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第36話 酒神様は、悪しき者には酷い酔いを。善き者には、祝福の杯を

 真夜中を過ぎた頃──。


 フィオナは自室の寝台で、静かな寝息を立てていた。


 慣れない酒が回ったからか。それとも、長く張り詰めていた心が、ようやく緩んだためだろうか。


 枕に広がる栗色の髪も、毛布の脇から覗く耳も、今は穏やかに力を抜いている。殴られた頬にはまだ痛々しい赤みが残っていたが、それさえ窓から差し込む月明かりに包まれ、柔らかな陰影の中へ溶けていた。


 屋敷の外から、かすかに馬の嘶きが聞こえる。


 やがて砂利を踏む足音が近づき、玄関の扉が音を立てぬよう静かに開かれた。


「ただいま戻りました。遅くなり、申し訳ございません」


「……ああ。ご苦労だったな」


 書斎から、ジークの低い声が返る。


 ルスが中へ入ると、ジークは数時間前と変わらず、長椅子に腰掛けて分厚い本を読んでいた。


 傍らには飲みかけのワイン。


 暖炉には小さな火が残り、室内を淡く照らしている。


 その姿だけを見れば、彼が今夜一度でも屋敷の外へ出たとは、誰も思わないだろう。

 まるで時の流れさえ、彼の周囲だけを避けて通ったかのようだった。


 ルスは外套を脱ぎ、丁寧にハンガーへ掛ける。


「盗賊たちは、全員捕縛いたしました。自警団の者たちが、夜明けを待って領都へ護送する手筈となっています」


「そうか」


「盗品も、確認できた限りではすべて無事です。町の各所から持ち出した品々のほか、王都で盗まれたと思われる宝飾品も見つかりました」


 ルスはそこでわずかに眉を寄せた。


「しかし、王都で悪行を重ねていた窃盗団が、まさかこの町にまで入り込むとは……。祭りの混乱へ乗じるつもりだったのでしょうが、随分と大胆な真似をしたものです」


「追い詰められていたんだろう」


 ジークは本から目を上げないまま答える。


「王都では騎士団に顔が割れ、主要な街道も見張られていた。辺境の小さな町なら、警備も薄いと考えたらしい」


「なるほど。祭りの間であれば、見知らぬ旅人が増えても目立ちませんからね」


「ああ。盗みを働いた後、そのまま国境を越えるつもりだったようだ」


 数日前、王都の騎士団からジーク宛に一通の密書が届いていた。


 そこに記されていたのは、王都周辺を荒らしていた盗賊団が西へ逃亡したこと。そして次の標的として、酒精祭を控えた町を狙っている可能性が高いという報せだった。


 ヴァルト領のすぐ隣町を狙うとは何とも命知らずな盗賊達だが、あまりにも狭い界隈で生きる彼等には、孤高の悪魔の名は届いていなかったようだ。


 報せを受け取ったジークは、すぐに町の外へ網を張った。


 下っ端達が盗品を持ち寄り、仲間たちが一か所へ集まったところをまとめて潰す。

 逃走路と予想される森の街道を押さえ、連中が油断する瞬間を待つ。


 それだけの、簡単な仕事だった。


 当初はこの程度の仕事、ルスが片付けるつもりでいた。


 しかし、その申し出に対して返ってきたのは、いつもどおり素っ気ない言葉だった。


『いらん。俺一人で十分だ』


 そして少し間を置き、ジークは本へ視線を落としたまま続けた。


『お前はミオたちを連れて、祭りに行ってこい』


 他意などないと言わんばかりの声だった。


 けれどルスには、その理由が分かっていた。


 フィオナもミオも、酒精祭の日を以前から楽しみにしていた。


 特にミオは、祭りの話を聞いて以来、毎日のように屋台や踊りのことを尋ねていたのだ。


 ジークはただ、二人の楽しみを台無しにしたくなかっただけなのだろう。


 そして今、ルスは表情を曇らせ、ジークに深く頭を下げた。


「私がついていながら、フィオナさんをあのような目に遭わせてしまいました。ジーク様のご配慮を無駄にしたも同然です。弁解のしようもございません」


 本の頁をめくる音が、静かな書斎へ響く。


「お前のせいではない」


「しかし──」


「フィオナを連れ出したのは、一緒にいた町の娘だろう。お前が一日中、二人の手を引いて歩くわけにもいくまい」


 淡々とした口調だったが、声の底では、ルスを気遣っているようだ。


 ルスは顔を上げ、しばらくジークの横顔を見つめる。


「……フィオナさんたちが連れ去られたことには、すぐお気づきになったのですか?」


「いや」


 ジークは短く答えた。


「盗賊は幾つかの組に分かれていた。俺が見張っていたのは、待機場所の森にいた本隊だ」


「では、お二人が捕らえられたことは……」


「連中が森へ戻ってきたときに知った」


 本を持つジークの指が、わずかに止まる。


 森へ戻った盗賊たち。

 盗品に交じり、馬車のそばへ転がされた二人の少女。


 泥に汚れ、縛られたフィオナの姿を見つけたとき、彼が何を思ったのか。


 ジークは語らない。


 ただ、その沈黙だけで、ルスには十分だった。


「すぐに皆殺しにしてやろうかとも思ったが……」


 ジークは、珍しく言葉を濁した。


「もう一人の娘が、見ていた」


「クレアさんですか」


「ああ。直接見られれば、後々面倒な噂になる」


 ただでさえジークは、町の人々から常人離れした人物として見られている。


 その彼が、剣も持たずに数十人の盗賊を地へ伏せる姿など目撃されれば、どのような尾ひれがつくか分からない。

 

