第27話 あの方らしいですね
そこまで語り終えると、ルスは長い記憶を胸の奥へしまうように、静かに息を吐いた。
「……これが、私とジーク様の出会いです」
その声音はどこか晴れやかだった。
王国軍を率いる総隊長としての決断も、自ら敗北を受け入れた日のことも、今となっては後悔ではなく、大切な記憶として彼の中に残っているのだろう。
フィオナはしばらく何も言えず、膝の上で組んだ手を見つめていた。
「は、話があまりにも壮大すぎて……私には、なんと言ったらいいのか」
やがて困ったように笑い、頬を掻く。
たった一人の旅人が、数万の軍勢を退けた。
その旅人と剣を交え、王国の未来を守るため、自ら敗将となる道を選んだ男がいる。
まるで古い伝説か、吟遊詩人が語る英雄譚のような話だった。それが目の前で手綱を握るルスと、あの屋敷で気ままに眠っているジークの過去だというのだから、すぐに飲み込めないのも無理はない。
けれど、まだ気になることがあった。
「その後は……どうなったのですか?」
フィオナはおそるおそる尋ねる。
「王国軍は、本当に引き返したのでしょうか。それに、ルスさんとジーク様は、どうやって再会されたのですか?」
「ええ。軍の方は、私の思惑どおりに動きました」
ルスは前方へ目を向けたまま、再びゆっくりと語り始めた。
「現地から上がる報告と、後方が把握している状況に食い違いが生じたことで、指揮系統は大きく混乱しました。いつまで待つのか、補給はどうした、前線は本当に村を落としたんだろうな──そうして責任を押しつけ合っている間に冬が訪れ、スレート山脈は雪に閉ざされたのです」
険しい山道を数万の軍勢で越えることは、もはや不可能だった。
王国はその年の侵攻を諦め、戦は事実上の凍結へと追い込まれた。
「では、ルスさんの作戦は成功したのですね」
「えぇ。そして、その直後に──“精霊災害”が起こりました」
その名を聞き、フィオナの表情が自然と引き締まる。
空と大地を荒れ狂う大精霊が襲い、隣り合う王国と帝国を等しく恐怖に陥れた大災厄。
国そのものの存続が危ぶまれ、王国と帝国の戦争さえ、続ける意味を失った。
「災害への対応で軍も王都も混乱しておりましたから、私の件も長くは調べられませんでした。むしろ、分かりやすい責任者を一人立て、早々に決着させる必要があったのでしょうな」
ルスは淡々とした口調で続けた。
「敵の偽情報に踊らされ、数万の兵を無意味に足止めした戦犯。それが、私に与えられた評価でした」
「そんな……」
「軍令に背き、虚偽の報告を行ったこと自体は事実です。弁明するつもりもありませんでした」
ルスは穏やかに笑った。
「私の処刑が決まったのは、それから間もなくのことです」
「処刑……!」
フィオナは思わず息を呑んだ。
今こうして隣にいる人が、かつて処刑台へ送られようとしていた。その事実が、どうしても現実のものとは思えない。
「では、どうやって……」
「刑執行の直前、突如として処刑台の前にジーク様が現れたのです」
フィオナの目が大きく見開かれる。
「お、お一人でですか?」
「ええ。いつもと変わらぬ格好で、何の前触れもなく」
当時のジークは、すでに精霊災害から王国を救った英雄として知られていた。災厄の中心へ単身で赴き、暴走する精霊を鎮めた彼に対して、王国は莫大な褒賞金と、王都近郊の広大な領地を与えると約束していたという。
「王国としては、何としてもジーク様を自国へつなぎ止めたかったのでしょう。爵位も、財宝も、兵も、望むものは何でも与えると、国王陛下自ら仰ったそうです」
ルスはそこで小さく肩をすくめた。
「しかし、あの方が、そのようなものを素直に受け取るはずもなく」
少しだけ声を低くし、当時のジークを真似るように言う。
「『そんなものは要らん。その男を寄越せ。あと、辺境に小さな土地を』──と」
一瞬の沈黙のあと、フィオナは堪えきれず吹き出した。
「何だか、分かる気がします」
目に浮かぶようだった。
国王を前にしても少しも態度を変えず、面倒そうな顔で褒賞を断り、自分の欲しいものだけをぶっきらぼうに告げる姿が。
「もちろん、国王陛下が拒まれた場合に備えて、ジーク様なりの説得もなさいました」
「説得、ですか?」
「『断るなら王都ごと消す』と」
「……ふふ、本当に、あの方らしいですね」
「私もそう思います」
ルスは真顔で頷いたが、その目元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
フィオナもまた、くすくすと笑う。
