第21話 俺が滅ぼしてやろう
町の人々に囲まれているうちに、フィオナの顔からも少しずつ緊張が消えていた。
人間と獣人が肩を並べ、当たり前のように言葉を交わしている。そこには憐れみも、妙な遠慮もない。種族の違いなど、髪や瞳の色が違うのと同じ程度にしか考えていないようだった。
そんな町の空気に触れ、ようやく胸をなで下ろしかけた、そのときだった。
「でもね、最初から何もかもうまくいっていたわけじゃないのよ」
穏やかな声に振り返ると、先ほどまで露店に果物を並べていた老女が、少し寂しげな顔で立っていた。
「スカーレット様が領主になって、奴隷制度を廃止すると決めたとき、そのやり方を快く思わない者も大勢いたの。中でも強く反発したのが、跡目争いに敗れた先代領主の長男だったわ」
懐かしい英雄譚を語るようだった町人たちの表情に、わずかな影が落ちる。
老女は果物を磨いていた布を畳むと、記憶をたどるように目を細めた。
「あの人は王都まで出向いて、王国に訴えたのよ。獣人の奴隷を勝手に解放するのは国の利益を損ねる行為であり、王国への反逆に等しい──なんてね」
「反逆……」
フィオナの口から、かすかな声が漏れた。
奴隷を助けることが、罪になる。
その理屈は、かつて自分がいた場所では当たり前のものだった。獣人を所有する者の権利は守られても、獣人自身が何を望むかなど、誰も考えようとはしなかった。
「王国はろくに事情を確かめもしなかった。この土地を反乱分子の領地と決めつけて、軍まで差し向けてきたのさ」
老女の声に、苦いものが混じる。
「あのときは、もう駄目だと思ったわ。ようやく町が変わり始めたばかりだったのに、全部元に戻されるんじゃないかってね」
フィオナの背筋を、冷たいものが伝った。
武装した兵士が町へ踏み込み、自由を喜ぶ獣人たちを再び鎖につなぐ光景が、あまりにも鮮明に想像できてしまった。
だが、沈みかけた空気を吹き飛ばすように、威勢のよい声が響く。
「だが、そこで現れたのがジーク様ってわけさ!」
声を上げたのは、先ほど虎耳の青年と肩を組んでいた大柄な男だった。周囲からも、待っていましたとばかりに「そうそう」「あれは驚いた」と声が重なる。
「詳しい事情は俺たちにも分からねえ。けど、王国軍が進んできていたある日、王都から突然通達が届いたんだ。この領地の一部を、ヴァルト侯に譲渡せよ──ってな」
「ヴァルト侯……ジーク様に?」
フィオナが尋ねると、男は大きく頷いた。
「そういうことだ。魔王だの、悪魔だの、ろくでもない噂ばかり聞かされていた御仁が、いきなり隣の領主になるっていうんだから、町中ひっくり返ったよ」
「スカーレット様だって、ずいぶん戸惑われたらしいわ」
露店の女主人が口を挟む。
「だって、あの“孤高の悪魔”よ? 各国が恐れ、独りで世界すら滅ぼせるとか言われていた人が、どうしてこんな辺境の土地を欲しがるのか、誰にも分からなかったもの」
「王都が厄介者を押しつけてきたんだ、とも噂されていたな」
陽に焼けた農夫が、当時を思い返すように腕を組んだ。
「実際、俺たちも警戒していたさ。町を乗っ取られて、今度は俺たち人間が魔王の奴隷にされるんじゃないかってな」
今となっては笑い話らしく、農夫の口元には苦笑が浮かんでいる。
「ところが、ジーク様からスカーレット様へ届いた申し出は、俺たちの予想とはまるで違ったんだ」
「申し出、ですか?」
「あぁ。この町を支配するどころか、商売の上で協力関係を結びたい──ってさ」
フィオナは思わず目を瞬いた。
すると隣に立つルスが、静かに説明を添える。
「ご存じのとおり、我が領地には、屋敷と葡萄畑があるだけでございます。領民と呼べる者もおらず、暮らしに必要な人手も物資も、領内だけでは賄えませんでしたので」
「確かに、言われてみれば……何も無いですね」
フィオナの何気ない一言にルスは小さく苦笑を返した。
「ええ。ですから、近隣の町と良好な関係を築くことは、我々にとって欠かせないことだったのです」
ルスの説明に納得しかけたところで、農夫が「だがな」と声を低くする。
「そんなこと、当時の俺たちには分からねえ。商売上の取引ったって、実際は一方的な搾取なんじゃないかって、最後まで疑ってた奴も多かった」
「そりゃそうよ。相手はあの“孤高の悪魔”だもの」
「まともな取引とは思えなかったよな」
町人たちが好き勝手に言い合う中、大柄な男が急に得意げな顔になった。
「けど、協定を結ぶときにジーク様が出した条件が、とんでもなかったんだ」
わざとらしく言葉を切ると、なぜか周囲の視線までフィオナへ向けられる。
「さあ、新人さん。ジーク様が町に何を要求したと思う?」
「えっ?」
突然話を振られ、フィオナは困ってルスを見る。しかしルスは、答えを教えるつもりはないらしく、目元にわずかな笑みを浮かべていた。
「え、ええと……ふ、服従とか、税金、とか……ですか?」
「まったく違う!」