 人ならざる存在だと恐れられ、距離を置かれるならまだ良い。

 英雄として祭り上げられでもしたら、静かな暮らしからますます遠ざかってしまう。


「ですから、クレアさんの視界が塞がれるまで、お姿を現さなかったのですね」


「……だが、フィオナには悪い事をした」


 ジークはそう答えたものの、本の頁へ落とされた視線は険しい。


 その少しの間に、フィオナがどれほど怯え、傷つけられたか。


 彼自身が、誰より理解しているのだろう。


「次からは。この屋敷の者に手を出した奴は、即始末すとしよう」


 低く落とされた言葉に、ルスはそれ以上何も返せなかった。


 ジークが傍らのワインボトルを取り、空のグラスへ注ぐ。


「飲むか」


「いただきます」


 差し出されたグラスを受け取り、ルスは小さく会釈した。


 深い赤色の酒が、暖炉の光を映して揺れている。


「それにしても、さすがはジーク様です」


 一口だけ酒を味わってから、ルスは穏やかな微笑を戻した。


「自警団の者たちは、森の惨状を見て言葉を失っておりましたよ」


「惨状?」


 ジークが眉を寄せる。


「全員、生きているだろ」


「ええ。命に別状はないとのことでした。ただし、しばらくは自分の足で歩くことも難しそうですが」


「余罪を吐かせるにも、罪を償うにも、生きていたほうが都合がいい」


「ごもっともです」


 何でもないことのように答えるジークを見つめ、ルスは苦笑した。


 殺さずに制圧するほうが、遥かに難しい。


 まして数十人もの人間を、一人も逃さず、あれほど圧倒的な力で打ち伏せながら、死なせていないのだ。


 彼にとっては、それすらも取るに足らないことなのだろう。


「それにしても、よく合流のタイミングが分かりましたね」


「あぁ。ずっと町の外で退路を見張っていたからな」


「なるほど……」


 ルスは頷きかけ──ふと、グラスを口元へ運ぶ手を止めた。


「……おや?」


「何だ」


「いえ、少し妙だと思いまして」


 ルスは記憶を探るように、視線を宙へ向ける。


「私たちが町へ到着した頃、広場の外れに白い仮面をつけた方がおられたのです」


 ジークの頁をめくる手が止まった。


「フィオナさんも、その人物を目にしていたようでした。てっきり、町の様子を見に来られたジーク様だと思っていたのですが……」


 短い沈黙。


 やがてジークは、静かに顔を上げた。


「……俺は今日、町には入っていない」


「…………」


 その答えに、ルスの笑みが消えた。


 ジークが嘘をついている様子はない。

 何より、盗賊団を監視していたのなら、祭りの始まる頃にはすでに町の外へ出ていたはずだ。


 それでもルスは、確かに見た。


 広場の片隅。

 人々の輪から離れ、柱の陰に佇んでいた仮面の人物を。


 誰とも言葉を交わさず、酒にも料理にも手をつけず、ただ静かにフィオナを見つめていた。


 ルスの視線が、自然と書棚の最下段へ向かう。


 そこには、白い仮面が一つ、無造作に置かれていた。


 粗く削られた木の面に、目の部分だけを開けた簡素なもの。黒い布を張りつけて形を整えただけの、即席の仮面だった。


 しかし──。


(……違う)


 ルスが広場で目にしたものは、これではない。


 遠目ではあった。


 ほんの一瞬、目にしただけでもある。


 それでも、はっきりと覚えている。


 あの仮面は、もっと滑らかで、繊細な意匠が施されていた。

 月のように白く。

 古い祭具を思わせる、どこか神聖な気配をまとっていた。


 形は似ている。

 けれど、明らかに別物だった。


「どうした」


 ジークの声に、ルスは我に返る。


「いえ……」


 もう一度、書棚の仮面へ目を向ける。

 何の変哲もない、即席の仮面。


「なんだ、ルス。もう酔ったのか?」


 ジークの呆れたような言葉に、ルスは小さく肩をすくめた。


「まさか。これしきの酒で酔うほど、衰えてはおりませんよ」


「だろうな」


 そう言ってグラスへ視線を落とす。


 けれど、ルスの瞳は赤い酒ではなく、さらに深い夜の奥を見つめているようだった。


 ──酒神様は、祭りの夜に顔を隠して現れる。


 悪しき者には、二度と立ち上がれぬほどの酷い酔いを。善き者には、幸福をもたらす祝福の杯を。


 この町に古くから伝わる言い伝えが、ふと脳裏に蘇る。


 森で盗賊たちを打ち倒したのは、間違いなくジークだ。


 では、祭りの広場でフィオナを見つめていたものは──。


 ルスは、わずかに口元を緩めた。


「いえ。案外、本当に酔っているのかもしれませんね」


 その言葉の意味を尋ねることなく、ジークは再び本へ目を落とした。


 ぱらりと、頁が一枚めくられる。


 暖炉の火が小さく揺れ、二人の影を壁へ映し出す。


 書棚の隅には、粗末な白い仮面。


 そして窓の外には、雲間から姿を現した満月が、葡萄畑と静まり返った森を淡く照らしていた。

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