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第30話 たまにはこんな夜も良いかも

 かがり火の炎が夜空を赤く染める中、広場では若者たちが大きな円を作り、軽快な音楽に合わせて踊っていた。


 フィオナも、その輪の中に混ざる。


 両隣の女性たちの動きを見よう見まねで追いながら、両手を振り、音に合わせて足を踏み出す。初めのうちは次の動きを考えるだけで精いっぱいだったものの、何度か同じ振りを繰り返すうちに、ぎこちなかった身体も少しずつ音楽に馴染んでいった。


「フィオナちゃん、次は反対!」


「えっ、こ、こっち?」


「そうそう! 上手、上手!」


 慌てて向きを変えると、周囲から楽しげな笑い声が上がる。


 手を取り合うぬくもり。頬を撫でる夜風と、かがり火から届く熱。踊り続けた身体に滲む汗さえ、今は心地よく感じられた。


(楽しい……)


 気づけば、フィオナの口元にも自然な笑みが浮かんでいた。


(まさか私が、こんなふうに笑って踊れる日が来るなんて)


 焼けつくような夏の日も、凍えるほど冷たい冬の夜も、かつての彼女に許されていたのは、ただ命じられるままに働くことだけだった。


 自分が何をしたいのかなど、考える意味すらない。


 楽しそうな音楽も、人々の笑い声も、いつだって壁の向こうから聞こえてくるだけのものだった。


 けれど今は、その輪の中に自分がいる。自分の意思で手を取り、笑い、踊っている。

 遠い昔のこととは呼べないはずの記憶が、今夜だけは遥か彼方へ霞んでいくようだった。


「フィオナさん! 次は俺と!」


 ひと区切りついたところで、町の青年が勢いよく手を差し出してきた。


「いや、俺が先に声をかけようとしてたんだ!」


「一曲だけでいいので、お願いできませんか!」


「おいおい、ちゃんと順番を守れって!」


 気づけば、フィオナの前には何人もの若い男たちが集まっていた。


 町で働いているらしい青年に、旅の商人を思わせる身なりの男。中には警備隊の制服を着た者までおり、誰もが期待に満ちた目を向けている。


「あ、あの……」


 思いがけない状況に戸惑いながら、フィオナは困ったように笑った。


「すみません。私、まだ慣れていなくて……」


「大丈夫です! 俺が教えますから!」


「いや、俺の方が踊りは得意だ!」


「それなら勝負するか?」


「おっ、何だ? 飲み比べか!? 受けて立つぞ!」


 断ったはずなのに、誘いの列は途切れるどころか、なぜかますます賑やかになっていく。


 どうしたものかとフィオナが視線をさまよわせていると、少し離れたところから声が飛んできた。


「こりゃあ、放っておいたら朝まで終わらないねえ」


 先ほどまで一緒に踊っていた女性たちが、面白そうに笑いながら駆け寄ってくる。


「フィオナちゃん、ちょっと抜けよう!」


「え?」


「あたしたちの行きつけのお店があるんだ。祭りの日にしか集まれない仲間も来てるから、フィオナちゃんも紹介させてよ」


「でも、ルスさんにひと言お伝えしてからでないと……」


「ちょっとだけだって。すぐに戻ってくるから!」


「広場のすぐ近くだし、大丈夫、大丈夫!」


 そう言うなり、女性たちは左右からフィオナの手を取った。


「あっ、ちょ、ちょっと……!」


 ルスの姿を探す暇もないまま、フィオナは明るい笑い声に囲まれ、若者たちの輪から連れ出されてしまった。


 ◇ ◇ ◇


 賑やかな目抜き通りを外れ、細い石畳の道へ入る。


 軒を連ねていた露店は次第に少なくなり、家々の窓からこぼれる灯りもまばらになっていった。背後からは今も祭りの音が聞こえているものの、太鼓や笛の音色は一歩進むごとに遠ざかっていく。


 先ほどまでの熱気が嘘のように薄れていく中、フィオナの胸に、ほんのわずかな不安が芽生えた。


「フィオナちゃん、こっちだよ!」


 少し先を歩いていた女性が振り返り、手招きする。


「あの……本当に、この先なんですか?」


「そうそう。もうすぐそこだから!」


「ほら、早く早く!」


 楽しそうに先を急ぐ彼女たちを見ていると、悪意があるようには思えない。


 それでもフィオナは、ルスへ声をかけないまま広場を離れてしまったことを、少しだけ後悔していた。


(ミオもいるのに……。戻ったら、きちんと謝らないと)


