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第33話 ごめんなさい、もうしません

「……道は予定どおりだ。盗品は馬車ごとに分けて積め。女どもは、国境手前の中継地で売り捌く」


 低く押し殺した声が、夜の森に響いた。


 町から続く街道を外れ、獣道をしばらく進んだ先。鬱蒼と茂る木々に覆い隠された空き地に、幌をかけた馬車が数台停められていた。


 荷台に積まれているのは、祭りの夜に町から盗み出された品々だ。


 積荷に偽装した麻袋や酒樽の陰には、金銀細工を詰め込んだ木箱や、硬貨で膨らんだ革袋が隠すように押し込まれている。暗がりの中では判別しにくいものの、中には商家の紋章が刻まれた箱まであった。


 祭りに浮かれた町を荒らし、夜明け前には国境を越える。


 すべて、初めから計画されていたのだろう。


 フィオナとクレアは馬車の脇に転がされ、後ろ手に縛られていた。口にはきつく布を噛まされ、叫ぶことすらできない。


「しかしまあ……こっちの娘も悪くないが」


 一人の男がランタンを持ち上げ、クレアの顔を照らしたあと、その光をゆっくりとフィオナへ移した。


「こいつは別格だな」


 べたつくような視線が、頭の先から足元までを這っていく。


 到底人を見る目ではない。

 物を品定めする目だった。

 荷台に積まれた盗品と同じように、幾らで売れるかを測るだけの、冷たく濁った眼差し。


 フィオナは身を縮め、少しでもその視線から逃れようとした。


「惜しいな。獣人じゃなけりゃ、かなりの値がつくだろうに。ったく、邪魔だなっ!」


 別の男が鼻で笑い、地面に垂れたフィオナの尻尾を靴先で踏みつけた。


「──っ!」


 激痛に身体が跳ねる。


 反射的に尻尾を引こうとしたものの、男は逃がすまいと力を込め、さらに靴底を捻った。


「はははっ、そんなに痛ぇのか? まぁ家畜みたいな価値しかない、獣人に産まれた自分を呪え」


「待て待て、お前、何も分かってねえな」


 仲間の一人が、下卑た笑いを浮かべる。


「あんまり乱暴に扱うな。こういうのを欲しがる客もいるんだよ。人間より頑丈で、壊しがいがある。女の獣人の奴隷だってだけで、余計に金を出す物好きもいるからな」


「へえ。じゃあ、こいつは高値がつくってことか」


「耳と尻尾をちゃんと残しとけばな」


 男たちの笑い声が重なる。


 その声を聞いた瞬間、フィオナの身体から急速に熱が失われていった。


(嫌……)


 記憶に蘇ってくるのは、血と黴の臭いがこもった薄暗い部屋。


 首に嵌められた鉄輪。

 足首を擦る鎖。


 床を引きずられる音と、皮の鞭が空気を切り裂く音。


 機嫌を損ねれば殴られた。

 泣けば笑われた。


 痛いと訴えれば、口答えをした罰だと、さらに痛めつけられた。


(また……戻るの?)


 あの場所へ。

 命令と暴力に怯えながら、次に何をされるのかだけを考えていた日々へ。


(嫌……。嫌、嫌……!)


 逃げなければ。


 そう思うのに、身体は石のように動かない。


 喉は布で塞がれているだけではなく、恐怖そのものに締めつけられていた。息を吸うたび胸が痛み、目の奥が熱くなる。


 けれど、その滲んだ視界の端に、クレアの姿が映った。


 少し離れた馬車の前で、彼女も男に肩を押さえつけられている。


 栗色の髪は泥に汚れ、頬を涙が伝っていた。


 ロゼの店で明るく笑っていた瞳は、今では恐怖に濁り、助けを求めるようにフィオナを見つめている。


(クレア……)


 胸の奥が、締め付けられるように痛む。


 この先自分達の身に起こるだろう事を、フィオナは知っている。耐える方法も、心を殺す方法も知っている。


 けれどクレアは違う。


 町で生まれ、育ってきた“人間”だ。


 彼女にはロゼがいる。

 店で待っている仲間たちがいる。

 笑って帰ることのできる場所があり、明日も続くはずの日常がある。


(駄目……)


 それを壊させてはいけない。


 自分がもう一度あの地獄へ落ちることよりも、クレアに同じ思いをさせてしまうことのほうが、ずっと恐ろしかった。


 ジーク様。

 ルスさん。

 ロッテさん。

 ミオ。


 屋敷で過ごした、穏やかな日々が胸をよぎる。


 過去の自分なら、諦めていただろう。

 命じられるまま、ただ恐怖が過ぎるのを待っていた。


 だが、今は違う。


(私はもう……黙って連れていかれるだけの、奴隷じゃない)


