第23話 ここまで気が進まない戦も珍しい
「ルス総隊長! 各隊、陣形を整えました!」
張り詰めた声とともに駆け寄ってきたのは、まだ若い中隊長だった。
肩で息をしながらも、懸命に背筋を伸ばしている。報告の言葉に乱れはないが、緊張までは隠しきれていない。戦場に立った経験そのものが、まだ浅いのだろう。
「分かりました。各隊、そのままの陣形で待機。私の号令を待つように」
「はっ!」
中隊長は深く一礼すると、すぐさま踵を返して駆け戻っていった。
若者の背を見送りながら、小さく息を吐く。
──戦場。
元より好んで立つ場所ではない。
それでも、命じられれば剣を取り、兵を率いてきた。
戦では勝ち、兵は生かし、敵とはいえ避けられる犠牲は避ける。それが指揮官としての務めだと、自らに言い聞かせながら。
しかし、その私でさえ、ここまで気の進まない戦は珍しかった。
王都より下された命令は、スレート山脈の攻略に先立ち、その麓にある村を制圧せよというものだった。
村は名目上こそ王国領とされているが、過去の戦で支配権を失い、長らく帝国の管理下に置かれている。
現在、帝国内では皇位を巡る内乱が続き、国境周辺へ十分な兵力を割く余裕はない。
奪還するなら、今をおいて他にない。
軍略だけを見れば、王都の判断は正しかった。
「……とはいえ」
私は丘の向こうへ視線を向ける。
そこにあるのは、砦でもなければ、軍の駐屯地でもない。
山裾に寄り添うように、素朴な木造家屋が並んでいる、ただの集落だ。
屋根からは細い煙が上がり、軒先に吊るされた野菜が冬を前にした風に揺れていた。遠目には畑の柵も見えるが、それ以外に防備と呼べるのは村の入り口にある質素な門だけ。
兵の姿も、見張り台も、武器を構える村人も見当たらなかった。
どこにでもある、穏やかな農村。
その村へ、今から兵を差し向けようとしている。
気づけば、眉間に深い皺が寄っていたらしい。
傍らに控えていた副官が、こちらの表情を窺いながら慎重に口を開いた。
「恐れながら……今一度、降伏を勧告なさいますか?」
私はしばし考えたのち、静かに首を振った。
「いえ。おそらく、無駄でしょう」
「しかし──」
「村の者たちも、王国軍が帝国領で何をしてきたかは知っているはずです。我々の言葉を信じ、素直に門を開くとは思えません」
戦が長引くにつれ、王国軍の規律は目に見えて乱れていった。
当初は兵站の不足を補うためだった現地調達も、今では略奪とほとんど変わらない。民家から食料を奪い、抵抗する者を痛めつけ、女や子どもにまで手を出す者さえいると聞く。
軍規に照らせば、到底許されぬ行いだ。
だが、それを厳しく取り締まろうとすれば、今度は上層部から弱腰だと責められる。敵地の民に情けをかけるな、兵の士気を削ぐなと。
私のような老兵が、今さら総隊長として前線へ担ぎ出されたこと自体、軍の内情がどれほど荒んでいるかを物語っていた。
村人たちの目に、我々はどう映るのだろうか。
王国の正規軍などではない。
武具と旗を揃えただけの、野盗の大軍。
おそらく、その程度の存在にしか見えてはいないはずだ。
三日前、村へ送った書状には、降伏に応じなければ強制的に制圧すると明記してある。
返答の期限は、まもなく訪れる。
それにもかかわらず、村から使者が来ることはなかった。
降伏の用意が進められている様子もなければ、籠城に備えて防備を固めている気配もない。村は不気味なほどに静まり返っている。
(すでに逃げ出したのでしょうか)
だが、それならば家畜や荷車が動いた痕跡が残るはず。
村人が全員姿を消していたとしても、それはそれで厄介だった。無人の村を占領したところで、物資の補給には使えず、維持のために兵を割かねばならない。家々に火でも放たれていれば、山脈攻略の足場どころか、ただの瓦礫の山に進行を妨げられることになる。
この種の支配戦において重要なのは、土地だけではない。
村人も、家畜も、蓄えられた食料も、可能な限り損なわず接収してこそ意味がある。
(とはいえ、これから雪に閉ざされる山へ逃げ込んだとも考えにくい。こちら側へ抜けてきた形跡もない。ならば、帝国軍が秘密裏に兵を潜ませている……?)
私は村の周囲へ視線を巡らせる。
林の奥、家屋の陰、畑に沿って流れる小川。
伏兵が潜んでいる可能性も考えたが、どうにも腑に落ちない。兵が動けば、煙や足跡、馬の痕跡が必ず残る。斥候からも不審な報告は上がっていなかった。
何もない。
あまりにも、何もなさすぎる。
知将などと呼ばれた身ではあるが、これほどまでに状況を読めないと感じたことはなかった。
敵意もない。
恐怖もない。
策の気配すらない。
まるで村そのものが、こちらの軍勢など存在していないかのように沈黙している。
その静けさが、下手な罠よりも不気味だった。
考えを巡らせているうちに、ついに定刻が訪れた。
「総隊長」
副官が低い声で告げる。
「返答期限です。出撃のご命令を」
周囲に控える将兵の視線が、一斉に私へ集まった。
ここで命令を下せば、軍は動く。
前衛が門を破り、抵抗する者を排除する。たとえ私が略奪を禁じたとしても、混乱の中で何が起こるかまでは保証できない。
それでも、命令を拒むことは許されなかった。
「……やむを得ませんね」
私は小さく息を吐き、軍旗を掲げる兵へ合図を送ろうとした。
そのときだった。
「……む?」
村の門が、動いた。
戦用にはあまりに粗末な木の扉が、軋んだ音を立てながら、ゆっくりと開いていく。
兵たちの間に緊張が走った。
「全部隊、待機! 弓兵は構えたまま、まだ放つな!」
私の命令が陣中を駆け抜ける。
開かれた門の向こうには、暗い村道が伸びていた。
使者が現れるのか。
村長が降伏を告げに来るのか。
あるいは、油断した我々を狙う決死の一隊でも飛び出してくるのか。
だが、門をくぐって現れたのは──たった一騎だけだった。
黒い馬が、土を蹴って駆けてくる。
その背に乗る男もまた、闇を切り取ったような黒衣をまとっていた。鎧らしい鎧はなく、従う兵もいない。軍旗も掲げず、ただ一人で、無数の兵が待ち構える陣へ真っすぐ向かってくる。
無謀。
本来なら、そう断じるべき光景だった。
弓の一斉射を浴びせれば、それで終わる。騎馬隊を差し向ける必要すらない。
それなのに、私は攻撃を命じることができなかった。
遠く、顔さえはっきり見えないというのに、その男から目を離してはならないと、本能が警鐘を鳴らしていた。
馬が一歩近づくたび、奇妙な感覚が濃くなっていく。
風が弱まり、木々のざわめきが消えた。
兵たちの呼吸さえ、どこか遠くなったように感じられる。
山も、空も、大地さえも。
その男の接近を恐れ、息を潜めているかのようだった。
私は無意識に──腰に差した愛剣の柄へ手を添えていた。
(これは……)
少なくとも、私がこれまで戦場で相対してきた、どのような存在とも違っている。
理由など分からなかった。
何者なのかも、何を目的としているのかも。
ただ、長年戦場で生き延びてきた感覚だけが、繰り返し告げていた。
何かが違う。
何かが、決定的におかしい──と。




