第34話 神様
──その気配が、森の空気を凍らせた。
羽音が、夜の静寂を鋭く切り裂く。
梢に身を潜めていた鳥たちが、何か途方もなく恐ろしいものから逃れるように、一斉に闇の空へ飛び立った。
虫の声が途絶え、風さえも止まる。
「……何だ?」
男たちが次々と顔を上げた。
物音がしたわけでもない。
声をかけられたわけでもない。
それでも、その場にいた全員が示し合わせたように、ゆっくりと同じ方向へ振り返った。
月光が差し込む、木立の隙間。
苔むした大木の根元に、ひとりの男が立っていた。
闇に溶け込むような黒衣。
顔を覆う、白い仮面。
簡素な仮面には何の装飾もなく、細く開いた目元だけが、底知れぬ暗闇を覗かせている。
感情を表すものは、何ひとつなかった。
怒っているようにも見えず、こちらを威嚇するでもない。
ただ静かに、そこに立っていた。
「ああ?」
盗賊の一人が、虚勢を張るように声を上げる。
「何だ、てめえ。祭りの仮装か?」
「迷い込んだなら、さっさと失せろ。今なら見逃してやるぞ」
仮面の男は答えない。
男たちに一瞥すら与えず、その向こうにいるフィオナだけを見ていた。
地面へうずくまり、泥に汚れた身体。
伏せられた耳。
力なく垂れた尻尾。
腫れ上がった頬と、唇の端に滲んだ血。
縄の食い込んだ手首。
そして、心まで折られたように震えながら、今も許しを請おうとしている姿。
仮面の奥の視線が、フィオナの頬に止まった。
それだけだった。
次の瞬間、森を満たしていた空気が、別のものへと変わっていく。
「……っ、何だよ。何か文句でもあんのか」
盗賊たちの笑みが消える。
肌を刺したのは、夜の冷気ではない。
言い様のない気配が、森いっぱいに満ちていく。
「……酒神、様……?」
フィオナが、かすかな声を漏らした。
祭りの広場で、柱の陰から自分を見つめていた仮面の人物。
目の前にいるのは、間違いなくあの男だった。
一瞬の沈黙のあと、盗賊たちから嘲るような笑い声が上がる。
「はっ! 酒神だとよ!」
「こいつが神様? 随分と薄気味悪い神様だな!」
「おい仮面野郎。神様ごっこなら町でやってろ!」
仮面の男は微動だにしなかった。
ただ、フィオナの髪をつかんでいた男の手へ、ゆっくりと視線を移す。
「……何だよ」
見られただけだ。
それなのに男の声が、わずかに震えた。
指先から力が抜け、フィオナの髪が男の手を離れる。
「な、何をびびってやがる!」
仲間の一人が叫び、剣を抜いた。
そうしないと、武器すら構えていないたった一人の相手に、逃げ出してしまいそうだった。
「──もういい! 面倒だ、殺せ!」
数人の男たちが武器を構え、一斉に仮面の男へ向かって駆け出す。
だが、一歩目を踏み出した瞬間。
「ぐっ……!」
先頭の男が、突然地面へ膝をついた。
続いて、剣を振り上げていた男も、見えない何かに押さえつけられたように倒れ込む。
「な、何だ……身体が……!」
「重い……! 立てねえ!」
次々と男たちが地面へ引きずり倒されていく。
場の空気が全て重くなったわけではない。
フィオナの身体には、何の圧力もかかっていない。
ただ盗賊たちだけが、途方もない力で大地へ押しつけられている。
膝が泥へ沈む。
両手をついて耐えようとすれば、腕ごと地面へめり込んでいく。
剣を握っていた指が開き、武器が乾いた音を立てて落ちた。
「な、なんだこれ……!」
「う、動けねえ!」
「誰か! 何とかしろ!」
「おい、止めろ……折れ、折れるっ!!」
つい先ほどまで、フィオナたちの懇願を笑っていた男たちが、今度は必死に許しを請い始める。
しかし、仮面の男は何も答えなかった。
視線を、フィオナへ戻す。
腫れた頬。
泥に汚れた服。
踏みつけられた尻尾。
その傷をひとつ確認するたびに、盗賊たちを押さえつける力が増していった。
「ぎゃあああっ!」
悲鳴が重なる。
地面が低く軋み、男たちの身体がさらに沈んでいく。
「息が……! やめ、助け……」
一人が、呼吸も絶え絶えに叫んだ。
「お、俺は関係ねぇ! ただの雇われで……」
「ふざけるな! 自分だけ助かろうとか」
「俺は何もしてねえ!」
責任を押しつけ合う声が飛び交う。
その醜いやり取りを、仮面の男は黙ったまま見下ろしていた。
やがて、ほんのわずかに目を細める。
次の瞬間──大地が震えた。
轟音とともに地面が円形に陥没し、盗賊たちの身体が一斉に叩き伏せられる。
何かが砕ける渇いた音。
悲鳴は、一瞬だった。
十数人いた男たちは、誰一人として立っていなかった。
意識を失った者。
恐怖に耐えきれず、泡を吹いている者。
辛うじて意識を残しながらも、泥の中で指一本動かせず震えている者。
剣を振るうことも。
逃げることも。
戦うことすら許されなかった。
仮面の男は、最初に立っていた場所から一歩も動いていない。
黒衣には、土埃ひとつついていなかった。
あまりにも一方的だった。
(……何が、起きたの……?)
フィオナは地面に伏したまま、声を失っている。
武装した十数人もの男たちが、たった一人を相手に、何ひとつできず倒された。
剣も抜かず、呪文を唱えてもいない。
指先さえ動かしていない。ただ、そこに立っていただけ。
それだけで、すべてを終わらせた。
恐ろしい。
全身がそう訴えていた。
指先が震え、呼吸が浅くなる。
目の前にいる存在は、人の姿をしている。
けれど、その力は到底、人に許されたものとは思えなかった。
(……酒神様)
祭りの夜に現れ、人々へ祝福の杯を与える神。
だが、目の前の存在は、そんな穏やかな神ではない。
(……違う。お酒の神様なんかじゃ、ない)
圧倒的な力。
有無を言わさず相手を捩じ伏せ、ただ立つだけでその場を支配する……まるで。
(戦の……神様……)
そうとしか思えなかった。
その仮面の奥にある瞳が、ゆっくりとフィオナへ向けられる。
「──っ」
フィオナの身体が、反射的に強張った。
あれほどの力を目にしたあとでは、視線を向けられただけで息が止まりそうになる。
けれど、フィオナへ注がれた眼差しには、盗賊たちへ向けられていた凍えるような殺気はなかった。
そこにあったのは、深く沈んだ痛みだった。
まるで、自分自身が傷つけられたかのように。
仮面の男は、静かにフィオナの前まで歩み寄った。
一歩。
また一歩。
男たちを押し潰した重圧は、フィオナには一切触れない。
黒衣の裾が泥の上を滑り、やがて彼女の目の前で止まった。
仮面の男は何も言わない。
ただ膝をつき、フィオナの腫れた頬へ手を伸ばしかける。
けれど、触れる直前でその手を止めた。
怯えさせまいとするかのように。
指先が、ほんのわずかに震えていた。
「あなたは……」
フィオナが声を絞り出そうとした、そのとき。
森を強い風が吹き抜けた。
舞い上がった木の葉が、視界を一瞬だけ覆う。
反射的に目を閉じ、再び開いたとき──仮面の男の姿はもうなかった。




