第29話 年に一度の祭りですから
日が傾くにつれて、祭りの喧騒は衰えるどころか、ますます熱を帯びていった。
遠くから響く太鼓と笛の音が、茜色に染まり始めた空へ溶けていく。通りに飾られた赤や金の紙飾りは風を受けて軽やかに舞い、その下には焼き串や果実酒、香ばしいパンに燻製肉と、色とりどりの品を並べた屋台が所狭しと軒を連ねていた。
食欲を誘う香りと陽気な音楽に包まれ、行き交う人々の顔には誰ともなく笑みが浮かんでいる。
フィオナとミオも広場の中をゆっくりと歩きながら、目に映る賑やかな光景をひとつひとつ楽しんでいた。
「わあ……」
ミオが感嘆の息をこぼし、落ち着きなく周囲を見回す。
「すごい人……。ねえ、お姉ちゃん、あれ見て! ひよこのお菓子!」
屋台の一角に並んだ、黄色い鳥を模した焼き菓子を見つけたらしい。ミオはフィオナの手を引きながら、目を輝かせて屋台を指差した。
「あれ、買ってもいい?」
「はいはい、ちょっと落ち着いて」
今にも駆け出しそうになる妹の手を握り直し、フィオナは困ったように笑う。
「勝手に決めちゃ駄目よ。ちゃんとルスさんに聞いてからね」
「うん!」
返事だけは素直だったものの、その視線はすでに次の屋台へ移っている。
そんな姉妹のやり取りを、少し後ろから歩くルスが穏やかな表情で見守っていた。
(まったく……あの子たちが来てから、まるで屋敷に春が訪れたようだ)
以前の屋敷も、決して居心地の悪い場所ではなかった。
しかし、静かすぎたのだ。
物音といえば、本の頁をめくる音や暖炉で薪が爆ぜる音くらいのもの。必要以上に言葉を交わすこともなく、穏やかではあっても、どこか時間まで止まっているような場所だった。
それが今では、ミオの笑い声が響き、フィオナがその後を追いかけ、時にはジークの不機嫌そうな声まで聞こえてくる。
随分と賑やかになった。
そう思う自分の口元が自然と緩んでいることに、ルス自身は気づいていなかった。
そのとき、広場で遊んでいた町の子どもたちがミオの姿に気づき、元気よく駆け寄ってきた。
「あっ、ミオちゃんだ!」
「一緒に遊ぼうよ!」
「こっち、こっち! 棒倒しの屋台があるんだよ!」
矢継ぎ早に誘われたミオは、どうしてよいのか迷ったように、一度だけフィオナを見上げた。
フィオナが微笑みながら小さく頷くと、ミオの顔がぱっと明るくなる。
「いってきます!」
「遠くへ行っちゃ駄目よ。私たちの見えるところにいてね」
「うん!」
今度こそ元気よく答え、ミオは子どもたちの輪へ飛び込んでいった。
「こうやって持つんだよ」
「それで、合図がしたら一緒に引っ張るの!」
「え、えと……こう?」
周囲の子どもたちに教えられながら、ミオはぎこちない手つきで遊び方を真似する。
どうやら細い棒を紐で引き合い、中央に積まれた木片を倒さないように抜いていく遊びらしい。
恐る恐る紐を引くミオの動きに、見守っていた子どもたちから歓声が上がった。
「できた!」
「ミオちゃん、上手!」
拍手を受け、ミオは照れくさそうに笑っている。
フィオナとルスはその姿を見守りながら、祭りの喧騒から少し離れた場所に置かれていた長机の端へ腰を下ろした。
二人の姿に気づいた町人たちは、待っていましたとばかりに料理や酒を運んでくる。
「ほら、これも食べてって!わ
「今年の燻製はよくできてるぞ!」
「フィオナちゃんには、こっちの果実水がいいかね」
「あ、ありがとうございます。でもこんなに沢山……」
フィオナが遠慮する間にも、皿や杯は次々と並べられ、広かったはずの机の上はあっという間に隙間がなくなってしまった。
ルスはその様子を楽しそうに眺めながら、近くに座っていた商人や町の旦那衆に交じり、差し出された杯を傾ける。
「いやあ、今年のワインも絶品ですな、ルスさん」
丸々とした腹を揺らしながら、商人の一人が満足そうに舌鼓を打つ。
「これなら、また王都から買い付けが殺到するでしょう」
「それはそれは。光栄の至りです」
ルスは涼しい顔で答えながら、上品に杯を口へ運んだ。
「ジーク様のワインがある限り、この町は安泰ですよ」
向かいに座る別の男が、深く頷く。
「これほど質のよいワインを、あの値段で卸してくださるんだから。おかげで町は活気に溢れています。まったく、ジーク様には足を向けて眠れません」
「違いない!」
男たちは仕事柄仕入れた情報を交わしながら、互いの一年の労をねぎらい、これからの商売と町の繁栄を願って杯を重ねていく。
その会話を横で聞きながら、フィオナは手元の果実水へそっと視線を落とした。
ジークは町へ顔を出すこともなく、こうして称賛されていることにも、きっと関心を示さないだろう。
それでも、彼の作った酒によって町が潤い、多くの人々が笑顔になっている。
そう思うと、なぜだか自分のことのように嬉しくなった。胸の奥に、温かな誇らしさが静かに広がっていく。
──そのときだった。
「いたいた!」
