第28話 酒精祭を祝して
初夏の風が、淡く色づき始めた麦の穂を撫でていく。
朝露をまとった葡萄の若葉は、昇ったばかりの陽を受けて宝石のように輝き、薄暗い蔵の奥では、昨年仕込まれた酒が静かにそのときを待っていた。
この季節、小さな町は一年で最も賑わう日を迎える。
年に一度の祝祭──“酒精祭”。
長い熟成を終えた酒。その最初の一樽を開き、神と人とで出来栄えを祝う、古くから伝わる祭りである。
太陽と水。大地と風。そして、作物を育て、酒を仕込んだ人々の手。
そのすべてが結びつき、ようやく生まれる一滴を、この地の者たちは“奇跡”と呼んだ。
今年も無事に奇跡へ辿り着けたことに感謝し、次なる豊穣と平穏を願う。
それが、酒精祭の始まりだった。
朝早くから、町の通りには色鮮やかな布が渡され、軒を連ねた露店からは、食欲をそそる香りが漂っている。
甘く煮詰めた果実。炙った肉。窯から出されたばかりの香ばしいパン。
駆け回る子どもたちの笑い声に、早くも酒杯を傾ける大人たちの陽気な声が重なり、町全体が浮き立つような熱気に包まれていた。
この日ばかりは、畑仕事も、店の仕事も、工房の火も休みとなる。
誰もが杯の中へ一年分の苦労を沈め、今日という一日を心ゆくまで楽しむのだ。
そんな町の喧騒から離れた、山裾に立つ石造りの屋敷。
ジークの暮らすその場所でもまた、ささやかな祭りの準備が進められていた。
◇ ◇ ◇
「ジーク様。町へお届けする祝い酒ですが、昨年物を五樽。それと、五年物を一樽でよろしいでしょうか」
帳面を手にしたルスが、確認するように問いかける。
「……任せる」
長椅子に腰掛けたジークは、本から顔を上げることもなく答えた。
屋敷の前では、すでに荷車の用意が整っている。
フィオナはルスの指示を受けながら、慣れない手つきで酒樽の脇へ荷物を積み込んでいた。
本来ならば彼女と共に作業を担うロッテは、祭に合わせて自分の家へ帰っており、今日は屋敷を留守にしている。
「ジークさまも、いこ?」
弾むような声とともに、ミオがジークのシャツの裾を引いた。
「お祭り!」
「……行かないと言っただろう」
ジークは裾をつかんでいた小さな手を外し、何事もなかったかのように本へ視線を戻す。
「えーっ。どうして?」
ミオは諦めきれず、再び彼の顔を覗き込んだ。
「お店もいっぱいあるんだって! 踊るんだって! きっと楽しいよ!」
屋台も、踊りも、町中を飾る色鮮やかな布も、ミオにとっては何もかもが初めてだった。
けれど、本当に楽しみにしていたのは、祭りそのものではない。
ジークと一緒に行くこと。
それが、幼い彼女の一番の願いだった。
「ミオ」
荷物を抱えたフィオナが、困ったように声をかける。
「ジーク様はお忙しいの。あまりワガママを言っては駄目よ」
「……うん」
ミオは不満そうに唇を尖らせながらも、しぶしぶ手を離した。
小さな肩を落とし、フィオナのもとへ戻っていく。
その後ろ姿を、ジークは本の端からほんの一瞬だけ見つめていた。
「それでは、行ってまいります」
荷縄を結び終えたルスが、屋敷の玄関前で恭しく頭を下げる。
「留守をお願いいたします、ジーク様」
「ああ」
短い返事とともに、頁のめくられる音が響く。
それ以上、ジークが何かを口にすることはなかった。
◇ ◇ ◇
町へ近づくにつれ、風に乗って人々の声と音楽が聞こえてきた。
荷車の上からその光景を目にしたフィオナは、眩しそうに目を細める。
普段は穏やかな町並みが、今日はまるで別の場所のようだった。
建物の間には色とりどりの布が渡され、道の両側には所狭しと露店が並んでいる。
焼けた肉の匂い。甘い菓子の香り。
道行く人々は誰もが笑顔で、手には早くも酒の入った杯を持っていた。
「わぁ……!」
ミオが歓声を上げ、荷台から身を乗り出す。