男は楽しそうに笑うと、胸を張って告げた。
「商売上はあくまでも対等。その上で──『王国だろうが何だろうが、この町に手を出す者は俺が滅ぼしてやる』」
「…………」
あまりに飾り気のない言葉に、フィオナはしばし呆然とした。
けれど、頭の中でジークの姿を思い浮かべてみれば、不思議なくらい違和感がない。眠たげな顔で、面倒そうに頬杖をつきながら、さも当然のように言い放つ姿が目に浮かんだ。
気づけば、口元から小さな笑みがこぼれていた。
「……言いそうです。ジーク様なら、本当に」
「だろう?」
男が嬉しそうに膝を叩く。
「あの人の事をよく知った今なら驚きもしないが、当時は意味が分からなかったよ」
「だってこんか小さな町を守るために、王国に宣戦布告とも取れる発言だぞ」
「何の冗談かと思ったわよね」
自分たちを守るという約束を、まるで武勇の勲章でも見せ合うように語るその様子に、フィオナの胸も自然と温かくなった。
「本当に驚いたのは、その後なのよ」
声を潜めた老女に、笑い声がゆっくりと収まっていく。
「スカーレット様がジーク様との協定を受け入れた途端、王国軍は進軍をやめたの。あれほど反逆だなんだと騒いでいたのに、まるで逃げ帰るかのように、すぐさま兵を引いたのさ」
「それからは、一度も口を出してこなくなったな」
「口を出すどころか、王国軍はこの辺りを通ることすら避けるようになったよ」
町人たちの言葉に、フィオナは息を呑む。
ジークが何かをしたわけではない。
少なくとも、剣を抜いて王国軍と戦ったわけではないのだろう。
ただ、この町と孤高の悪魔は協力関係を結ぶ。
それだけで、王国は軍を退いたのだ。
「だからこそ、今の平和がある」
屈強な男が、誇らしげに言い切った。
「王国から見れば、まさしく魔王だろうさ。けどな、その魔王が自分たちの味方をしてくれるってんなら、これほど心強い話はねえ」
「スカーレット様が町を変えて、ジーク様がその町を守ってくださった」
「今の暮らしがあるのは、お二人のおかげさ」
周囲の誰もが、当然のように頷いていた。
その一言一言が、フィオナの胸へ静かに沁み込んでいく。
自分が尊敬し、仕えている主を、町の人々もまた信じている。恐ろしい力を持つ支配者としてではなく、自分たちの暮らしを守ってくれる守護者として、誇らしく語っている。
それが、どうしてか自分のことのように嬉しかった。
屋敷で見てきたジークは、無愛想で、気まぐれで、何を考えているのか分からないことも多い。けれど、必要なときには必ず手を差し伸べ、助けた相手に恩を着せることもしない。
その優しさを知っているのが、自分たちだけではなかった。
そう思うと、胸の奥にともった小さな灯りが、また少し大きくなった気がした。
「あー、駄目だ! お二人の話を始めると、どうにも止まらなくなる!」
しんみりしかけた空気を吹き飛ばすように、男の一人が大声を上げた。
「なあ、メイドさん。あんた、屋敷に来たばかりなんだろ? だったら俺たちが、ご主人様のすごさを最初から全部教えてやるよ!」
「そうだそうだ! こういう話は酒を飲みながらするに限る!」
「おーい、酒場を開けろ!」
たちまち男たちが騒ぎ始め、先ほどまでの厳かな雰囲気は跡形もなく消え去った。
「ちょっと、あんたたち!」
露店の女主人が腰に手を当て、鋭い声を飛ばす。
「ルスさんの前だからって、堂々と仕事をさぼろうとしてるんじゃないよ! どうせこの子を口実に飲みたいだけだろう!」
「そ、そんなことはねえぞ! 俺たちはジーク様とスカーレット様の偉大さをだな……!」
「酒場を開けろって叫んだ口で、よく言うね!」
女たちの容赦ない叱責にも、男たちは少しも懲りた様子がない。それどころか、何人かはフィオナを味方につければ許されるとでも思ったのか、左右から彼女の腕を取り始めた。
「さあさあ、遠慮するな!」
「この町に来た記念だ。一杯くらい付き合えって!」
「あ、あの、私、お酒は……それに、まだお仕事の途中で……」
どうしたらよいか分からず、フィオナは助けを求めてルスを振り返った。
てっきり止めてくれるものと思っていたのだが、ルスは騒ぐ町人たちを眺めながら、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。
「行っておいでなさい」
「えっ?」
「町の方々と親しくなることも、大切なお仕事の一つです」
ルスはそこでわずかに目を細める。
「ジーク様から仰せつかった、またとない社会見学でございます」
フィオナは戸惑いながらも、男たちの勢いに押されて、小さく頷いた。
「……はい。では、行ってまいります」
その返事を待っていたかのように、男たちは歓声を上げた。すかさず女たちの怒鳴り声が飛び、獣人の少女も面白そうに後をついてくる。
そんな町の喧騒に押されながら、フィオナの表情はゆっくりとほころんでいった。