明るく弾んだ声が聞こえ、数人の若い女性たちがフィオナのもとへ歩み寄ってきた。
「フィオナさんも、踊りに行こうよ!」
「えっ」
突然誘われ、フィオナはきょとんと目を瞬かせる。
「わ、私……ですか?」
「そうそう!」
「若い子は、みんなあっちに集まってるよ。せっかくのお祭りなんだから、座ってるだけじゃもったいないって!」
女性たちが示した方角へ目を向けると、広場の中央には大きなかがり火が焚かれ、その周囲で若者たちが輪になって踊っていた。
軽快な笛の音に合わせ、手を取り合って足を運ぶ。揺れる衣装の裾と楽しげな笑い声が入り交じり、火の粉が舞うたびに、輪の中の人々の表情が鮮やかに照らし出された。
慣れた様子で相手の手を取り、軽やかに導く青年。
足取りを間違え、恥ずかしそうに笑う少女。
最初は離れていたはずの二人が、踊りを重ねるうち、少しずつ互いの距離を縮めていく姿も見える。
まるで音楽と足取りが、言葉よりも雄弁に心を結びつけているかのようだった。
夕闇の中で燃えるかがり火が、重なり合う人影を大きく揺らしている。
祭りとは、一年の実りを祝うだけではない。若者たちにとっては、新たな誰かと出会い、互いを知るための場でもあるのだろう。
「フィオナちゃんなら、絶対に大人気だよ!」
「そうそう。実際、フィオナちゃんと踊りたいって男の子、結構いるのよ?」
「え……?」
驚いて女性たちの視線を追うと、少し離れた場所に立つ数人の青年が、こちらの様子をちらちらと窺っていた。
しかし、フィオナと目が合った瞬間、揃って気まずそうに視線を逸らしてしまう。
「ほらね?」
「い、いえ、きっと別の方を見ていただけで……」
フィオナが戸惑いながら否定すると、女性たちは顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
「でもまあ、フィオナさんにはジーク様がおいでるものねえ」
その一言で、フィオナの顔が一気に熱を帯びた。
「そ、そんなことはありません!」
思わず声が上ずる。
「私はただ、ジーク様にお仕えしているだけで……」
「でも、ジーク様って、そういう身分の違いとか気にしなさそうじゃない?」
「確かに。貴族だからどうとか、使用人だからどうとか、そもそも興味がなさそう」
「というか、恋愛そのものに無頓着そうよねえ」
「そこが逆に魅力的なんだけどね」
女性たちは、どこか楽しげにジークについて語り始める。
無愛想だけれど、きっと本当は優しい。
何を考えているのか分からないけれど、町のことは陰で支えてくれている。
もう少し笑えば、もっと素敵なのに。
そんな言葉を聞くうちに、フィオナはますます居たたまれなくなった。
それでも、不思議と嫌な気分ではない。
ジークのことを誰かと話すことも、彼の意外な一面を自分だけが知っているように感じることも、どこか心地よかった。
胸の奥をくすぐるような、落ち着かない感情。
その正体をうまく言葉にできないまま、フィオナは赤くなった頬を隠すように俯いた。
「フィオナさん」
不意に、隣からルスの声がかかる。
顔を上げると、酒瓶を手にしたルスが、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「踊ってきてはいかがです?」
「……え?」
「我々のような年寄りの相手ばかりでは、つまらないでしょう」
「ルスさんは、年寄りというほどでは……」
フィオナが思わず返すと、周囲の旦那衆から笑い声が上がった。
「ははは! フィオナちゃん、すっかり口も達者になったな」
「ルスさん、よかったですなあ!」
「えぇ、私もまだまだ萎れている場合ではありませんね。──それはともかく」
軽く咳払いをして、ルスは話を戻す。
「今日は年に一度の祭りですから。踊りのひとつくらい楽しまなければ、損というものですよ」
「そうそう、ルスさんもこう言ってるんだから!」
「ほら、行こう行こう!」
女性たちがフィオナの腕を取ろうと手を伸ばす。
町の旦那衆は少しばかり名残惜しそうな顔をしていたが、ルスは静かに杯を掲げ、彼女の背中を押すように微笑んだ。
「ミオさんはこちらで見ています。心配はいりませんよ」
広場へ目を向ければ、ミオは今も子どもたちと楽しそうに遊んでいる。
フィオナはしばらく迷った末に、小さく息を吸い、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
「……分かりました。少しだけ」
「そうこなくっちゃ!」
立ち上がったフィオナを、女性たちが嬉しそうに取り囲む。
そのまま笑い声に包まれながら、彼女は広場の中央で揺れる人々の輪へ歩き出した。
ちょうどそのとき、ひときわ大きく太鼓が鳴り響く。
笛の音が軽やかに重なり、かがり火から上がった火の粉が、星のように夜空へ舞い上がった。
祭りの夜は、これからが本番だと言わんばかりに、いっそう鮮やかな熱気を帯びていった。




