第31話 酒神様も飲み過ぎちゃってるかもな
ロゼの店を満たす空気は、まるで暖かな暖炉の火のようだった。
絶え間なく続く笑い声と、料理から立ち上る湯気。焼きたてのパンや香草、葡萄酒の芳醇な香りが入り交じり、フィオナの心に残っていたわずかな緊張まで、じんわりと溶かしていく。
「ほらほら、フィオナちゃん。こっちも食べてみて!」
向かい側から差し出された籠には、焼きたてらしい小ぶりなパンが山のように盛られていた。
「葡萄を練り込んだパンだよ。今朝からロゼさんが焼いてくれたんだから!」
「えっ、これもロゼさんがお一人で……?」
フィオナは驚きながら一つを受け取る。
これだけ大勢のために、あれほどの料理を用意するだけでも大変だったはずだ。それに加えてパンまで焼いていたというのだから、感心を通り越して驚いてしまう。
まだ温かさの残るパンを一口頬張ると、柔らかな生地の中から葡萄の甘みとほのかな酸味が広がった。
「おいしい……!」
「でしょう?」
隣に座っていた少女が、なぜか自分のことのように胸を張った。
彼女は、フィオナをこの店まで連れてきた女性たちの一人だった。栗色の髪を長い三つ編みにまとめた、表情のよく変わる快活な少女である。
「ロゼさんの料理って、ただお腹いっぱいになるだけじゃないんだよね。食べてると、なんか心の中までほぐれてくるっていうか」
「分かる気がします」
フィオナが頷くと、少女は嬉しそうに笑った。
「あ、そういえば、まだちゃんと名乗ってなかったね。あたし、クレア。町の仕立屋で働いてるの」
「フィオナです。今日は誘ってくださって、ありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくてもいいって。年もそんなに変わらないでしょ?」
「でも……」
「クレアでいいよ。あたしもフィオナちゃんって呼ぶからさ」
あっけらかんと言われ、フィオナは少し迷ってから頷いた。
「……分かりました。では、クレアさんと」
「まだちょっと硬いけど、まあいっか!」
クレアは声を立てて笑う。
無理に距離を詰めようとはせず、フィオナが困らないように話題を振ってくれる。その明るさの裏にあるさりげない気遣いが伝わり、フィオナの肩からも少しずつ力が抜けていった。
「そういえば、フィオナちゃんって、どこの出身なの?」
「えっ……」
突然尋ねられ、フィオナの指先がわずかに止まる。
「あの……西のほうです。ただ、あまり詳しくお話しできることはなくて……」
「そっかそっか。まあ、いろいろあるよね」
クレアはそれ以上踏み込むことなく、すぐに自分の話へ切り替えた。
「あたしは北の山裾の生まれなんだ。とにかく雪ばっかりでさ。冬なんて、朝起きたら家の扉が開かないこともあったんだから!」
「扉が……?」
「雪に埋まるの。だから二階の窓から外に出るんだよ」
「それは……大変ですね」
「子どもの頃は楽しかったけどね。屋根から雪の山に飛び込んだりして」
「危なくないんですか?」
「今思えば、かなり危なかったかも!」
屈託なく笑うクレアにつられ、フィオナの頬にも自然な笑みが浮かぶ。
その様子を見ていた周囲の若者たちも、次々と会話に加わってきた。
「なあ、フィオナちゃん。ジーク様のお屋敷って、やっぱり仕事は厳しいのか?」
「葡萄の世話もしてるんだろ? この辺りの気候じゃ、大変じゃないか?」
「ルスさんって、昔はすごい騎士だったって本当?」
「いつもあんなに完璧なの? 慌ててるところを見た事がないけど」
一度にいくつもの質問を投げかけられ、フィオナは困ったように目を瞬かせる。
「ええと……ジーク様は、厳しいというより……」
どう答えればよいのだろう。
仕事について細かく口を出すことはほとんどない。むしろ放っておかれることのほうが多いが、フィオナやミオが困っていれば、何も言わずに手を貸してくれる。
「とても、お優しい方です。ただ……少し、言葉が足りないことはありますけど」
「ああー、やっぱりそうなんだ」
「分かる気がする!」
なぜか皆が納得したように頷いた。
「葡萄のことは、私はまだ勉強中で……。ですが、ルスさんやロッテさんが丁寧に教えてくださいます」
「じゃあ、ジーク様とルスさんって、どっちが強いの?」
