第25話 ただ一杯の酒に、負けたのだ
私が答えを返せずにいると、男は自ら馬を下り、手綱を離した。
主人の意図を理解しているのか、黒馬はその場から動こうともしない。男はそんな愛馬を一度だけ撫でると、冬枯れの草を踏みしめながら、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「それで──どうする?」
男は私から数歩離れたところで立ち止まり、面倒そうに首を傾ける。
「もう、始めていいのか?」
声に怒気はなく、こちらを脅すような気配もない。
それなのに、その問いを聞いた瞬間、胸の内側を得体の知れない何かに掴まれたような感覚を覚えた。
恐怖──とは、わずかに違う。
猛獣を前にしたときのような、命の危険を察する感覚ではない。もっと根源的な、自分がこれまで信じてきた常識そのものを揺さぶられるような不安だった。
気づけば、私も馬から下りていた。
「……一つ、提案があります」
口から出た言葉に、私自身が最も驚いていた。
「なんだ?」
「一騎打ちでは、いかがでしょうか」
軍略として考えれば、愚策以外の何ものでもない。
こちらは二千の兵を揃え、陣形もすでに完成している。相手はただ一人。わざわざ数の優位を捨て、総指揮官である私が自ら危険を冒す理由など、どこにもなかった。
だが、あの男へ軍を差し向けてはならない。
それだけは、確信に近いものとして胸の内にあった。
「一騎打ちか」
男は興味を引かれたように目を細める。
「俺と、あんたで?」
「ええ。私は、この二千の兵を預かる総隊長です。そして背後には、三万の本隊が控えている」
私は男の目をまっすぐに見返した。
「その軍勢の頭と直接斬り結べるというのであれば、あなたにとっても悪い話ではないでしょう。私が敗れた場合は、軍を退かせます」
もちろん、本来ならば私一人の敗北で全軍の方針を変えることなど許されない。
だが、今この場で男を納得させるためには、それだけのものを賭ける必要があった。
男はしばらく黙り込み、私の顔を眺めていた。
嘘を見抜こうとしているのか、それとも単に面白がっているのか。その表情から考えを読み取ることはできない。
やがて、男の口元がゆっくりと綻んだ。
「なるほど。面白い奴だな」
どこか嬉しそうな声音だった。
「いいだろう。久しぶりに、少しは楽しめそうだ」
男は背に負っていた剣へ手を伸ばす。
装飾のほとんどない、旅人が護身用に携えるような長剣だった。だが、鞘から引き抜く動作には迷いも無駄もなく、ひと目で相応の修練を積んでいることが分かる。
私も腰の剣を抜き、正眼に構えた。
「王国軍総隊長、ルス・エルノア・クラウゼ」
「ただの旅人、ジークだ」
このとき初めて、私は男の名を知った。
互いに数歩の距離を取り、冬の風が草原を吹き抜けるのを待つ。
男──ジークの構えは、決して洗練されたものではなかった。重心はわずかに高く、切っ先にも微細な揺れがある。剣を専門に修めた者ならば、まず直すであろう癖がいくつも見て取れた。
それでも、隙があるとは思えない。
技術の未熟さを、別の何かが覆い隠している。
「──参ります」
地を蹴った。
直後、二本の剣が激突し、澄んだ金属音が冬空を裂いた。
初太刀は、互いに正面からの打ち合いとなった。
腕へ伝わってきた衝撃は、予想よりもはるかに重い。体格だけを見れば特別に恵まれているわけではないというのに、剣へ乗せられた力は並の重装兵を凌いでいた。
だが、剣筋そのものは素直だった。
速く、重く、迷いがない。しかし、それだけだ。
私は刃を滑らせるように衝撃を逃がし、そのまま半歩踏み込んだ。ジークが体勢を立て直すより早く、二太刀目が振るわれる。
横薙ぎの斬撃を受け流し、その反動を利用して体を反転させる。
ジークの視線が、こちらの動きを追ってくる。
だが、遅い。
(──取った)
切っ先を返し、ジークの喉元へ突きつける。
