第78話 その方以外とは、踊りたくありません
だが──そのときだった。
ざわめく人々の向こう側で、不意に一本の〝道〟ができ始めた。
「…………?」
誰かが声を上げたわけではない。
道を空けろと命じた者もいない。
ただ、そこを歩く一人の男を認めた者から、まるで何かに押されるように自然と身を引いていく。
談笑していた貴族が口を閉ざし、グラスを傾けていた男が手を止める。先ほどまでフィオナへ好奇の視線を向けていた者たちまで、その男が近づくだけで無意識に道を譲っていた。
(……?)
フィオナも足を止める。
巨大なシャンデリアの光が、その男の姿を照らし出した。
漆黒の礼装。
無駄のない長身の身体。
背筋は真っ直ぐに伸び、黒髪を後ろで綺麗にまとめている。
歩き方そのものは、決して威圧的ではない。
それなのに、まるでその男を中心に空気そのものが変わってしまったような存在感があった。
(……すごいお方)
こんな状況だというのに、フィオナは思わず見入ってしまった。
(王族……?)
それとも、名のある大貴族だろうか。
少なくとも、自分などが気軽に声を掛けていい人物には見えない。
だが、その男は脇へ逸れることもなく、真っ直ぐフィオナへ向かって歩いてくる。
「…………」
そして、目の前で止まった。
(……え)
進路を塞がれた。
フィオナの獣耳が僅かに伏せる。
(まだ……何か言われるのかな)
もう十分だった。
さっきまで持て囃していた者たちは、自分が獣人と分かった途端に離れていった。
第二王女からは宴を汚したと罵られ、ようやくこの場を出られるところだったのに。
疲れ切った胸の奥に、ほんの少しだけ苛立ちが湧く。
「あの……」
それでもフィオナは礼を失わないよう、男を見上げた。
「何か御用でしょうか?」
「…………」
男は少しだけフィオナを見つめると、口元にごく僅かな笑みを浮かべた。
「なに」
低く、静かな声。
「踊りの一つも、どうかと思ってな」
そう言って、片手を差し出した。
「…………」
フィオナが瞬きをする。
(……ダンス?)
今、この状況で?
思わず周囲を見る。
多くの貴族たちがこちらを見ている。
獣耳も、尻尾も、もう隠れてはいない。
(……何のつもり?)
もしかして、獣人が貴族の真似をして踊る姿でも見て、笑おうというのだろうか。
そんな疑念が頭を過ぎる。
いつものフィオナなら、相手がどれほど失礼でも曖昧に笑っていたかもしれない。
けれど、今夜はもう、そんな余裕がなかった。
「……結構です」
「…………」
きっぱりと断った。
「そう言うな」
男は手を引っ込めない。
「せっかく来たんだ。一曲くらい──」
「お断りします」
「…………」
「私はもう帰ります。そこを退いてください」
「…………」
男が僅かに眉を下げる。
それでも。
「だが、せっかく練習してきたのだろう?」
「……え?」
一瞬、違和感を覚えた。
(どうして、この人……)
自分がダンスを練習していたことを知っている?
けれど、それを考えるより先に周囲から再び視線が集まり始めた。
(もう……!)
これ以上、見られたくない。
フィオナは思わず声を強めた。
「本当に結構です!」
「…………」
「私には──」
そこまで言って。
フィオナは言葉を止めた。
何故だろう。
胸の奥に、ふっと浮かんだ人がいた。
屋敷の椅子へだらしなく腰掛けて。
昼間から酒を飲んで。
気が向けば葡萄畑を眺め。
自分の作った料理を、ぶっきらぼうに褒めてくれる人。
何を考えているのか分からなくて。
無愛想で。
時々、とんでもなく子供っぽくて。
けれど。
いつだって、自分とミオを守ってくれた人。
「…………」
あの屋敷へ。
あの人のいる場所へ。
帰りたい。
どうしようもなく会いたいと思った。
(……ジーク様)
この気持ちを何と呼ぶのか。
フィオナには、まだ分からない。
けれど。
誰よりも大切で。
誰よりも信頼していて。
その姿を思い浮かべるだけで、帰る場所を思い出せる。
ならば。
自分の中にあるこの気持ちを表す言葉は、きっと──。
「……私には」
フィオナは胸元へ手を添えた。
「お慕いしている方がいます」
「…………」
男の表情が固まった。
フィオナ自身も。
口に出してから、胸がどくんと大きく鳴った。
自分で言っておきながら、その言葉が妙にくすぐったい。
でも。
間違っているようには、思えなかった。
「ですから……」
少しだけ頬を赤らめながらも、男を真っ直ぐに見る。
「その方以外とは、踊りたくありません」
「…………」
「申し訳ありませんが……そこを退いてください」
「…………」
一拍。
二拍。
「……なに?」