「え、えと。剣だけならルスさん、何でもありならジーク様とお聞きしています」
「ほらやっぱり! ジーク様って只者じゃないんだって!」
「でもルスさんも相当なもんなんだろ?」
「お前、一回挑んでこいよ。剣士目指してるんだから。勝ったら一気に名が上がるぞ」
「バカっ! 無茶言うなよ! 笑い者になるだのがいい所だろ」
言葉が重なるたび、店内に笑いが広がっていく。
初めはどう返せばよいのか戸惑っていたフィオナも、やがて彼らの質問が詮索や悪意から来るものではなく、純粋な好奇心によるものだと分かってきた。
それからは、少しずつ自分からも言葉を返せるようになった。
料理を取り分ける手が交差し、空になった杯には誰かが勝手に酒を注ぐ。香ばしい料理の匂いに葡萄酒の甘い香りが混ざり合い、店の中には、まるで一斉に花が咲いたような賑わいが広がっていく。
屋敷で皆と囲む、穏やかな夕餉も好きだった。
ミオの話を聞き、ロッテの料理に舌鼓を打ち、ルスが微笑み、ジークが面倒そうに本を閉じる。あの静かで温かな時間は、今ではフィオナにとって、かけがえのないものになっている。
けれど、こんなふうに声を上げて笑い、遠慮なく食べて飲んで、ときには肩を叩き合うような宴は、まるで別の温かさを持っていた。
これはきっと、フィオナが初めて心から触れた“祝祭”なのだ。
そのとき、少し離れた席から陽気な声が上がった。
「酒神様も、きっと今夜は上機嫌だな!」
誰かが冗談めかしてそう言うと、店内がどっと沸いた。
「そりゃあ今年の酒は格別だもんね!」
「今頃、酒神様も飲み過ぎちゃってるかもな!」
「てことは、ちょっと悪さしても今日はバレないってことか?」
「あぁ。試してみたらいいんじゃないか? 俺は責任取れねぇけどな」
さらに笑い声が膨らむ中、一人の青年が高々と杯を掲げる。
「何にせよ、今年も美味い酒が飲めた! 酒神様に感謝だ!」
それを合図に、周囲の者たちも一斉に杯を持ち上げた。
「酒精祭を祝して!」
「酒精祭を祝して!」
幾つもの声が重なり、杯のぶつかり合う澄んだ音が店いっぱいに響き渡る。
フィオナも皆に倣って杯を持ち上げ、笑顔で乾杯した。
だが、ふと先ほどの言葉が気にかかり、隣のクレアへ顔を向ける。
「あの……酒神様というのは?」
「あれ、知らない?」
クレアが意外そうに目を丸くした。
「この町じゃ、子どもでも知ってる昔話だよ。酒精祭の由来にも関わってるんだって」
「どのようなお話なんですか?」
「この辺りって、ずっと昔から酒造りが盛んでしょ。それでね、祭りの夜になると、“酒神様”が町へ降りてくるっていう伝説があるの」
クレアは声を少し落とし、秘密を語るように身を乗り出した。
「酒神様は正体を知られないように、顔を隠して人混みに紛れるんだって。それで、町を歩きながら、その年のお酒の出来を確かめて回るの」
「顔を……隠して?」
「うん。古いお話だと仮面をつけて、深い頭巾をかぶって人になりすますみたい」
その言葉を聞いた瞬間、フィオナの胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
「それで、悪いことをしてる人には、立てなくなるまでお酒を飲ませるんだって」
「神様が、ですか?」
「そうそう。逆に、正しく生きてる人や、真面目に酒を造った人には、祝福の杯を注いでくれるの。その杯を飲めば、一年間病気をしないとか、願いがかなうとか……話す人によって違うんだけどね」
「そんな伝承が……」
フィオナの頭の中に、昼間の光景が蘇る。
祭りの広場の端。
建物の柱の陰に立ち、深くフードをかぶっていた人物。
顔には仮面のようなものをつけ、誰とも話さず、酒や料理にも手を伸ばすことなく、ただ静かにこちらを見つめていた。
あのとき胸に刺さった、不可思議な視線。
「あの……」
考えるより先に、言葉が口をついて出た。
「私、その酒神様を……見たかもしれません」
それまで賑やかだった店内が、不意に静まり返った。
「……え、本当に?」
最初に声を上げたのはクレアだった。
「どこで見たの?」
「広場です。深いフードをかぶっていて、顔も仮面のようなもので隠していました。誰とも話さずに、柱の陰からこちらを……」
「でも、あれって昔話だろ?」