常識など通じず、することはいつも滅茶苦茶で、ときには周囲を振り回す。
けれど、誰かを助けると決めたときだけは、決して迷わない。
かつて一杯の酒のために軍勢を退け、一度剣を交えただけの男を救うため、国王すら脅した。
理屈だけを聞けば無茶苦茶で、まさに魔王と呼ばれるのに相応しい。
なのに、それが不思議なほどジークらしく思えた。
笑いながら顔を上げたフィオナの視界に、丘の上の屋敷が映った。
夕陽を受けた屋根と、なだらかに広がる葡萄畑。
朝に出発したばかりだというのに、見慣れた景色を目にすると、ずいぶん久しぶりに帰ってきたような安堵を覚えた。
けれど、馬車が近づくにつれ……フィオナは何かがおかしいことに気づいた。
「……あれ?」
葡萄畑の一角から、薄い土煙が立ち上っている。
目を凝らしてみれば、地面は巨大な爪で引っ掻かれたように抉れ、何本もの葡萄の木が根元から倒れていた。周囲の土には黒い焦げ跡まで残り、とても自然に起きた出来事とは思えない。
「な、何かあったのでしょうか……?」
不安げに眉を寄せた、その直後だった。
「──ですから! 何をどうしたら、こんなことになるんですかっ!」
屋敷の方から、聞き慣れた怒声が飛んでくる。
葡萄畑の端では、ロッテが腰に手を当て、全身を泥だらけにした二人を叱りつけていた。
一人はジーク。
もう一人は、ミオだった。
「……精霊魔法の練習をしていただけだ」
ジークは頬についた泥を拭いながら、珍しく歯切れの悪い声で答える。
「俺は悪くない。こいつのせいだ」
「ジークさま、ひどい! ミオ、言われたとおりにしたもん!」
「してないだろうが。誰が地脈に直接魔力を叩き込めと言った?」
「ジークさまが、『もっといっぱい入れろ』って言った!」
「限度ってものがあるだろ、ヘタクソ!」
「ヘタクソって言わないで!」
「──ジーク様!」
ロッテの声が、さらに一段高くなる。
「ミオちゃんに責任を押しつけないでください! 教えた方の責任です!」
「だから、俺はちゃんと──」
「言い訳は結構です!」
ぴしゃりと言い切られ、ジークは不満そうに口を閉ざした。
隣ではミオが勝ち誇ったように胸を張っていたが、すぐさまロッテの視線が向けられる。
「ミオちゃんもです。ジーク様に張り合って、無茶な事しないの」
「……はぁい」
今度は二人そろって肩を落とした。
ルスは少し離れた場所で馬車を止めると、深いため息を吐いた。
「やれやれ。たった半日留守にしただけで、いろいろあったようですな」
そう言ってから、ふと思い出したようにフィオナへ視線を向ける。
「先ほどの話は、どうかご内密に」
「え?」
「ジーク様は、ご自分の過去を語られるのがお好きではありません。特に、英雄として持ち上げられることを嫌っておられますので」
フィオナは屋敷の前へ目を向けた。
ミオと無言で睨み合っているジーク。その横顔はまるで悪戯を叱られた子供だ。
「……はい。誰にも話しません」
フィオナがしっかりと頷くと、ルスも満足そうに微笑んだ。
それから御者席を降り、服の裾を整える。
「──さて」
ルスが屋敷へ向かって歩き出す。
「これは一体、何事ですかな?」
穏やかな声だった。
それなのに、ジークとミオの肩が、まったく同じタイミングでびくりと跳ねた。
二人は恐る恐る振り返り、揃って気まずそうな顔をする。
「……ルス。帰ってたのか」
「おかえり……」
「ただいま戻りました。詳しいお話は、中でじっくり伺うといたしましょう」
にこやかに告げられ、ジークとミオの顔が揃って引きつった。
その様子を見て、フィオナは思わず笑みをこぼした。
数万の軍を退け、国の命運すら左右する力を持った人が、今は小さな女の子と一緒になって叱られている。
あまりにも不思議で、少しだけおかしくて。
けれど、何よりも温かい光景だった。
(この方が、本当に世界を変えてしまうような人だなんて……)
今でも、すぐには信じられない。
けれど、胸の中に広がっていたのは、恐れでも、畏敬でもなかった。
ジークも、ルスも、ロッテも、ミオも。
誰もが途方もない過去や力を抱えながら、こうして同じ屋根の下で笑い、怒り、肩を並べて暮らしている。
そして今は、フィオナもその日々の中にいる。
夕暮れの光に包まれた屋敷を眺めながら、フィオナは改めて思う。
ここで過ごす一日一日が、どれほどかけがえのないものなのかを。
春の風が、葡萄畑を吹き抜けていく。
抉れた地面のそばで、ジークとミオの言い訳がまた始まり、すぐにロッテの叱る声が重なった。
今日も屋敷には、いつもどおりの賑やかな時間が流れていた。