刃は皮膚に触れる寸前で止まった。
もう一歩踏み込めば、終わる。
「……見事な腕前です」
私は剣を向けたまま、静かに告げた。
「ですが、勝負はつきました。投降なさい。応じていただけるのであれば、命までは取りません」
不思議なことに、私は心からそう願っていた。
剣術だけを見ても、ジークには間違いなく才がある。正式な師のもとで学び、無駄な癖を取り除けば、さらに大きく伸びるだろう。
ここで失うには、あまりにも惜しい。
しかし、当のジークは悔しがるでもなく、喉元の刃を見下ろして目を丸くしていた。
「……驚いたな」
やがて漏らした声には、嘘のない感心が滲んでいる。
「まさか、剣で負けるとは思わなかった」
「あなたの腕が劣っているわけではありません。ただ──世界は広いということです」
私がそう答えると、ジークは一瞬だけ黙り込み、それから素直に頷いた。
「そうらしい」
敗北を恥じる様子はない。
むしろ、自分より優れた剣士に出会えたことを、心から喜んでいるようにすら見えた。
その反応に戸惑っていると、ジークはふと何かを思い出したように口を開く。
「ところで、一つ確認してもいいか?」
「何でしょう」
「この一騎打ち、剣以外を使ってはいけないとは決めていなかったよな?」
一瞬、負け惜しみかと思った。
だが、ジークの顔には悔しさも焦りもない。私を言いくるめようとする者の目でもなかった。
「……確かに、そのような取り決めはしておりませんが」
答えた瞬間、ジークの口元がわずかに吊り上がる。
「それならよかった」
喉元へ剣を突きつけられたまま、彼はどこか申し訳なさそうに肩をすくめた。
「実は俺、剣はあまり得意じゃないんだ」
何を言っているのかと思った、その直後だった。
「──っ!?」
手にしていた剣が、突然下方へ引かれた。
まるで巨大な何かに刃を掴まれたような、凄まじい力だった。手首が押し潰されそうな痛みに襲われ、剣を握り続けることができない。
堪えきれず指を開くと、愛剣は音を立てることもなく、そのまま地面へと沈んでいった。
違う。
地面ではない。
彼の足元から広がった影が、黒い沼のように剣を呑み込んでいる。
「魔法……! これは──」
「ああ」
ジークはあっさりと頷く。
「俺、魔法使いだからな」
詠唱はなかった。
魔力を練る気配も、術式が展開される予兆もない。杖を構えたわけでも、指先をこちらへ向けたわけでもなかった。
ただ、そうすると決めた瞬間には、すでに魔法が発動していた。
魔法使いとの戦い方なら、熟知している。
詠唱を妨害し、狙いを定めさせず、魔力が形を成す前に懐へ入る。とりわけこの距離まで近づけば、剣士が圧倒的に有利となるのが常識だ。
にもかかわらず、私は何の反応もできなかった。
気づいたときには剣を奪われ、さらに足元から伸びた影が、蔦のように両脚へ絡みついている。
振りほどこうとしても、びくともしない。
「安心しろ。これも一騎打ちの続きだ」
ジークは身動きの取れなくなった私を見ながら、平然と続ける。
「あんた以外に手を出すつもりはない。ただ、俺の魔法は少しばかり小回りが利かなくてな」
「小回りが……?」
「ああ」
そう言って、ジークは人差し指を空へ向けた。
つられて視線を上げた私は、そこでようやく異変に気づいた。
空に、夜が生まれていた。
夕暮れでも、雲でもない。
純粋な黒だった。
漆黒の球体が、いつの間にか我々の頭上へ浮かんでいる。その大きさは、もはや魔法という言葉で片づけられるものではなかった。空の半分を覆い隠し、周囲の光を吸い上げながら、なお膨張を続けている。
黒い球体の周囲では、風が止まっていた。
鳥の声も消え、草原のざわめきさえ聞こえない。
音も、光も、熱も。
この世にあるものすべてが、あの黒へ向かって引き寄せられているようだった。
見上げているだけで、魂が逃げ出そうと悲鳴を上げる。
「──黒天」
ジークが静かに術の名を告げ、掲げていた手を握り込んだ。