それまで泰然としていた男の顔が、目に見えて崩れた。
「そ……そうなのか?」
「え?」
「いや……」
男は明らかに狼狽し始めた。
「慕っている、相手が……」
「……はい」
フィオナが頷く。
男の表情が、ほんの僅かに引きつった。
「そうか……」
何故か視線を逸らす。
「それは……悪かった」
「…………?」
あまりにも急な変化だった。
つい先ほどまで。
近寄るだけで人々が道を空けるほどの威圧感を放っていた男が、今は妙に気まずそうに立っている。
(なんだろう……)
この感じ。どこかで。
(……声も)
聞いたことがあるような。
けれど男はそれ以上何も言わず、すっと横へ退いた。
「……邪魔をしたな」
「あ……」
フィオナは戸惑ったものの、今は一刻も早くこの場を離れたい。
「……失礼します」
小さく頭を下げ、その横を通り過ぎようとした──その瞬間。
「──フィオナ!!」
「ひゃっ!?」
聞き慣れた声が飛んできた。
人混みを掻き分けるように、スカーレットが駆け寄ってくる。
「ス、スカーレット様?」
フィオナの腕を掴み、まず顔を見る。
次に、隣に立つ男を見る。
そして、もう一度フィオナを見る。
「…………」
「……?」
「君は……」
スカーレットが珍しく言葉を失った。
「ど、どうされたんですか?」
「それはこっちの台詞だ!」
「えっ」
「君こそ何をしている!?」
「何って……」
フィオナは困惑する。
「こちらの方にダンスへ誘われたので、お断りして……」
「…………」
スカーレットが額を押さえた。
「相手をよく見ろ」
「え?」
「…………」
男は妙に気まずそうな顔で頭を掻いていた。
「……本当に分からないのか?」
「何がですか?」
「…………」
スカーレットは深く息を吐く。
「ジーク殿だ」
「…………」
一拍。
フィオナが瞬きをする。
「…………」
二拍。
男を見る。
長身。
漆黒の礼装。
整えられた髪。
気怠さなど欠片も感じさせない佇まい。
「…………」
三拍。
「──ええええええっ!?」
大広間に、フィオナの叫び声が響き渡った。
「ジ、ジーク様!?」
「あ、ああ……」
男──ジークが、妙に歯切れ悪く頷く。
「嘘っ!?」
「嘘ではない」
「だ、だって……!」
フィオナは思わず上から下まで見てしまう。
いつものジークといえば、少しくたびれたシャツに、適当に整えた髪。
屋敷の椅子へだらしなく座りながら、酒を飲んでいる姿。
それが。
今、目の前にいる男は。
(……別人みたい)
驚くほど。
──格好いい。
「…………」
そう思った瞬間、フィオナの顔が熱くなった。
「ど、どうされたんですか!? こんなところに!」
「いや……」
ジークは少しだけ視線を逸らした。
「なに」
らしくもなく、言葉を探している。
「せっかくの機会だ」
「……?」
「お前が……」
一度、咳払いする。
「その格好で宴にいるところを見るのも、一興かと思っただけだ」
「…………」
「それだけだ」
妙に早口だった。
「…………」
フィオナの胸が、小さく跳ねた。
(ジーク様が……会いにきてくれた)
先ほどまで、あれほど痛かった胸の奥が急に熱くなる。
会いたいと思った。
帰りたいと思った。
その人が。
今、目の前にいる。
けれど。
ジークはそんなフィオナの様子には気づかず、むしろどこか落ち込んだように目を逸らしていた。
「だが……」
「……?」
「邪魔したようだな」
「え?」
「慕っている相手がいるのだろう」
「…………」
「なら」
ジークが踵を返す。
「俺のことは気にするな。せっかく来たんだ。そいつと楽しんで──」
「──っ、ジーク様!!」
「……何だ?」
振り返るより早かった。
「……!」
フィオナは、衝動のままその背中へ飛びついた。
「なっ!?」
両腕で。
ぎゅっと。
ジークの身体を抱き締める。
「お、おい。フィオナ?」
ジークの身体が完全に固まった。
「どうした?」
「…………」
「俺のことなら、別に気にする必要は──」
「──もぉ!!」
「……!?」
背中へ顔を埋めたまま、フィオナが小さく叫ぶ。
それは。
貴族たちの前で見せていた丁寧な令嬢の声ではなかった。
いつもの屋敷で。
だらしないジークへ呆れるときの、いつものフィオナだった。
「何で今更なんですか」
抱き締める腕に、少しだけ力が入った。
「遅いです……」
「…………」
ジークは何も言わない。
ただ。
背中にしがみつくフィオナの腕へ、そっと手を添える。
「……そうか。悪かった」
それだけだった。
けれど、その声はいつもよりほんの少しだけ優しかった。
「…………」
フィオナの震える肩越しに。
ジークの表情が静かに、ほんの僅かにほころんだ。




