第26話 誇り高き“白獅子”
軍陣へ戻ると、待ち構えていた副官が真っ先に駆け寄ってきた。
「総隊長……!」
若き副官──レオンの顔には、隠しきれない動揺が浮かんでいる。
無理もなかった。
空を覆ったあの黒も、世界が軋むように歪んだ瞬間も、彼は遠眼鏡越しに見ていたのだ。何が起きたのかを理解できずとも、それが自分たちの知る魔法とはまるで異なるものだったことだけは、痛いほど分かっているはずだった。
「……全軍、撤退します。直ちに各隊へ伝令を」
私が告げると、レオンだけでなく、後ろに控えていた将校たちの間にも動揺が走った。
「し、しかし……!」
誰かが声を上げたものの、その先は続かなかった。
困惑と、戸惑いと、口にすることさえ憚られる恐怖。
皆、頭では命令の意味を受け入れられていない。だが本能の奥では、すでに理解しているのだろう。
あの男とは、戦ってはならない。
たとえ二千の兵をすべてぶつけたとしても、結果は変わらない。むしろ、それだけ多くの命を無意味に失うことになる。
レオンは唇を噛み、遠ざかっていく黒衣の背へ目を向けた。
「先ほどの、あれは……本当に、あの男が一人で……?」
ジークと名乗った旅人は、すでに村へ馬を走らせていた。
数千の兵を退けた直後だというのに、勝ち誇る様子も、こちらを振り返る様子もない。まるで道端で少しばかり立ち話を終えたかのように、ゆっくりと村へ帰っていく。
「ええ。間違いありません」
私が答えると、レオンの喉が小さく鳴った。
「にわかには、信じられません。あれほどの規模の術など、王国の魔道師団が総出で数日がかりの儀式を行っても、成功するかどうか……。それを、僅かな間に、たった一人で……」
「あれでも、相当に威力を抑えていたそうです」
「……あれで? 抑えた!?」
レオンの顔から血の気が引いていく。
「手加減をして、あれだと……?」
誰も言葉を発しなかった。
冷たい風が陣の中を吹き抜け、軍旗を大きく揺らす。兵たちの鎧がかすかに鳴ったが、それ以外には、どこまでも重苦しい静寂が広がっていた。
私自身、指先がわずかに震えている。
寒さのせいではなかった。
「では……後方の本隊にも、撤退命令を送るのですか?」
ようやく気を取り直したレオンが、慎重に尋ねてくる。
私はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。この部隊だけを村から退かせ、いったん後方へ再配置します」
「……どういうことでしょうか?」
「今のまま王都や本隊へ事実を報告したところで、信じてもらえるとは思えません。たった一人の旅人に敗れ、村を落とせなかったなどと伝えて、軍上層部が受け入れるでしょうか」
おそらく、臆病風に吹かれたと断じられる。
あるいは、敵と通じたのではないかと疑われ、別の指揮官に交代させられるだろう。
そして新たな軍が、再びあの村へ差し向けられる。
そうなれば、今度こそあの男は警告だけでは済ませないかもしれない。
「……確かに、信じる者はいないでしょう」
レオンは苦い顔で頷いた。
理屈では理解していても、まだ納得まではできていないのだろう。軍人として正しい報告を上げるべきだという思いと、目の前で見た現実との間で揺れているのが分かった。
「後方には、こう伝えてください」
私は周囲の将校たちにも聞こえるよう、はっきりと告げた。
「村の制圧には成功。現在は拠点化に向けた準備を進めている。補給路が整うまで、後続部隊は現地で待機せよ──と」
レオンの目が大きく見開かれる。
「それは……虚偽の報告を送る、ということですか?」
「そうです」
迷いはなかった。
「時間を稼ぎます。冬が来れば、スレート山脈は雪に閉ざされる。大軍を動かすことはできなくなり、この年の侵攻は断念せざるを得ません」
あとわずかで雪が降る。
補給の遅れや街道の整備を理由に足止めを続ければ、今季の作戦そのものを潰すことができる。
翌年になれば、情勢も変わっているかもしれない。 何より、あの男も村を去っているはずだ。
少なくとも、すぐにこの場で数万の兵を失うよりは、はるかにましだった。
「ですが……発覚すれば、軍令違反どころではありません」
レオンの声が震える。
「我々は虚偽の戦果を報告し、侵攻を妨害したことになります。反逆の疑いすら……」
「その責任は、すべて私が負います」
静かに言い切ると、レオンは息を呑んだ。
「この部隊を退かせたのは、私の判断です。報告の内容を決めたのも、後続を足止めしたのも私。あなた方は総隊長の命令に従った。それでよいのです」
「そのような……!」
「レオン」
名を呼ぶと、若い副官は言葉を止めた。
「軍人の務めは、命令どおりに兵を進めることだけではありません。預かった兵を生かし、国に暮らす者たちを守ることもまた、我々の務めです」
私は遠ざかっていく男の背を見つめた。
あの男が本気で王国と敵対すれば、どれほどの犠牲が生まれるのか。
二千や三万という数では済まないだろう。
その先に待つものを、私は想像したくなかった。
「数万の兵と、その背後に暮らす数十万の民。その命を守ることができるのならば、戦犯一人の首など安いものです」
それは強がりではなく、紛れもない本心だった。
名誉を失おうと、臆病者と罵られようと構わない。
将として最も恥ずべきことは、敗北することではない。勝てぬと知りながら己の面目に固執し、預かった命を無駄にすることだ。
レオンはしばらく何も言わなかった。
拳を握りしめ、何かに耐えるように俯いている。やがて覚悟を決めたのか、ゆっくりと姿勢を正した。
「……承知いたしました」
そして、深く頭を下げる。
それは上官の命令を受けるだけの礼ではなかった。
私の決断も、その先に待つ責任も、すべて理解したうえでの敬礼なのだろう。
「直ちに各隊へ撤退を伝えます。後方への報告も、総隊長のご指示どおりに」
「頼みます」
「はっ!」
踵を返して走り出したレオンの背を見送りながら、私はもう一度、村の方角へ目を向けた。
この判断が正しかったのか、それを決めるのは、きっと後世の者たちなのだろう。
私は敗北を恐れ、職務を放棄した臆病者として記録されるかもしれない。敵を前に軍を退かせ、虚偽の報告によって作戦を妨害した戦犯として、名を残すことになるかもしれない。
それでも構わなかった。
私は確かに見たのだ。
あの男と戦えば、王国が何を失うことになるのかを。……いや、おそらく。王国そのものが跡形もなく消え去るだろう。
ならば、誇り高き“白獅子”がたった一人の旅人を恐れ、尻尾を巻いて逃げたと笑われようとも、喜んでその汚名を背負おう。
勝てぬ戦から兵を退かせ、次に残すべき命を守る。
剣を振るわず、敗北を受け入れることによってしか得られぬ勝利もある。
少なくとも、あの日の私は──そう信じていた。




