、しばらく何も言えなかった。
目の前にいる少女の頭には、柔らかそうな獣耳が立っている。服の後ろでは、小さな尻尾が機嫌よく揺れていた。
その姿は、どう見ても獣人のものだった。
けれど少女は、鎖につながれていない。首輪もない。粗末な布切れをまとっているわけでもない。
小綺麗な服を着て、町の人々の輪の中にいて、誰に怯える様子もなく笑っている。
それが、フィオナにはうまく理解できなかった。
自分に向けられる視線の数に、体の奥がまた強張っていく。
獣人であるというだけで踏みにじられ、鞭を受け、売られていった日々。忘れかけていた痛みが、古い傷をなぞるように胸の奥を刺した。
膝が震えそうになる。
その隣で、ルスが一歩前に出た。
「皆様。こちらはフィオナさんです」
落ち着いた声が、ざわめきの中にすっと通る。
「元は別の領地で奴隷として扱われておりましたが、ジーク様のご意向により、今は我が屋敷で働いていただいております。まだ学ぶことは多いですが、真面目で努力家の、立派なメイドでございますよ」
立派なメイド。
その言葉に、フィオナの胸が小さく跳ねた。
けれど、それよりも先に、町の人々は別の言葉へ反応したらしい。
「奴隷……?」
「よその領地のか」
「しかも獣人の」
戸惑いを含んだ声が、あちこちから上がる。
それは決して怒声ではない。けれど、フィオナには十分すぎるほど怖かった。言葉の意味を確かめる余裕などない。ただ、自分の出自が知られてしまったという事実だけが、冷たい水のように背中を伝っていく。
(やっぱり……私なんかが、こんな場所に来るべきじゃなかったんだ)
喉が詰まる。
視線から逃げたくて、またうつむきそうになった、その時だった。
「はぁ、他所ではまだそんな事をしてるのか」
誰かが心底呆れたようにため息を吐いたのが聞こえた。
思わずフィオナが視線を向けたその先で──
「……いや、それよりもだ!」
誰かが、妙に真剣な声で言った。
「あのジーク様が、こんな若い娘を屋敷に迎えたってことか?」
一瞬、広場の空気が止まった。
そして次の瞬間、ざわめきの色ががらりと変わる。
「しかも、めちゃくちゃ美人じゃないか」
「確かに、こりゃ一大事だ!」
「ジーク様もそろそろ身を固めても良い頃だからな」
「えぇ。でも、私はスカーレット様と結ばれてほしかったんだけどねえ」
「俺なんか、うちの娘を紹介する機会をずっと狙ってたんだぞ」
「お前、抜け駆けするつもりだったのかよ!」
広場は、あっという間に別の意味で騒がしくなった。
先ほどまでの重い空気はどこへ行ったのか。
町の人々は顔を寄せ合い、勝手な想像を膨らませ、まるで祭りでも始まったかのように盛り上がっている。
フィオナは呆然とその様子を見つめることしかできなかった。
奴隷だったと聞いて、嫌悪されると思った。
獣人だと知られて、遠ざけられると思った。
けれど、彼らが気にしているのは、どうやらそこではないらしい。
獣人であること、奴隷だったこと、売られたこと。フィオナが気に病んで怯えていた事の全てが『それよりも』の一言で消え去ってしまった。
ほんの数歩進んだだけで、自分の知っている世界とはまるで違う場所に迷い込んでしまったようだった。
そんなフィオナの袖を、小さな手がそっと引く。
「ねえ」
見下ろすと、先ほどの獣人の少女が、くりくりとした瞳でこちらを見上げていた。
「お姉さんも、奴隷だったの?」
あまりにもまっすぐな問いかけに、フィオナは言葉を失いかける。
責めるつもりは無いようだ。
憐れむ色も、怖がる様子もない。ただ、秘密を分け合うような親しさで、少女はにこっと笑っている。
「え、ええ……そう、だったの」
フィオナがかすかに頷くと、少女はぱっと嬉しそうに笑った。
「じゃあ、私と一緒だね」
その一言に、フィオナは目を見開いた。
(この子も……?)
