第79話 私の、大切なお友達です
フィオナがジークの背中から僅かに離れ、ようやく張り詰めていた空気が綻ぶ。
その二人だけを見れば、どこか温かな光景だった。
けれど──。
大広間の空気は、完全に凍りついていた。
「…………」
誰も声を出さない。
いや。
出せない。
目の前に現れた男の正体を知る者は青ざめ、知らない者でさえ、周囲の異様な反応からただならぬ人物であることを察していた。
そんな沈黙の中。
「ヴァ……」
掠れた声がした。
「ヴァルト侯……!?」
上座。
第二王女カトリーナが、椅子から立ち上がっている。
先ほどまでフィオナを見下ろしていた余裕など、どこにもない。
「な、なぜ……」
黄金色の髪を揺らしながら、一歩。
さらに一歩。
「なぜヴァルト侯が、このようなところに……!?」
慌てて壇を下りようとして足をもつれさせ、危うく転びそうになる。侍女が支えようとしたものの、それすら振り払ってジークのもとへ駆けてきた。
「…………」
ジークは、そんなカトリーナを見ても僅かに眉を動かしただけだった。
「なぜと言われてもな」
いつもの調子で答える。
「毎年のように招待状を送ってきていただろう」
「…………!」
「まさか、あれは悪戯だったのか?」
「い、いいいいえっ!」
カトリーナがものすごい勢いで首を振った。
「滅相もございません!」
「そうか」
「も、もちろんでございます! ヴァルト侯にお越しいただけるなど、この上なき光栄! 本日は、その……よ、ようこそお越しくださいました……!」
「…………」
フィオナがジークの背中からそっと顔を出す。
(カトリーナ様……)
先ほどまでとは、まるで別人だった。
けれど。
カトリーナがここまで取り乱すのも無理はない。
レガーレイ王国にとって、ジーク・ヴァルトという男はそれ程までに恐ろしい男なのだ。
機嫌を損ねていい相手ではない。
敵に回すなど。
そもそも選択肢として考えてはいけない存在である。
「それより」
ジークが口を開く。
「──っ!」
それだけで、カトリーナの背筋が跳ねた。
「先ほど」
ジークの視線が、ゆっくりと彼女へ向く。
「ローゼンベルク領との〝今後の付き合いを考える〟と言っていたな」
「…………」
カトリーナの顔から、すうっと血の気が引いた。
「具体的に、どうするつもりだった?」
「…………っ!」
静かな問いだった。
怒鳴ったわけでも、睨みを効かせた訳でもない。
ジーク自身に至っては──。
(ローゼンベルクとの取引に何か影響が出るのか?)
その程度の話だった。
関税を上げるつもりなのか。
物流を制限するのか。
もしそうなら、今後ワインを卸す値段も考えなければならない。
その程度。
しかし。
周囲の人間が受け取った意味は、まるで違った。
『ローゼンベルク領との付き合いを考える』
その言葉を。
ヴァルト侯と長く親交のあるローゼンベルク伯へ。
よりにもよって。
ヴァルト侯本人の目の前で口にした。
「…………」
大臣らしき男の一人が、顔面蒼白になっている。
別の男は無言で額の汗を拭っていた。
そして誰かが、早足で大広間を出ていく。
国王を呼びに走ったのだろう。
(……?)
ジークだけが、その騒ぎの意味を理解していない。
「どうした?」
「め……」
カトリーナの唇が震える。
「滅相もございませんっ!」
声が裏返った。
「ご、ご誤解でございます!」
「誤解?」
「ええ! ええ、もちろんです!」
必死に笑顔を作る。
少し前まで、高座にふんぞりかえって貴族たちを鼻で笑っていた少女とは思えないほどだった。
「わ、私はローゼンベルク伯との関係を悪化させようなどとは、決して!」
「だが、付き合いを考えると」
「ゆ、友好です!」
「……何?」
「より一層!」
勢いよく言い切る。
「より一層、友好を深める必要があるという意味でございます!」
「…………」
「なにしろ!」
カトリーナは、今度はフィオナへ目を向けた。
「こちらのお嬢様には、本日、大変な働きをしていただきましたから!」
「わ、私……?」
急に話を振られ、フィオナが目を丸くする。
「もちろんですとも!」
カトリーナが大きく頷く。
「倉庫へ忍び込んだ賊を見つけ、王宮のために力を尽くしてくださった! その功績には、私も大いに感謝しております!」
「…………」
つい数分前。
『獣人風情が』
と言っていた人物である。
「ですので!」
カトリーナは止まらない。
「後日、改めてローゼンベルク伯ともお話をして、今後より良い関係を築いていければと! ええ!」
そして、恐る恐るジークを見る。
「そ、そうですわ! その折には……ぜひ、ヴァルト領とも親しくお付き合いを! 是非一度ご挨拶に──」
「要らん」
一言。
カトリーナの動きが止まった。
「…………」
「……はい」
そして、小さくなった。
ジークは特に気にした様子もなく、フィオナへ視線を落とす。
一方。
会場の者たちは、ただただ戦慄していた。
ヴァルト侯に取り入ろうとした第二王女が、たった一言で切り捨てられた。
「…………」
もはや、咳払い一つすら躊躇われる空気である。
そんな中。
「……あっ」
フィオナが何かを思い出したように顔を上げた。
「ジーク様!」
「なんだ?」
「少し待っていてください!」
「……?」
ジークが首を傾げる。
フィオナはその場から離れると、人垣の向こうへ小走りで向かっていった。
「セシリア様!」
「え?」
そこにいた白金髪の少女の手を取る。
「フィ、フィオナさん?」
「こちらへ!」
