第35話 あぁ。酒精祭を祝して
「……それで、森の奥に仮面をつけた方が現れて……」
町へ戻ったフィオナは、肩に掛けられた毛布を握りしめながら、途切れ途切れに森で起きたことを語った。
「私は目隠しをされていたから、何も見えなかったんだけど……」
隣に座るクレアが、まだ青ざめた顔で続ける。
「袋を外してもらったときには、男たちは全員倒れてたの。本当に、一瞬だったみたい」
二人の証言を聞いた自警団の面々は、すぐさま馬と松明を用意し、盗賊たちが残されているという森へ向かった。
祭りの盛りはすでに過ぎていた。
広場を赤々と照らしていたかがり火も小さくなり、先ほどまで鳴り響いていた太鼓や笛の音も止んでいる。町には少しずつ夜の静けさが戻り始めていたが、行方の分からなくなっていた二人が戻ったと知り、広場には大勢の人々が集まっていた。
「二人とも、よく無事で……!」
「怪我をしてるじゃないか。誰か、冷たい水と布を!」
「怖かっただろう。もう大丈夫だからね」
次々に声をかけられ、手を握られ、背中を優しくさすられる。
ロゼの店で出会った若者たちも、顔を強張らせながら二人のそばへ駆け寄ってきた。クレアを見つけたロゼは何も言わずに抱きしめ、その背を何度も撫でている。
皆が二人の無事を喜び、傷ついた姿を案じ、ただ寄り添ってくれる。
その優しさが、フィオナの胸の奥へ深く染み込んでいった。
「ありがとうございます……」
込み上げてくる涙を堪えながら、フィオナは何度も頭を下げた。
「本当に……ご心配をおかけして、申し訳ありません……」
「謝ることなんてないよ」
「そうだ。悪いのは、あんたたちをさらった連中なんだから」
そう言ってくれる声が、今は何よりも温かかった。
「フィオナさん……!」
人々をかき分けるようにして、ルスが駆けつけてきた。
いつも乱れひとつない彼の髪はわずかに崩れ、穏やかな顔にも珍しく焦燥が浮かんでいる。
「私がついていながら、危険な目に遭わせてしまうとは……。なんという不覚でしょう」
フィオナの前まで来ると、ルスは深々と頭を下げた。
「本当に、申し訳ありません」
「そ、そんな……! 顔を上げてください!」
フィオナは慌てて首を振る。
「ルスさんは何も悪くありません。勝手に広場を離れてしまった、私のほうこそ……」
「いいえ。フィオナさんをお預かりしていたのは私です」
「でも、私がひと言お伝えしていれば……」
「それを言うなら、私がもっと注意を払っていれば──」
二人が互いに頭を下げ合う様子に、周囲から小さな笑い声が漏れた。
「二人とも、その辺にしておきなよ」
ロゼがクレアの肩を抱いたまま、困ったように笑う。
「今は誰が悪かったかを決めるより、悪党どもを捕まえるほうが先だろう?」
「……おっしゃるとおりです」
ルスは表情を引き締め、森へ向かう自警団へ視線を向けた。
この町の自警団は、普段なら酔客の喧嘩を止めたり、迷い込んだ獣を追い払ったりする程度である。武器を持った盗賊を相手にすることなど、滅多にない。
「私も同行いたします」
ルスが申し出ると、自警団の者たちは露骨に安堵した様子で頷いた。彼が一緒ならば武力でも法的な話でも、何も心配する事はないと皆安心したようだ。
「そういえば、ミオは……?」
はっとして尋ねると、ルスはフィオナを安心させるように微笑んだ。
「ミオさんのことなら、ご心配には及びません。ロッテさんと合流していますよ」
「ロッテさんと……?」
「ええ。フィオナさんが見つかるまでは起きて待つと言って聞かなかったそうですが、今夜はロッテさんのご実家に泊めてもらうことになりました」
「そうですか……」
フィオナは大きく息を吐き、胸を撫で下ろした。
自分がいないと知って、ミオはどれほど不安になっただろう。今すぐ抱きしめて安心させたい気持ちはあったが、ロッテが一緒ならば、心配はいらないだろう。
「ありがとうございます、ルスさん」
「フィオナさんも、今夜はロッテさんの家へ行かれますか?」
ルスの提案に、フィオナは少し迷ってから、静かに首を振った。