「おっと。危ないですよ、ミオさん」
ルスが慌てることなく肩を支える。
「落ちたら、お祭りどころではなくなってしまいますからね」
「だいじょうぶだよ!」
そう言いながらも、ミオは素直に荷台の中央へ戻った。
けれど、視線だけは忙しなく左右へ動いている。見るものすべてが珍しいのだろう。
そんな妹の姿に、フィオナも自然と笑みをこぼした。
これほど無邪気にはしゃぐミオを見るのは、いつ以来だろう。
もしかすると、初めてかもしれない。
荷車が町の広場へ到着すると、待ち構えていたかのように人々が集まってきた。
「おお、ルスさん! 今年も来てくれたか!」
「フィオナちゃん、あら、また一段と綺麗になったんじゃない?」
「ミオちゃん! その服、よく似合ってるわよ!」
次々に飛んでくる声に、フィオナは戸惑いながら頭を下げる。
ミオは褒められたことが嬉しいのか、照れたようにフィオナの後ろへ隠れながらも、こっそり顔を覗かせていた。
「皆様、存分に楽しまれているようで何よりです」
ルスは穏やかに微笑み、集まった人々へ向けて片手を掲げる。
「──“酒精祭を祝して”」
その言葉に、人々が一斉に杯を掲げた。
「“酒精祭を祝して!”」
揃った声が広場を震わせ、空高く昇っていく。
「こちらが、今年の祝い酒です」
ルスが荷台へ手を向けると、人々の視線が一斉に酒樽へ集まった。
「おおっ! ジーク様のワインだ!」
「待ってました!」
「いやー、しかし。麦酒はともかく、葡萄酒造りには全く向かないこの土地で、これだけの酒を造っちまうんだからなあ」
「今じゃヴァルトのワインといえば王国一だ。やっぱりあの方は、酒神に愛されてるんだよ!」
ひときわ大きな歓声が上がる。
酒樽は屈強な男たちによって次々と荷車から降ろされ、広場の中央へ運ばれていった。
「さあ、祭りはこれからが本番だぞ!」
誰かが叫ぶと、再び歓声が爆ぜた。
その熱気に圧倒されながら辺りを見回していたフィオナへ、近くにいた恰幅のよい女性が声をかける。
「それで、ジーク様は今年も来られないのかい?」
「はい……。お誘いはしたのですが……」
フィオナが言いよどんだ、そのときだった。
「ジークさま、“おいそがしい”んだって!」
ミオが横から口を挟み、ぷくりと頬を膨らませる。
明らかに納得していない顔だった。
「こら、ミオ」
フィオナが慌ててたしなめると、周囲からどっと笑い声が上がる。
「そうかい、そうかい。そりゃあ残念だねえ」
「でも、ジーク様らしいといえば、らしいわな!」
陽射しと笑顔、そして濃密な酒の香りに満ちた広場。フィオナもつられるように笑いながら、楽しそうな人々を見渡した。
そのときだった。
(……?)
ふいに、胸の奥で妙な違和感を覚える。
誰かに見られている。
そう感じて、フィオナはゆっくりと視線を巡らせた。
広場の端。
人混みからわずかに離れた、建物の柱の陰に──ひとりの人物が立っていた。
頭から深くフードをかぶり、顔には仮面のようなものをつけている。
華やかな衣装に身を包み、酒杯を手に笑い合う人々の中で、その姿だけがあまりにも異質だった。
誰とも言葉を交わさず。
酒にも料理にも手を伸ばさず。
身じろぎひとつせず、ただ静かに佇んでいる。
そして、その顔は──こちらへ向けられていた。
「……」
フィオナの頬から、ゆっくりと笑みが消えていく。
風が吹き抜け、広場を彩る布を大きく揺らした。
音楽も、笑い声も、すぐそばで響いているはずなのに。
その一瞬だけ、すべてが遠ざかったように感じられた。
気のせいかもしれない。
祭りに馴染めず、離れた場所から眺めているだけの旅人なのかもしれない。
けれど──
仮面の奥から注がれる視線は静かにフィオナを見つめているようだった。