「えっ? ちょっと……」
戸惑うセシリアを連れ、再びジークの前まで戻ってくる。
セシリアは目の前の男を見るなり、緊張に身体を強張らせた。
「…………」
そして。
すぐにドレスの裾を整え、深く膝を折ろうとする。
「第五王女、セシリア・ノルデン・アルトラウムと申します。ヴァルト侯にお目通り叶いましたこと──」
「セシリア様!」
「えっ?」
フィオナが慌ててその腕を取った。
「そんなに畏まらなくても大丈夫です!」
「ですが……!」
「ジーク様は、そういうの気にしませんから!」
「おい」
ジークが僅かに眉を寄せた。
「間違ってはいないが、お前が言うな」
「あっ……すみません」
「…………」
セシリアが、思わず小さく笑った。
その姿を見てフィオナも笑う。
「あの、ジーク様」
「なんだ?」
「改めて。こちらが、セシリア様です」
「……ああ」
「今日、私にとても良くしてくださったんです。最初にお会いしたときからずっと優しくしてくださって……」
そこで。
フィオナは少し照れくさそうに笑った。
「私の、大切なお友達です」
「…………!」
セシリアの瞳が大きく開かれる。
「フィオナさん……」
小さな声。
フィオナはそれに気づかず、ジークを見上げたまま続ける。
「本当に、たくさん助けていただきました」
「そうか」
ジークはセシリアへ視線を向ける。
「世話になったな」
「……!」
ただそれだけ。
短い言葉だった。
けれど。
あの〝孤高の悪魔〟本人から礼を言われたのだ。
周囲では何人かの貴族が目を見開いている。
「と、とんでもございません」
セシリアは深く頭を下げた。
「むしろ本日は、私の方こそフィオナさんに何度も助けていただきました」
「そうか」
「はい」
「…………」
「…………」
僅かな沈黙。
「……あの!」
フィオナが声を上げる。
「ジーク様」
「今度、セシリア様をお屋敷へお招きしてもいいですか?」
「…………」
「ミオにも紹介したいですし、ロッテさんのお菓子も食べてもらいたくて。それに、葡萄畑も──」
「──要らん」
「…………」
フィオナの笑顔が固まった。
「……え?」
セシリアも僅かに息を呑む。
「…………」
「…………」
ジークは顔を少し逸らした。
「ジーク……様……。その……」
フィオナの獣耳が、しゅん、と伏せる。
「そう……ですか」
そのやり取りを見て、セシリアは姿勢を正し、大きく礼をしてその場を去ろうと下がる。
しかし。
「フィオナの友人なのだろう?」
ジークは気に留める様子もなく続ける。
「はい」
「なら」
セシリアを見る。
「招待など要らん」
「…………」
「俺の許可も必要ない」
そして。
いつもと変わらない、ぶっきらぼうな声で続けた。
「気が向いたときに来ればいい」
「……!」
「フィオナの友人なら、うちの客だ」
ほんの僅かに、声が柔らかくなる。
「いつでも歓迎する」
「…………」
セシリアは、しばらく何も言えなかった。
やがて。
胸の前で両手を重ねる。
「……ありがとうございます」
その笑顔は、今夜フィオナが見た中でも、ひときわ嬉しそうなものだった。
「ぜひ……伺わせてください」
「ああ」
何気ない、ほんの数言の会話。
けれど。
それを聞いていた王宮の人間たちにとっては、とても〝何気ない〟では済まなかった。
「…………」
第五王女セシリア。
王宮内では決して強い立場にあるとは言えない王女。
その彼女が。
各国の王族ですら面会を望んでも容易には会えないヴァルト侯本人に。
『いつでも来い』
そう言わしめた。
ざわり。
周囲に、今度は先ほどとは種類の違うざわめきが広がっていく。
『第五王女殿下が……』
『ヴァルト侯の屋敷へ?』
『いつでも、と……』
『これは……』
ハイネルが、その様子を横目に見ながら僅かに口元を上げる。
スカーレットも何も言わない。
ただ、王宮の中でセシリアを見る目が、明日から大きく変わるだろうことは二人とも理解していた。
そして、当の本人たちは。
「ミオ、きっと喜びます!」
「ミオさん?」
「はい。私の妹です」
「まあ」
「とっても可愛いんですよ!」
「フィオナ」
「はい?」
「話はまた今度にしろ」
「あっ……」
フィオナが周囲を見る。
何百もの視線。
「…………」
獣耳がぴくりと動く。
「……はい」
少し赤くなった。
ジークはそんな彼女から視線を外すと、改めて大広間を見渡した。
楽団も。
貴族も。
使用人も。
未だに誰一人、どうしていいか分からず固まっている。
「…………」
ジークが眉を寄せる。
「何をしている?」
「……え?」
カトリーナが声を漏らした。
「宴は夜通しやるのだろう」
「…………」
数秒、誰も動かなかった。
ジークの眉間に皺が寄る。
「違うのか?」
「い、いえっ!」
カトリーナが飛び上がる。
「楽団! 何をしているの! 続けなさい!」
「は、はいっ!」
指揮者が慌てて腕を振り上げる。
次の瞬間。
止まっていた旋律が、恐る恐る大広間へ戻ってきた。
一つ。
また一つ。
グラスが持ち上がり、止まっていた人々の会話も再び始まる。
けれど。
その場の誰もがもはや生誕祭どころではない。
第二王女に追い出されかけた一人の獣人の少女。
その少女を迎えに現れた、〝孤高の悪魔〟。
そして、その男から。
何の気負いもなく〝いつでも遊びに来い〟と言われた第五王女。
誰も口にはしなかった。
けれど、この夜。
たった一夜、いや、ほんの数刻にして。
王宮の中に渦巻く力関係が、ひっくり返るほどに大きく動いたのだった。