 震える脚へ、無理やり力を込める。


 男たちは盗品の積み替えに気を取られていた。

 クレアを押さえている男も、仲間との会話に顔を向けている。


 今しかない。


「──ッ!」


 フィオナは地面を蹴った。


 後ろ手に縛られたまま身体を大きく捻り、肩から男の脇腹へぶつかる。


「ぐっ……!」


 不意を突かれた男がよろめき、クレアを押さえていた男へ激突した。


 三人の身体がもつれ合い、そのまま地面へ倒れ込む。


 衝撃でフィオナの口を塞いでいた布が外れ、クレアの猿轡も顎までずり落ちた。


「クレア、逃げて!」


 喉が裂けるほどの声で叫ぶ。


 クレアは地面に倒れたまま、呆然とフィオナを見つめていた。


「早く!」


 その声に我へ返り、クレアは地面を這うように立ち上がる。


 足をもつれさせながらも、暗い森の奥へ駆け出した。


 だが、数歩進んだところで足を止め、振り返ってしまう。


「フィオナ……! フィオナも!」


「私はいいから、逃げて!」


 それでも、遅かった。


「逃がすな!」


 怒声とともに、二人の男が飛び出した。


 クレアは必死に走ったものの、後ろ手に縛られたままでは木々の間をうまく抜けられない。


 すぐに髪をつかまれ、後ろへ引き倒された。


「いやっ!」


 細い身体が地面へ叩きつけられる。


「離して! 誰か、助け──」


 叫び声は、男の手によって乱暴に塞がれた。


 クレアは必死に身体をよじり、泥を蹴り上げた。けれど二人がかりで押さえ込まれ、手首と足首へ新たな縄を巻かれていく。


「逃げられると思ったのか!」


「やめて! お願い、やめて!」


「大人しくしてりゃ、痛い目に遭わずに済んだんだよ!」


 クレアの悲鳴が、夜の森へ響き渡る。


「クレア!」


 フィオナは立ち上がり、彼女のもとへ駆け寄ろうとした。


 しかし背後から髪をつかまれ、強引に引き戻される。


「あっ──!」


 身体が宙を浮き、背中から地面へ叩きつけられた。


 肺の中の空気が一気に押し出される。


「か……はっ……!」


 息ができない。


 視界が白く弾け、背中から全身へ鋭い痛みが走った。


「よくもやってくれたな、この畜生が!」


 怒鳴り声とともに、胸元へ蹴りが突き刺さる。


「──っ!」


 身体が地面を滑った。


 息を吸おうとすると、肋骨の奥が焼けるように痛む。胃の中のものが逆流し、口元から苦い液体がこぼれた。


「おい、やめろ! 売り物にならなくなるだろうがっ!」


「うるせえ! こういうのは最初に思い知らせておかねえと! 躾が大事なんだよ、躾がっ!」


 男の影が、フィオナの上へ落ちる。


 その足音が近づいてきただけで、身体が勝手に縮こまった。


(駄目……)


 私は、もうただの奴隷じゃない。

 必死に振り払おうとするが、記憶は容赦なく蘇ってくる。


 靴音。

 怒鳴り声。

 振り上げられる腕。


 次にどこを殴られるのか分からず、頭を抱えて床へ伏せていた自分。


 許しを請えば少しは早く終わる。

 逆らわなければ、命だけは残る。


 そうやって何度も身体へ刻み込まれた習慣が、フィオナの意思を押し潰していく。


(違う……)