 そんなことを考えながら進んでいくと、路地の先に小さな看板を掲げた店が見えてきた。


 外壁はくすんだ石造りで、表通りの店に比べればひどく地味な佇まいをしている。曇った窓からは橙色の光が漏れ、扉の向こうからは絶え間なく笑い声が響いていた。


「ここだよ!」


 店の前で足を止めた女性が、得意げに看板を指差す。


 中から聞こえてくるのは、フィオナとそう年の変わらない若者たちの声だった。


 気兼ねのない笑い声に、机を叩く音。誰かが歌を口ずさめば、別の誰かが囃し立てている。


 楽しそうな場所のはずなのに、フィオナの胸はわずかに強張った。


 遠くから聞こえてくる宴の声。


 酒に酔った笑い声。


 それはかつて、自分が廊下の隅や厨房の奥で耳にしていた、“ご主人様”たちの宴を思い出させた。


 華やかで、楽しげで。


 けれど、自分には決して関係のない世界。


(……私なんかが入っても、いい場所なのかな)


 一歩を踏み出せずにいるフィオナをよそに、女性の一人が勢いよく扉を開いた。


「ただいまー!」


「いらっしゃい!」


 間髪入れず、店の奥から威勢のよい声が返ってくる。


 カウンターの向こうに立っていたのは、ふくよかな体つきの中年女性だった。片手で大きな鍋をかき回しながら、店へ入ってきた一行へ満面の笑みを向けている。


「ロゼさーん! ジーク様のところのメイドさん、連れてきたよ!」


「おおっ、あんたがフィオナちゃんかい!」


 ロゼと呼ばれた女性は、お玉を握ったまま身を乗り出し、フィオナの顔をまじまじと見つめた。


「こりゃまた、噂に違わぬ美人さんだねえ!」


「え……?」


 フィオナが目を瞬かせる。


 すると、店内の長机を囲んでいた若者たちも一斉にこちらを振り返り、次の瞬間には大きな歓声が上がった。


「本物だ! 本当に連れてきた!」


「すげえ……思ってたよりずっと可愛い……」


「おい、本人の前で言うなよ!」


「うちの妹なんて、フィオナちゃんの髪型を真似してるんだぜ」


「ちょっと、お兄ちゃん! それ言わないでよ、恥ずかしい!」


 突然集まった視線に圧倒され、フィオナは思わず一歩後ずさった。


「えっ……わ、私ですか? どうして……」


「何言ってるの!」


 フィオナを連れてきた女性が、背後から楽しそうに笑う。


「今じゃ、“ジーク様のお屋敷に現れた謎の美人メイド”って、町中の噂なんだから。うちの弟なんて、フィオナちゃんがお祭に来るって聞いて、朝からずっと落ち着かなかったのよ」