「祭りの日だから、仮装してる人がいただけじゃないのか?」
「そもそも、実際に見たって人を聞いたことないしなあ」
皆が顔を見合わせ、信じたいような、信じきれないような表情を浮かべる。
フィオナ自身も、口にしてから急に恥ずかしくなってきた。
「や、やはり、私の見間違いかもしれません。変なことを言ってしまって……」
「そうとも限らないんじゃないかい?」
カウンターの奥から、ロゼの落ち着いた声が届いた。
彼女は洗っていた皿を置くと、棚に飾られた一本のワインボトルへ視線を向け、その表面をそっと撫でる。
「フィオナちゃんは、ジーク様のお屋敷で働いてるんだろう?」
「はい……」
「あの屋敷の葡萄畑は、今じゃ酒造りをする連中から“聖地”なんて呼ばれてるんだよ。この土地では育たないと言われていた葡萄を育てて、王都の貴族まで欲しがる酒を造ってるんだからね」
ロゼはどこか楽しそうに目を細めた。
「そんな場所に仕える子なんだから、神様が姿を見せたって、そう不思議な話でもないかもしれないよ」
「えっ、そ、そんな……」
フィオナが慌てて両手を振るより早く、若者たちが再びわっと沸き立った。
「やっぱり本物だったんじゃないか!」
「すげえ! 酒神様って本当にいるんだ!」
「じゃあ、フィオナちゃんは祝福されてるってことだな!」
「いいなぁ。どんな願いをかなえてもらうの?」
「い、いえ、私はそんな……!」
次々と飛んでくる言葉に、フィオナは顔を真っ赤にして俯いた。
もちろん、あれが本当に神だったなどとは思っていない。
祭りの伝承に合わせて仮装していた者がいただけかもしれないし、ただの見間違いかもしれない。
けれど──。
思い返してみれば、あの視線は不気味なだけのものではなかった気もする。
胸に突き刺さるような強さはありながら、敵意や悪意とはどこか違っていた。
まるで、フィオナのことを以前から知っているかのような。あるいは、何かを確かめるような──そんな静かな眼差しだった。
(……そんなこと、あるのかな)
答えの出ない疑問を胸に残したまま、フィオナはそっと杯を口へ運んだ。
店内が再び賑わいを取り戻してから、しばらく経った頃。
クレアが何気なく壁へ目を向け、そこに掛けられた時計を見た途端、大きく息を呑んだ。
「……大変! もうこんな時間!」
「えっ?」
フィオナも時計を見上げ、思わず席から立ち上がった。
ほんの少しだけ立ち寄ったつもりだったのに、気づけば一時間以上が過ぎている。
「そ、そんなに経っていたんですか……?」
「ごめんね、フィオナちゃん! あたしも、すっかり話し込んじゃって」
広場を離れる前、ルスへ何も告げていない。
ミオのことは任せているとはいえ、これだけ長い間戻らなければ、心配をかけているに違いなかった。
「私、戻らないと……。すみません、長居してしまいました」
「何を言ってるんだい」
慌てて頭を下げるフィオナに、ロゼはにこやかに笑った。
「フィオナちゃんもこれでうちのお得意さんさ。またいつでもおいで」
「ありがとうございます。お料理も、本当においしかったです」
「あぁ、またね」
フィオナが玄関へ向かうと、クレアもすぐに席を立ち、軽い足取りで後を追ってきた。
「広場まで、あたしが送っていくよ」
「えっ……でも、クレアさんも皆さんと──」
「いいの、いいの。フィオナちゃん、まだ道を覚えてないでしょう?」
「それは、そうですけど……」
「祭りの日とはいえ、女の子一人で歩くには暗い道もあるからさ。それに、もう少しだけ話しながら帰りたいし」
クレアが屈託なく笑う。
その笑顔に、フィオナもほっと頬を緩めた。
「……では、お願いします」
「うん。任せて!」
二人が扉へ手をかけると、店の中から次々と声が飛んでくる。
「気をつけて帰れよー!」
「フィオナちゃん、また来てね!」
「今度は俺とも飲んでくれよ!」
「あたしの作ったお菓子も食べに来て!」
「こら、あんたたち! 一度に話したら聞こえないだろ!」
ロゼの大声に、また店内が笑いに包まれた。
名残惜しさを覚えながら、フィオナは扉の前でそっと振り返る。
「皆さん、今日はありがとうございました」
小さく、けれど心を込めて頭を下げる。
顔を上げると、ロゼや若者たちは、誰もが変わらぬ笑顔で手を振ってくれていた。




