第24話 戦場に立ってはならぬ存在
「……使者、でしょうか」
副官が遠眼鏡を覗いたまま、訝しげに呟いた。
私も目を凝らし、こちらへ向かってくる騎影を見据える。
ただ一騎。
旗はなく、甲冑も身につけていない。旅装の背に一本の剣を負っているだけ。
普通ならば、警戒するほどの相手ではない。
こちらには二千の兵がいる。陣形は整い、弓兵も騎兵も、私の号令一つで動ける状態にある。たとえあの男が何者であろうと、単身で軍陣に近づいてくる以上、捕らえることなど容易いはずだった。
それなのに、私は男から視線を逸らせずにいた。
「……分かりません。私が参ります」
「そ、総隊長……!?」
副官が遠眼鏡を下ろし、耳を疑うようにこちらを振り向いた。
「自ら、あの者のもとへ向かわれるおつもりですか?」
その声に滲んでいたのは、驚きよりも明らかな動揺だった。
当然だろう。敵か味方かも分からない者を相手に、軍の総指揮官が前へ出るなど、軍律に照らせば異常な判断でしかない。
私が副官の立場であったなら、たとえ命令違反を咎められようとも、全力で止めていたはずだ。
だが、それでも胸のざわつきを無視することはできなかった。
長年の経験で培われた直感が、繰り返し告げている。
あれと正面からぶつかってはならない、と。
「話をするだけです。各隊には、陣形を崩さぬよう徹底させてください。私の合図があるまで、決して攻撃してはなりません」
「しかし──」
「命令です」
反論を封じ、私は馬首を前方へ向けた。
副官の不安げな視線を背に受けながら、単騎で陣を離れる。
◇ ◇ ◇
両軍が向かい合うはずだった草原の中央で、私は馬を止めた。
少し遅れて、黒衣の男もこちらから十歩ほど離れた場所で手綱を引く。
本来ならば、ほどなく兵たちの咆哮と剣戟に満たされ、血と泥にまみれるはずだった土地だ。だが今は、二千の軍勢が遠巻きに見守る中、私と男だけが冬枯れの草原に向かい合っている。
山から吹き下ろす風が、冷たい冬の匂いを運んできた。
男は、やはり兵士には見えなかった。
黒を基調とした簡素な旅装に、肩へ届くほどの黒髪。風雨に晒されてきた形跡こそあるものの、防具らしいものは身につけていない。背負っている剣も華美な装飾のない、どこにでもありそうなものだった。
血の匂いもない。
殺気もない。
戦場を渡り歩く傭兵に特有の、獣じみた剣呑ささえ感じられなかった。
それにもかかわらず、男を前にした途端、先ほどまでの違和感はさらに濃くなった。
空気が重い。
比喩ではない。本当に、この一帯だけ重力が増したかのように、呼吸をするたび胸の奥へ圧力がかかる。
馬も同じものを感じているのだろう。よく訓練された軍馬であるにもかかわらず、落ち着きを失ったように足を踏み替え、低く喉を鳴らしていた。
「──何者ですか?」
私は馬を宥めながら、静かに問いかけた。
自分でも意外なほど、声は平静を保っている。
男は私を一瞥すると、気の抜けた調子で答えた。
「たまたま村に居合わせた旅人だ。……あんたは?」
あまりにも場違いな返答だった。
背後に並ぶ二千の兵も、狙いを定めている弓兵も、まるで目に入っていないかのような態度である。
状況を理解していないのか。
それとも、理解したうえで意に介していないのか。
後者であると考えるには、その態度はあまりに自然すぎた。
「王国軍総隊長、ルス・エルノア・クラウゼです」
名を告げると、男はわずかに眉を上げた。
「総隊長自ら出てくるとは、ずいぶん気前がいいな」
口元に浮かんだのは、ほんのかすかな笑みだった。
侮辱するような響きも、虚勢を張る様子もない。ただ目の前で起きたことを、少しばかり面白がっている。
その程度の表情に、なぜか心がざわついた。
「それで、あなたのご用件は?」
私が尋ねると、男は億劫そうに肩を回した。
まるで長旅の途中で、面倒な頼み事でも引き受けたかのような仕草だった。
「戦をしに来た」
淡々と告げられた言葉に、私は返答を失った。
冗談にしては笑みがなく、挑発にしては熱がない。時間を稼ぐ策だとしても、村側に何か動きがある様子は見受けられなかった。
何より、男の目には計算も虚勢も浮かんでいない。
本気で言っている。
理解はできずとも、それだけは疑いようがなかった。
「……失礼ながら、おっしゃる意味が分かりません」
私は慎重に言葉を選ぶ。
「戦をするというのであれば、あなたの兵はどこにいるのです? 村にも、その周辺にも、兵力らしきものは見当たりませんが」
男は軽く肩をすくめ、両手を広げた。
「いるだろ。目の前に」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
目の前にいるのは、男ただ一人だ。
つまり、この者は単身で二千の軍勢を相手取るつもりだというのか。
妄言でしかない。
戦を知らぬ子どもでさえ、そのようなことが不可能であると分かるだろう。
笑い飛ばすべきだった。
ところが、喉は奇妙に乾き、声が出てこない。代わりに、氷の指で撫でられたような冷たさが、ゆっくりと背筋を這い上がってきた。
「……なるほど」
私は自分を落ち着かせるように、一度息を整えた。
「つまり、あなたは自らの首と引き換えに、村人たちを助けるよう交渉しに来たのですね。英雄譚のような真似をするおつもりですか」
それならば、まだ理解できる。
己の命を差し出し、村の助命を嘆願する。無謀であり、受け入れられる保証もないが、少なくとも一個人の行動として筋は通る。
だが、男はわずかに首を傾げた。
「いや。逆だ」
「逆……?」
「大人しく兵を引けば、こっちも無闇に殺しはしない」
男は変わらぬ調子で言い放った。
「その勧告に来た」
今度こそ、吹き出しそうになった。
たった一人で二千の軍勢へ退却を勧告する。
あまりにも馬鹿げている。
軍議で誰かが口にすれば、正気を疑われるどころか、その場から叩き出されてもおかしくない妄言だ。
だというのに、やはり私は笑えなかった。
男の言葉には威圧も怒気もない。声を張り上げてもいなければ、自らの力を誇示する様子もない。
ただ事実を伝えるように、こちらが退けば殺さないと告げた。
そして、それこそが恐ろしかった。
この男は、脅しているのではない。
勝てると信じ込んでいるのでもない。
彼の中ではすでに、勝敗など決まり切っているのだ。
私の背後には、二千の兵がいる。
王国各地から集められた精鋭であり、幾度もの実戦を生き残った兵士たちだ。騎兵も、弓兵も、魔術師も揃っている。
号令一つで、目の前の男へありとあらゆる攻撃を浴びせることができる。
それなのに。
(……私は、この男を恐れているのか?)
認めたくはなかった。
だが、己の感覚に嘘をつくこともできない。
これまで私は、数多くの猛将や剣豪と相対してきた。帝国の魔術師にも、常人をはるかに超える力を持つ亜人の戦士にも出会ったことがある。
しかし、目の前の男は、そのいずれとも異なっていた。
兵士ではない。
剣士や傭兵という言葉でも足りない。
勇者……いや、そんな御伽話めいた呼称でも、この男を指し測るには随分と見劣りして感じた。
個人の武勇という尺度で測ること自体が、すでに間違っている。
私はようやく理解した。
この男は、戦場に立たせてはならない。
敵味方を問わず、戦場に立ってはならない存在なのだ。