 今は違う。


 私は、ジーク様のお屋敷のメイドで、お勤めを果たして……。もう、奴隷じゃ……。


 そう言い聞かせようとした。


 けれど身体は聞いてくれなかった。


「……ごめんなさい」


 かすれた声が、勝手に喉から漏れた。


 男の足が止まる。


「……何だ?」


「ごめんなさい……もう、しません……」


 フィオナは地面へ額をつけ、頭を抱えるようにうずくまった。


「許して、ください……。もう逆らいませんから……」


 耳はぴたりと伏せ、尻尾は泥の上に力なく落ちている。


 全身が震え、歯の根が合わない。


 痛みにではない。

 男たちに囲まれ、見下ろされているというだけで、心が過去へ引きずり戻されていく。


「おい、見ろよ」


 一人が面白そうに笑った。


「急に大人しくなったぞ」


「おぉ、何だ? こいつ、もしかして元奴隷ってやつか」


 男たちの間から、愉快そうな笑い声が上がる。


「やめて……」


 クレアが地面に伏せたまま、涙を流して叫んだ。


「フィオナに、ひどいことしないで!」


「黙ってろ!」


 男がクレアの腹を蹴りつける。


「うっ……!」


 小さな呻き声を上げ、クレアの身体が丸まった。


「クレア……!」


 フィオナが顔を上げた瞬間、頬へ平手が飛んだ。


 乾いた音が夜気を裂く。


 視界が横へ弾け、口の中に鉄の味が広がった。


「誰が顔を上げていいと言った?」


「ご、ごめんなさい……」


「謝り方が違うだろ」


 男はフィオナの髪をつかみ、無理やり顔を持ち上げた。


「殴られたら、何て言うんだ?」


「……え……?」


「礼を言えよ。躾けてもらえてありがとうございます、ってな」


 男たちがどっと笑った。


「そいつはいい!」


「貴族の屋敷じゃ、そうやって仕込むところもあるって聞いたぜ」


「いいな、それ! もう一発やってみろよ」


 髪をつかむ手に力が込められる。


 フィオナの首が不自然に反り、涙で滲んだ視界に、男たちの歪んだ顔が並んだ。


「やめて……ください……」


「聞こえねえな」


「お願いします……」


 男の平手がフィオナの頬を打ち抜く。

 渇いた後が夜の森に響き渡った。


「だ、か、ら! 言葉が違うだろうが!」


 再び拳が振り上げられる。


 フィオナは咄嗟に目を閉じ、全身を固くした。


「……ありがとう、ございます。躾て頂き、ありがとうございます」


 その瞬間、男たちの笑い声が一斉に湧き上がる。


 わざと殴るふりをし、怯える姿を楽しんでいるのだ。


「見たか、今の!」


「やべっ! 俺興奮してきた! こりゃ、貴族どもがハマるのも分かるわ!」


「おい、次は俺にやらせろよ!」


「てか、もう値段とかよくないか? ここで壊しちまおうぜ!」


 男たちが輪を狭めてくる。


 泥に膝をついたフィオナの周囲を、いくつもの足が取り囲んだ。


 誰かが耳を乱暴につかみ、別の誰かが尻尾を踏む。逃れようとすれば髪を引かれ、頭を押さえつけられた。


 どこから痛みが来るのか分からない。


 いつ終わるのかも分からない。


「ごめんなさい……!」


 フィオナはただ、繰り返した。


「もうしません……。何でもしますから……許してください……」


 言葉を口にするたび、胸の奥で何かが崩れていく。


 屋敷で過ごした時間も。


 自分は変われたのだという思いも。


 すべてが、男たちの笑い声に踏み潰されていく。


「フィオナ! フィオナぁ!」


 地面に転がされたクレアが、涙を散らしながら叫ぶ。


「フィオナに乱暴しないで! お願い、もうやめてよ!」


「うるせえな!」


 男は苛立たしげに周囲を見回すと、盗品のそばに放り出されていた麻袋をつかみ上げた。


「これでもかぶってろ!」


「えっ──きゃっ!」


 袋が、クレアの頭から乱暴にかぶせられる。


 視界を奪われたクレアは、縛られた身体を必死に捩った。けれど男は麻袋の口を首元で絞り、簡単には外れないよう縄を巻きつけてしまう。


「んんっ! んーっ!」


「これで少しは静かになるだろ」


 男は鬱陶しそうにクレアを蹴り転がした。

 それでも地面でもがきながら、くぐもった声でフィオナの名を呼び続けている。


「さて……」


 男は手を払い、再びフィオナのもとへ戻ってきた。


「邪魔も入らなくなったことだし、続きを始めようぜ」


 その言葉に、周囲の男たちが下卑た笑いを漏らす。


 いくつもの足音が、泥の上で輪を狭めていく。


 フィオナは地面に膝をついたまま、肩を震わせていた。


 逃げる力は、もう残っていない。


 耳を伏せ、泥に額がつきそうなほど頭を垂れながら、ただ次に訪れる痛みを待っている。


「ごめんなさい……」


 掠れた声が、わずかに漏れた。


「お願いします……もう、逆らいませんから……」


 男の一人が屈み込み、フィオナの肩を乱暴につかむ。


「今度こそ、きっちり身体に覚えさせねえとな」


 笑い声。

 欲に濁った息遣い。

 土と汗の臭い。


 恐怖に震える身体と、胸の奥へ沈んでいく絶望。

 フィオナは固く目を閉じた。


 ──そのときだった。


 不意に、森から音が消えた。


 風が止まる。


 木々の葉も、虫の声も、遠くで鳴いていた夜鳥の声さえ、一瞬にして途絶えた。


「……?」


 フィオナの肩をつかんでいた手が止まる。


 あれほど騒いでいた男たちも、何かに気づいたように口を閉ざした。


 誰かが、息を呑む。


 森を満たす空気が、鋭く冷たい刃へと変わった。


 獣道の奥。

 月明かりさえ届かない、深い闇の中に。


 白い仮面をつけた何者かが、静かに立っていた。


 足音もなく。

 気配すら悟らせず。


 ただ、最初からそこにいたかのように。


 ──“現れた”のだ。

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