「……いえ。私は、お屋敷へ戻ります」
「お一人で大丈夫ですか?」
「はい」
返事をしながら、フィオナは自分の胸元をそっと押さえた。
帰りたい。
どこよりも安心できる、あのお屋敷へ。
そして──。
(ジーク様に、会いたい)
口には出さなかった。
けれど、張り詰めた心が今いちばん求めているものだけは、はっきりと分かっていた。
◇ ◇ ◇
町の者に馬で送ってもらい、フィオナが屋敷へ戻った頃には、夜もすっかり深くなっていた。
玄関の扉を開けると、祭りの喧騒が嘘だったかのような静けさが迎えてくれる。
聞こえるのは、僅かな虫の音だけ。
廊下の奥からは、リビングのランプの明かりが淡く漏れていた。
フィオナは音を立てないように扉を開ける。
ジークは、いつもと変わらない姿で長椅子に腰掛け、分厚い本を読んでいた。
無造作な黒髪。
気だるそうに頁を追う横顔。
何も起きていない、いつもどおりの光景。
その姿を見た瞬間、フィオナの胸の奥で固く凍りついていた何かが、じわりと溶け始めた。
ここへ、帰ってこられた。
その事実が、ようやく実感となって押し寄せてくる。
「……祭りは、楽しめたか?」
ぱたん、と本を閉じ、ジークが視線だけをこちらへ向けた。
「──っ」
フィオナは咄嗟に顔を背けた。
まだ少し赤く腫れた頬を片手で覆い、毛並みの乱れた尻尾を背中へ隠そうとする。
「……はい」
できる限り明るく答えようとしたが、声は少し掠れていた。
「とても、楽しい時間でした……」
事件さえなければ。
その言葉が喉元まで浮かんだものの、フィオナは飲み込んだ。
少なくとも、それまでの時間が楽しかったことに嘘はない。
初めて踊り、町の人たちと話し、クレアやロゼたちと笑い合った。
あの時間まで、恐怖で塗り潰したくはなかった。
「そうか」
ジークは短く答えた。
いつもと変わらない、淡々とした声。
けれど今のフィオナには、その変わらなさが何よりもありがたかった。
何があったのかと問い詰められることも、傷を哀れまれることもない。
ただ、いつもと同じように迎えてくれる。
そのことに、心の奥から安堵した。
フィオナは肩に掛けられていた外套を脱ぎ、傍らのハンガーへそっと掛ける。
「ルスさんは……用があって少し遅くなります。ミオも、今夜はロッテさんのご実家に泊めていただくそうです」
「ああ」
短い返事が落ちる。
その響きは、普段よりもわずかに柔らかいように感じられた。
もう大丈夫。
ここは屋敷で、目の前にはジークがいる。
何度もそう言い聞かせる。
けれど、身体に残った恐怖は、理屈だけでは消えてくれなかった。
ハンガーから手を離したあとも、指先の震えが止まらない。
横腹には蹴られた痛みが残り、頬は心臓の鼓動に合わせるように熱を持っている。
目を閉じれば、暗い森と、男たちの笑い声が蘇った。
その向こうから、さらに古い記憶まで這い出してくる。
冷たい石床。
光の差し込まない部屋。
首輪を引かれ、物のように扱われ、痛みに声を上げることさえ許されなかった日々。
(大丈夫……)
フィオナは震える手を、もう片方の手で包み込んだ。
(ここは、あそこじゃない。私はもう、奴隷じゃないの)
「おい」
すぐ近くから声が聞こえ、フィオナは大きく肩を跳ねさせた。
「は、はいっ!」
耳がぴんと立ち、尻尾まで反射的に膨らむ。
振り返ると、いつの間にかジークが長椅子から立ち上がっていた。
片手には一本のワインボトル。
もう片方には、二つの小さなグラスを持っている。
ジークは何も言わず、そのうちの一つをフィオナへ差し出した。
「……え?」
「ルスたちは戻らないんだろう」
「はい……」
「なら、たまには付き合え」
フィオナは差し出されたグラスと、ジークの顔を交互に見つめる。
「でも、私……お酒は、あまり飲んだことがなくて……」
「無理に飲めとは言わん。口をつけるだけでもいい」
ジークはわずかに視線を逸らし、付け加えるように呟いた。
「酒は、何を飲むかより、誰と飲むかのほうが大事だ」
「……」
珍しく言葉を重ねるジークに、フィオナは目を見開いた。
「今日は、祭りだからな」