「姉ちゃん! 余計なこと言うなって!」


 奥の席から抗議の声が上がり、店内がまた笑いに包まれる。


「はいはい、みんな、その辺にしておきな」


 ロゼが呆れたように笑いながら、お玉で鍋の縁を軽く叩いた。


「フィオナちゃんが困ってるだろう? まったく、若い連中は遠慮ってものを知らないんだから」


 そうして改めてフィオナへ向き直ると、彼女は包み込むような笑みを浮かべた。


「ようこそ、“ロゼの台所”へ。狭い店だけど、遠慮なんてしなくていいからね」


 明るい声と笑い声。


 鍋から立ち上る湯気に、焼いた肉や香草の香ばしい匂い。


 店の中は酒場というよりも、大勢の家族が暮らす食堂のような温かさに満ちていた。


「さあ、入った入った!」


 ロゼに促され、フィオナはおずおずと店の奥へ進む。


 若者たちが詰めて場所を空けてくれたため、そのまま長いテーブルの一角へ腰を下ろすことになった。


 周囲にいるのは、皆フィオナとそれほど年の変わらない者たちだ。


 仕立屋で働いているのか、腰に針入れを下げた青年。畑の土が残ったエプロン姿の少女。警備隊の制服をラフに着崩し、先輩らしい男から叱られている若者もいる。


 服装も仕事もばらばらなのに、彼らの間には不思議なほど遠慮がなかった。


 料理を勝手に取り分け、他人の皿へ放り込み、冗談を言い合って笑う。その様子は、長い時間を共に過ごしてきた兄弟のようにも見える。


「ねえ、フィオナちゃん」


 隣に座った少女が、店内を見渡しながら穏やかに笑った。


「ここにいるみんな、実はロゼさんに育ててもらったんだよ」


「ロゼさんに……?」


 フィオナが聞き返すと、向かい側にいた青年が、少し照れくさそうに頭を掻いた。


「昔、この辺りに孤児が多かった時期があってさ。戦や病気で親を亡くしたやつもいれば、食い扶持がなくて捨てられたやつもいた」


「俺たちも、ろくに食べるものがなかったんだ。仕事を探そうにも、子どもじゃ雇ってもらえないしな」


 別の青年がそう続け、店の奥に置かれた大きな鉄鍋へ懐かしそうな視線を向けた。


「でも、ロゼさんが毎日炊き出しをしてくれたんだ。店の前にあの鍋を出してさ。腹が減ってるなら、誰でも食べていきなって」


「あの頃は、この店も今よりずっと小さかったんだけどね」


 隣の少女が、くすりと笑う。


「それでも、みんな毎日のようにここへ集まってた。お腹がいっぱいになったら、皿を洗ったり、掃除したり。いつの間にか、ここが帰る場所みたいになってたんだよ」


「今じゃ、それぞれ別の仕事をしてるけどな」


「祭りの日だけは、なるべく全員ここへ戻ってくることにしてるんだ」


 青年は照れ隠しのように笑い、隣に座る仲間の肩を軽く叩いた。


「ロゼさんが母親で、俺たちが兄弟。まあ、そんな感じだな」


「ふふっ。みんな勝手に、“ロゼさんの子”なんて名乗ってるの」


「あたしに育てられたにしゃ、どこの子も礼儀がなってないけどねぇ」


 聞き耳を立てていたロゼが、カウンターの向こうから大きな声を上げる。


「ほら、口の悪さはロゼさん譲りだろ?」


「うるさいよ! そんな口を利く子は、肉を減らすからね!」


「うそうそ! 今の無しだってば!」


 冗談交じりのやり取りに笑いが弾け、店の空気がさらに温かくなる。


 その光景を眺めていたフィオナは、胸の奥にじんわりとした温かさが広がっていくのを感じた。


 血のつながりがなくても、互いに寄り添い、家族のように生きていくことはできる。


 行く場所のなかった子どもたちへ食事を与え、居場所を作り、成長した今も迎え入れてくれるロゼ。


 彼らにとってロゼは、ただ空腹を満たしてくれた人ではないのだろう。何も持たなかった自分たちを受け入れ、帰る場所を与えてくれた、かけがえのない恩人なのだ。


(皆にとってのロゼさんは、きっと……私にとってのジーク様のような人なんだ)


 凍える森の中で倒れていた自分たちを拾い、何も求めず屋敷へ置いてくれた人。


 住む場所も、温かな食事も、穏やかに眠れる夜も与えてくれた。


 フィオナにとっても、あの屋敷はすでに、ただ仕えるための場所ではなくなりつつあった。


「さあ、お待ちかね! 自慢の祭り料理だよ!」


 ロゼの大きな声とともに、湯気を立てる皿が次々とテーブルへ運ばれてくる。


「フィオナちゃんも、たっぷり食べておくれ!」


「わあ……」


 並べられたのは、どれも華やかではないものの、手間をかけて丁寧に作られた料理ばかりだった。


 白身魚を香草と一緒に包んで蒸し焼きにしたもの。酸味のある葡萄の葉で米や挽肉を巻いた料理。根菜と肉を柔らかくなるまで煮込んだ、香り豊かな葡萄酒煮。


 一口食べると、素朴で優しい味わいが広がった。


(おいしい……)


 派手さはないけれど、食べる者を思って作られたことが伝わってくる。


 料理の腕前だけなら、屋敷の厨房を預かるロッテにも負けていないかもしれない。


「遠慮はいらないよ。おかわりなら、いくらでもあるからね!」


 ロゼが大きな椀へスープをよそい、フィオナの前へ置いてくれる。


「ありがとうございます」


 フィオナは丁寧に頭を下げ、差し出された椀を両手で受け取った。


 温かな湯気が頬に触れる。


 顔を上げると、周囲の若者たちはすでに慣れた様子で料理を取り合い、笑い声を響かせていた。


 その輪の中に自分が座っていることが、少し前まで感じていた不安が嘘のように、今は不思議と心地よい。


 屋敷でジークやミオたちと囲む、穏やかな食卓も大好きだ。


 けれど──


(……たまには、こんな夜もいいかもしれない)


 そう思いながら、フィオナはテーブルを囲む皆へ、自然な笑顔を向けた。

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