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第32話 町の人じゃないわね

「フィオナ、今度はいつ町に来るの?」


 ロゼの店を出てからも、クレアの話は尽きることがなかった。


「大通りの向こうに、かわいい雑貨屋さんがあるんだ。髪飾りとか、小さな置物とか、いっぱい置いてあるの。今度、一緒に行こうよ!」


「行ってみたいです!」


 フィオナも目を輝かせたものの、すぐに少し考えるように首を傾げる。


「でも、次いつ町へ来られるかは分からないので……ルスさんに聞いてみますね」


「うん、約束だからね!」


「はい、約束です」


 二人は顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。


 祭りの余韻が残る夜の通りには、遠くから太鼓や笛の音がかすかに届いている。軒先に吊るされた紙飾りが夜風に揺れ、通りの隅では酒に酔った男たちが、肩を組みながら陽気な歌を口ずさんでいた。


 昼間ほどの人通りはなくなっていたものの、町のあちこちから笑い声が聞こえてくる。


 頬を撫でていく初夏の風には、甘い葡萄酒と、祭りの料理の香りがほんのりと残っていた。


「フィオナ、こっち」


 前を歩いていたクレアが、通りの途中で足を止める。


「近道があるんだ。ちょっと暗いけど、すぐ着くよ」


 そう言って彼女が指したのは、大通りから枝分かれする細い路地だった。


 両側を古い石造りの建物に挟まれ、先の様子まではよく見えない。祭りを彩っていた明かりも、路地の入口を少し照らすだけで、その奥には月の光さえほとんど届いていなかった。


「こ、ここを通るんですか?」


「うん。昼間はよく使う道だから大丈夫。足元に気をつけてね」


「……はい」


 フィオナは一瞬だけためらったものの、クレアの後に続いて路地へ足を踏み入れた。


 石畳の道を抜ける夜風が、火照った頬を冷ましていく。ほんの少し前まで間近に聞こえていた祭りの音も、建物に遮られたのか、急に遠くなったように感じられた。


 響くのは、二人分の足音だけ。


 楽しげに続いていた会話もいつしか途切れ、フィオナは暗がりの先へ目を凝らした。


 理由は分からない。


 けれど、先ほどまでの浮き立つような気分に、冷たい雫が一滴落ちたかのような、かすかな胸騒ぎを覚えていた。


「もう少しだから」


 クレアが振り返り、安心させるように笑う。


 そのときだった。


 路地の奥から、いくつもの足音が聞こえてきた。


 現れたのは、五人ほどの男たち。


 誰もが背中に大きな荷袋を担ぎ、重そうに肩を丸めて歩いている。帽子や外套の襟で顔を隠すように俯き、祭りの夜だというのに、誰一人として言葉を交わしていなかった。


 行商人だろうか。


 向こうもフィオナとクレアの存在に気づいているはずなのに、顔を上げようともしない。狭い路地ですれ違おうとしているというのに、道を譲る素振りも見せなかった。


 男たちとの距離が縮まっていく。


 一歩。


 また一歩。


 そして、先頭の男がフィオナの横を通り過ぎようとした瞬間──背筋を冷たい感覚が駆け抜けた。


(……何?)


 頭で考えるよりも先に、身体が警告を発していた。

 胸の奥がざわめき、指先が冷たくなる。


 このまま彼らを通り過ぎさせてはいけない。


 なぜか、そう思った。


「あの……」


 フィオナは、すれ違おうとしていた男へ声をかけた。


 男の足が止まる。


 他の男たちも一斉に動きを止めたが、誰もこちらへ顔を向けようとはしなかった。


「よい、夜ですね」


 フィオナは胸の鼓動を押さえながら、できる限り平静を装って微笑む。


「──酒精祭を祝して」


 フィオナの挨拶に、先頭の男がゆっくりと顔を上げた。

 帽子の陰から覗く顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。


「……ああ。良い祭りの夜だな」


 男はそう答え、軽く会釈した。


 そして何事もなかったかのように、再び歩き出そうとする。


 だが、後ろに控えていた男たちは明らかに落ち着きを失っていた。互いの顔を窺い、何かを待つように何度も足を踏み替えている。


 誰一人、フィオナの言葉を返そうとしない。


(やっぱり……おかしい)


