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第22話 あの方と私は、敵同士だったのですよ

 陽が西へ傾き、空が茜色に染まりはじめた頃。


 ルスとフィオナを乗せた馬車は、来たときと同じ山道を、屋敷へ向かってゆっくりと進んでいた。


 木々の隙間から差し込む夕陽が、幌の内側に長い光の筋を落としている。車輪が小石を踏むたび、馬車は小さく揺れ、そのたびに橙色の光もゆらゆらと形を変えた。


 行きの道中でフィオナの胸を占めていた不安は、もう残っていない。

 代わりに頭の中を巡っているのは、今日出会った人々の顔や、賑やかな笑い声ばかりだった。


「町の皆様とは、親交を深められましたかな?」


 手綱を握るルスが、前を向いたまま穏やかに尋ねる。


「……申し訳ありません。お仕事で伺ったはずなのに、つい楽しんでしまって」


 フィオナは恐縮したように肩をすぼめたものの、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。


「ですが、皆さん本当に優しい方ばかりでした。獣人の私にも、普通に接してくださって……それに、ジーク様やルスさんのことを、とても慕っていらっしゃいました」


「それは、光栄なことです」


 ルスも目を細め、かすかに微笑む。


 屋敷へ向かって歩を進める黒馬の背が、夕陽を受けて艶やかに輝いていた。手綱はほとんど動かしていないのに、馬は帰る道をよく知っているらしく、一定の歩調で進み続けている。


「途中からは、ジーク様とルスさんのどちらがすごいか、という言い争いになりかけたんですよ」


「ほう」


「町を守ったのはジーク様だけれど、困り事を解決してくれるのはいつもルスさんだ、とか……皆さん、ずっと譲らなくて」


 思い出しただけでもおかしいのか、フィオナはくすくすと笑う。


「最後には、毎日お二人のお食事を作っているロッテさんが、一番すごいということでまとまりました」


 しばしの沈黙のあと、ルスは堪えきれないように肩を揺らした。


「それは……否定のしようがありませんね」


 ふと見上げれば、一羽の鳥が馬車の上を横切り、夕暮れの空へ吸い込まれていく。遠くからは、巣へ帰る鳥たちの鳴き声も聞こえていた。


 穏やかな風景だった。


 町へ向かう前には、今日一日がこんな気持ちで終わるとは想像もしていなかった。

 怖いと思っていた町で笑い、初めて会った人々と言葉を交わし、自分と同じ境遇だった獣人の少女とも出会えた。


 それもすべて、ジークやルスたちが築いてきたものの上にある。


 そう考えたところで、フィオナの中にふと、一つの疑問が浮かんだ。


「あの、ルスさん」


「はい。何でしょう?」


「ルスさんとジーク様は、どのようにして出会われたのですか?」


 何気なく尋ねたつもりだった。


 けれど、ルスはすぐには答えなかった。


 手綱を握ったまま、ほんの少し目を細める。視線は正面に向けられているはずなのに、その瞳は今ここではない、遠い場所を見ているようだった。


 やがて彼は、懐かしさを滲ませた苦笑を浮かべる。


「……出会い、ですか」


 その声音には、どこかためらうような響きがあった。


「ふふ。自らの負け戦を語るようで、少々気恥ずかしくもありますが」


「負け戦……?」


 思いがけない言葉に、フィオナは首を傾げた。

 疑問が顔に出ていたのだろう。ルスは小さく笑うと、改めて前を向いた。


「私がジーク様と初めてお会いしたのは──」


 夕陽に照らされていた横顔から、笑みがわずかに消える。


「戦場でした。あの方と私は、敵同士だったのですよ」


「えっ……!」


 フィオナは驚きのあまり、思わず身を乗り出した。


 今の二人を見ているだけでは、到底想像できない。主と執事というだけではなく、長い年月をともに生きてきた家族のように見えるからだ。


「敵同士と申しましても、互いに深い因縁があったわけではございません」


 ルスは穏やかな口調に戻り、どこか自嘲するように続ける。


「まったくの偶然だったのです。もっとも、当時の私にとっては、忘れようにも忘れられないほどの不運でしたが」


「不運、ですか?」


「ええ。己の力不足を運で片付けるなど愚かしい事ですが……いや、あれは不運としか言いようがありません」


 冗談めかした言い方だったが、その一言だけで、当時の苦労が伝わってくるようだった。


 フィオナは膝の上で手を組み直すと、ルスの話に耳を傾けた。


「当時の私は、王国軍を預かる立場にありました。帝国との国境に連なるスレート山脈を制圧するため、秋の終わりに大規模な遠征を行っていたのです」


「スレート山脈……確か王国の西の端ですよね?」


「えぇ。スレート山脈は、王国と帝国を隔てる天然の要害です。険しい山々が連なり、通行できる道はごく限られている。あの地を押さえれば、帝国軍の侵入を防ぐことができます。反対に奪われれば、王国の内側まで一気に攻め込まれかねません」


 淡々とした説明ではあったが、地理の勉強も始めたフィオナには、その地がどれほど重要であったかは理解できた。


「しかし、冬になれば山は深い雪に閉ざされます。道は消え、物資も運べなくなり、兵を動かすことすら難しくなる。ゆえに、雪が降り始める前に決着をつけなければなりませんでした」


 ルスは一度言葉を切り、静かに息を吐く。


「進行は順調でした。少なくとも、あの日までは」


 夕暮れの山道を、馬車の車輪が軋みながら進んでいく。


 フィオナはいつの間にか、町での出来事も、屋敷へ戻る途中であることも忘れ、ルスの語る過去に引き込まれていた。


「山脈の麓に、小さな村がありました。地図にも名が記されているかどうか分からないほどの、貧しい村です」


 フィオナは真剣な眼差しで小さく頷く。

 ルスはどこか諦めたように笑った。


「我々にとって、その村はただの通過点に過ぎませんでした。ですが、そこに……ジーク様がおいでたのです」


「王国軍を、待ち伏せしていたのですか?」


「いいえ、まさか」


 ルスは即座に否定し、首を横に振った。


「あの方がおいでたのは、戦とも、王国とも、帝国とも関係ありません。本当に、ただ偶然滞在していただけです」


「ただの、偶然……」


 フィオナは信じられない思いで呟く。


 軍を率いるルスと、のちに王国最強と呼ばれるジークが、名もない村で偶然出会う。


 まるで物語のような話だった。


「今になって思えば、あの日、我々が別の道を選んでいれば、ジーク様と出会うことはなかったでしょう。ほんの数日、進軍がずれていたとしても同じです」


 ルスの声が、わずかに低くなる。


「ですが、我々はその村を通り、ジーク様もまた、そこにいた」


 沈みかけた夕陽が山の端へ触れ、二人の足元へ長い影を落とした。


「そして、その偶然が──私の人生と、王国の歴史を大きく変えることになったのです」

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