そう言われ、フィオナはおずおずとグラスを受け取った。
「……ありがとうございます」
グラスを包む指は、まだかすかに震えていた。
それを隠すように、フィオナは話題を探す。
「ジーク様は、祭りがお嫌いなのかと思っていました。朝も、あれほど行かないとおっしゃっていましたから……」
「嫌いというわけではない」
ジークは栓を抜きながら、面倒そうに答えた。
「俺が顔を出せば、皆が恐縮する。祭りくらい、好きに騒げばいい」
「では、皆さんに気を遣っていらしたんですね」
「……人混みが疲れるのも事実だ」
ぼそりと付け加える。
いかにもジークらしい答えに、フィオナの口元がわずかに緩んだ。
「何だ」
「いえ……何でもありません」
その小さな笑みを隠すように、フィオナはグラスへ視線を落とす。
「でも……少し、酒神様みたいですね」
「酒神?」
ジークはフィオナのグラスへ、ゆっくりとワインを注ぎ始めた。
とく、とく、と。
静かな部屋に、液体の満ちていく音が響く。
深い赤色の酒は、ランプの光を受けて宝石のような艶を帯びていた。グラスから立ち上るのは、熟した葡萄の甘さと、樽の木を思わせる落ち着いた香り。
ほんの少し香りを吸い込んだだけで、荒れていた呼吸が和らぐような気がした。
「町に伝わるお話です」
フィオナは赤い水面を見つめながら話す。
「酒精祭の夜に、顔を隠して町へ現れるそうです。人々に紛れて、その年のお酒の出来を確かめて回るのだと……」
「迷信だな」
「私も、そう思っていたのですが……」
フィオナの脳裏に、月明かりの下に立つ白い仮面が浮かんだ。
あの人物が何者だったのか。
なぜ自分たちを助けてくれたのか。
答えはまだ分からない。
「……だが、酒神は、いるぞ」
「え?」
フィオナが顔を上げる。
ジークは自分のグラスへ酒を注ぎながら、ほんのわずかに口元を緩めていた。
「ただの葡萄の汁が、これほど美味い酒に変わる」
グラスの中で、赤い液体が静かに揺れる。
「人間の技だけでなく、陽と水、大地と風、その年の気候までが揃わなければ、美味い酒にはならん。そんなものを神業と呼ばずして、何と呼ぶ」
冗談なのか、本気なのか。
相変わらず分かりにくい表情だったが、酒を見つめる眼差しには、確かな愛情が宿っていた。
その言葉を聞きながら、フィオナはふと書棚へ目を向けた。
いつもなら本が隙間なく収められている、最下段の端。
厚い書物の陰に隠れるようにして、見慣れない白いものが覗いている。
(あれ……?)
フィオナの視線が止まる。
白い、仮面。
森の月明かりの下で、自分を見下ろしていたものと、よく似ている。
そのすぐ脇には、わずかに泥のついた黒い外套が置かれていた。
今になって思えば、あの仮面の奥から注がれた眼差しにも、覚えがあった。
「……助けに、来てくださったんですね」
声にした途端、目の奥が熱くなった。
堪えていた涙が溢れ、ランプの明かりが滲んで見える。
ジークはフィオナの視線を追おうともせず、自分のグラスを眺めていた。
「……何のことだ」
返ってきたのは、いつもどおりの素っ気ない言葉だった。
それ以上、認めるつもりはないのだろう。
フィオナも追及しなかった。
仮面が偶然そこに置かれていたのか。
それとも、ジークがわざと見つかるように残したのか。
今は、どちらでもよかった。
……何も怖がる必要などないのだ。
森の中で、絶望の底へ沈みかけた自分を見つけ、助けに来てくれた。
帰れば、いつもと変わらず待っていてくれた。
私のご主人様は──この世界の誰よりも強くて、誰よりも不器用で、優しい人なのだから。
フィオナは流れた涙を指先で拭い、グラスを胸元へ抱くようにして微笑んだ。
先ほどまで震えていた手は、もう静かになっていた。
そして、ジークへ向けてそっとグラスを掲げる。
「酒精祭を祝して」
ジークもまた、ほんのわずかにグラスを持ち上げた。
「ああ。酒精祭を祝して」
澄んだ音を立てて、二つのグラスが触れ合う。
そのささやかな音は、静まり返った屋敷の中へ、いつまでも優しく響いていた。