 今日は皆が同じ言葉で挨拶を交わしていた。

 誰かと杯を交わすときも、道ですれ違うときも。

 町の者はもちろん、祭りを訪れた客なら、町へ入った時点で一度は耳にしているはずの言葉だった。


 フィオナの胸のざわめきが、確かな警戒へと変わっていく。


「待って」


 クレアの鋭い声が、静かな路地へ響く。


 男たちの足が、再びぴたりと止まった。


「あなたたち、町の人じゃないわね。それに、祭りへ来たお客でもない」


 先ほどまでの快活な様子は消え、クレアは男たちをまっすぐに睨みつけていた。


 先頭の男がわずかに眉を動かしたものの、すぐに困ったような笑みを作る。


「何を言ってるんだ。俺たちは麦の行商人だよ。隣町から運んできたばかりで、祭りについてはよく知らないんだ」


「今日、隣町から来たの?」


「ああ。急ぎの注文が入ってな。日が暮れる前に町へ入ったんだ」


 男は淀みなく答える。


 けれど、クレアの表情は少しも緩まなかった。


「嘘ね」


「……何?」


「今日は酒精祭だから、町へ入る門は昼過ぎに閉じてるの。荷馬車や行商人が通れば祭りの邪魔になるから、商人は昨日までに入る決まりよ」


 クレアは路地の出口を塞ぐように、一歩横へ動いた。


「それに、夕方まで町の入口にいた警備隊の人も、急ぎの荷物が届いたなんて、一言も言ってなかったわ」


 静寂が落ちた。


 どこか遠くで鳴っているはずの太鼓の音さえ、今は耳に届かない。


 男たちは動かなかった。


 一人が小さく息を呑み、別の男が担いでいた荷袋を握り直す。布が擦れる音が、妙に大きく路地へ響いた。


 数秒の沈黙が、凍りついたように流れていく。


 やがて、先頭の男から低い舌打ちが漏れた。


「……面倒な小娘だ」


 穏やかだった笑みが消える。


 代わりに浮かんだのは、薄く歪んだ冷たい笑みだった。


「せっかく祭りに浮かれた連中の目を盗んで、穏便に済ませようと思っていたんだがな」


 クレアの顔が強張る。


「──フィオナ、走って! 誰か人を!」


 叫ぶと同時に、クレアがフィオナの手をつかんだ。


 二人は来た道へ向かって駆け出そうとする。


 だが──遅かった。


「逃がすな!」


 男の怒声が響く。


 背後にいた男たちが荷袋を投げ捨て、一斉に飛びかかってきた。


「──っ!」


 フィオナはクレアに引かれるまま一歩踏み出したものの、すぐに背後から腕をつかまれた。


 太い腕が腰へ回され、身体が地面から浮き上がる。


「離して……っ!」


 必死に身を捩るが、男の力はあまりにも強かった。


 両腕を背中へねじ上げられ、鋭い痛みが肩を走る。声を上げようと口を開いた瞬間、鼻と口を布で覆われた。


「んっ……!」


 鼻を突く、甘く不快な匂い。


 息を止めようとしたものの、驚きと恐怖で乱れた呼吸は、わずかに布越しの空気を吸い込んでしまった。


 視界の端では、クレアも二人の男に押さえ込まれている。


「放して! 誰か──!」


「暴れるな!」


 クレアの叫びも、すぐに布で塞がれた。


(クレア……!)


 助けなければ。


 そう思っているのに、指先から急速に力が抜けていく。


 男の腕を振りほどこうとしても、身体が思うように動かない。石畳がぐにゃりと歪み、暗い路地が大きく傾いていく。


(嫌……)


 だめだ、ここで気を失ったら……


 フィオナは必死に目を開けていようとした。


 けれど、祭りの灯も、遠くの音楽も、誰かの笑い声も、厚い霧の向こうへ沈んでいくように消えていく。


(ジーク、様……)


 最後に脳裏へ浮かんだのは、屋敷に残してきた彼の姿だった。


 やがて体から完全に力が抜け、フィオナの意識は、深い夜の底へと落ちていった。

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