その瞬間、空が欠けた。
巨大だった球体が、一息に一点へと収束する。
消えたのではない。
空間そのものがくり抜かれ、世界に穴が開いたように見えた。
直後、凄まじい突風が草原を吹き荒れた。
欠損した空間を埋めようとするかのように、大気が一点へなだれ込んでいく。大地が低く唸り、遠く離れた陣営から、兵士たちの動揺する声が聞こえてきた。
そして──収束した黒が、爆ぜた。
音はなかった。
炎も、閃光も、熱も生じない。
ただ、そこにあったものが消えていく。
雲の一部が削り取られ、遥か上空の景色が不自然な形に歪んだ。あまりにも巨大な力が空間を押し潰したことで、世界そのものが一瞬揺らいだようにさえ見えた。
私は声を失っていた。
知っている魔法とは、根本から異なる。
炎を生み出したのでも、風を操ったのでもない。何かを破壊したと呼ぶことすら適切ではなかった。
あれは、存在そのものを消し去る力だ。
「今のでも、だいぶ威力は落としてある」
ジークは空に残った歪みを見上げながら、何でもないことのように告げた。
「続けるなら、次は地上で炸裂させることになるが……どうする?」
返す言葉はなかった。
私の背後には二千の兵がいる。さらにその後方では、三万の本隊が進軍の準備を整えていた。
だが、何人いようと関係がない。
剣も、盾も、陣形も、魔法も。
私たちが戦場で積み上げてきた、ありとあらゆる技術と経験。そのすべてが、この男を前にしては何の意味も持たない。
次元が違う。
戦って勝てるかどうかという話ですらない。
戦いとして成立しないのだ。
「……参り、ました」
私はゆっくりと膝を折り、ジークへ頭を垂れた。
足へ絡みついていた影が、音もなく消える。
顔を上げると、ジークは満足そうに頷き、何事もなかったかのように背を向けていた。
勝者として私を嘲笑うこともなければ、敗者へ忠誠を求めることもない。ただ目的を果たしたから帰る。それだけのことらしい。
「── 一つ、伺ってもよろしいですか?」
私は立ち上がり、馬へ戻ろうとする背中を呼び止めた。
ジークは足を止めると、肩越しに振り返る。
「なんだ?」
その表情には、侮蔑も優越感もなかった。私が何を尋ねるのか、ただ静かに待っている。
「なぜ、あなたほどの方が、あの小さな村を守ろうとなさるのです」
これほどの力を持つ者が、なぜ名もなき村のために、王国軍全体を敵に回すような真似をするのか。
村に家族がいるのか。
何らかの恩義があるのか。
あるいは、帝国と深い関わりを持つ人物なのか。
当然、そのような答えが返ってくるものだと思っていた。
ところがジークは、質問の意味が分からないというように、わずかに眉を寄せた。
しばらく考えたあと、ようやく思い当たったらしく小さく頷く。
「ああ。村に、旨い酒があったんだ」
「……酒、ですか?」
「一晩泊めてもらってな。飯も酒も悪くなかった」
ジークは村の方角を振り返り、さも当然のことのように続けた。
「潰されると、もう飲めなくなるだろう?」
「…………」
「何だ? あんたも来るか? 一杯くらいなら奢ってやる」
全身から、力が抜けていくのを感じた。
領土のためでも、国のためでもない。
崇高な使命や、深い因縁があったわけでもない。
ただ、酒が旨かった。
その程度の理由で、この男は王国軍の前へたった一人で立ち塞がり、三万を超える軍勢を退かせようとしたのだ。
あまりにも馬鹿げていて、あまりにも単純だった。
だが、不思議と笑う気にはなれない。
この男にとっては、数万の兵など旨い酒に比べれば、取るに足らない些事なのだろう。
「……ご相伴にあずかりたい所ですが、軍を引かねばなりませんので。またの機会に」
私が答えると、ジークは短く笑い、再び村へ向かって歩き出した。
こうして──王国軍は敗北した。
大軍勢でも、堅牢な砦でも、帝国の策謀でもない。
たった一人の旅人と、ただ一杯の酒に──負けたのだ。