改めて少女を見る。
綺麗に梳かれた髪。元気に揺れる尻尾。頬に浮かぶ、年相応の明るい笑み。
そこに、恥じらいや諦めはなかった。過去を隠そうとする怯えもない。まるで、そんなことはもう遠い昔の話だと言うように、少女は伸びやかに笑っている。
「この町では、獣人であることを理由に差別する者などおりません」
耳元で、ルスが静かに告げた。
「ましてや、奴隷だった過去を責める者もいません。ここには、同じように救われ、暮らしている方が大勢おりますから」
「同じように……」
フィオナが呟いたその時、近くにいた年配の女性が、ゆっくりと口を開いた。
「このあたりもね、前はひどいものだったんだよ」
皺の刻まれた顔に、懐かしさではなく、重たい苦みが浮かぶ。
「先代の領主様の頃には、獣人の奴隷なんて当たり前にいた。逃げてくる子もいたけれど、誰も助けてやれなかった。助ければ、こっちまで罰せられる。広場で見せしめにされた子だって、ひとりやふたりじゃない」
広場の賑わいが、少しずつ静まっていく。
先ほどまで茶化すように話していた者たちも、今は口を閉ざしていた。誰もが、その事実を知っているのだろう。ある者は目を伏せ、ある者は悔しそうに拳を握っている。
「町には活気なんてなかったよ。人の顔色をうかがって、見て見ぬふりをして、自分たちの暮らしを守るだけで精一杯だった。誇りなんてものは、とっくに失くしていたんだ」
老女の声は静かだった。
だからこそ、その言葉はフィオナの胸に深く沈んでいく。
ここも、最初から優しい場所だったわけではない。
傷つけられた人がいて、助けられなかった人がいて、目を背け続けた人たちがいた。
その重さを、町の人々は忘れていないのだ。
すると、がっしりとした体格の男が顔を上げた。
「そんな町を変えてくださったのが、スカーレット様とジーク様なんだ」
日に焼けて、深い皺の入った顔をくしゃりと綻ばせて誇らしげに語る。
「スカーレット様……?」
聞き慣れない名に、フィオナは思わずルスを見た。
ルスが静かに頷く。
「スカーレット様は、先代領主のご息女にして、この地方の現領主であらせられます。政にも明るく、先代の急逝後、混乱していた町をたった数年で立て直された方です」
「それは……すごいお方なのですね」
感嘆が、自然と声に滲んだ。
すると、先ほどの男がにかっと歯を見せて笑う。
「すごいなんてもんじゃねえよ。スカーレット様は、領主になってすぐに奴隷制度をなくすって言い出したんだ」
「最初は、みんな戸惑ったさ」
別の職人風の男が続ける。
「急にそんなことを言われても、どう接していいか分からない者もいた。今までのやり方を変えるのを怖がる者もいた。けれど、そんな人たちのところにも一軒一軒足を運んで、何度も何度も話をしてくれた」
「そうして、今じゃこれだ」
がっしりした男は、隣に立っていた虎耳の青年の肩を力強く抱いた。
虎耳の青年は呆れたように眉を寄せながらも、振り払おうとはしない。
「暑苦しいぞ、親父」
「いいじゃねえか。お前がいてくれて俺は助かってんだからよ」
男は豪快に笑う。
「種族が違う? だからなんだってんだ。力の強い奴、目のいい奴、手先の器用な奴、足の速い奴。得意なことが違うなら、助け合えばいい。そうすりゃ、これほど心強い友はいねえよ」
その言葉に、周りの人々が自然と頷いた。
人間も、獣人も。
誰かが特別なわけではない。誰かが虐げられているわけでもない。ただ、同じ町で暮らす者として、そこにいる。
並んで笑い、働き、支え合っている。
フィオナは、胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていくのを感じた。
(こんな場所が……本当に、あったんだ)
人間の隣で、獣人が笑っている。
誰の顔にも怯えはなく、誰の手にも足にも鎖はない。
ほんの少し前まで想像することすらできなかった光景が、今、目の前に広がっている。
それは夢のようで、けれど確かに、春の日差しの下にある現実だった。




